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2002年12月1日 日曜礼拝メッセージ

「救い主イエス」



 新約聖書 ルカ2章11節、詩篇40編1〜3節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三師

今日から「アドベント」、主のご降誕を待ち望む時に入りました。今年は毎週の礼拝の中でクリスマスの祝福を一緒に分かち合いたいと思います。今日は「救い主」、来週は「愛の贈り物」、3週目が「希望のある人生」、4週目が「神の祝福」、24日のキャンドルサービスには「本当のクリスマス」をご一緒に学んでいきます。

切なる思いで

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2章11節)

これは本当に素晴らしい訪れです。キリストは今も生きておられ、心開く者達に救いの御業を成して下さるのです。私たちは救い主をしっかりと心に宿し、「かつては喜んだ時もあった」ではなく、イエス様が救い主である事を心から喜び感謝し、また隣人に「この救いを伝えたい」という思いにまでならせて頂きたいと思います。

「私は切なる思いで主を待ち望む。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。私は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40篇1〜3節)

これはダビデ王が書き記した詩です。彼は自分の命を2回狙われました。1度目はサウル王。2度目は実子アブシャロムの謀反です。この詩がどちらの時かは分かりません。どちらにしても、絶望の中で歌ったのがこの詩です。『私は切なる思いで主を待ち望んだ』ダビデはあの手この手ではなく神様に目を向けるしかない状況に追い込まれ、苦しみと悲しみのどん底で彼は叫んだと思います。私たちの人生の中にも同じ事が何度かあるのではないでしょうか。 どこに行けば良いのか分からない。どうやってこの困難を乗り越えていけば良いのか分からない。ただ心は苦しみいたたまれない状況の中にいるかもしれない。その時に大事なのは『切なる思いで主を待ち望む』事です。

どんな状況にあっても待ち望む事ができる方をダビデも私たちは知っているのです。天地を造られ、私たちを造られた方はどんな事でもできるお方です。私たちは絶望の中にあってもこの方を見上げる事ができるとは何と幸いな事でしょう。ダビデは『主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり』・・彼は叫んだのです。私たちが本当に辛いとき、苦しい時というのはあまり綺麗なお祈りはできません。「神様どうしてですか!なぜですか!」とすがっていく祈りです。神様はその叫び、心の飢え渇き、心の願いを聞き届けて下さいます。聖書は『主は私のほうに身を傾け』・・と言っているのです。

「聞きたくない」と言うのではなく、私たちの方に身を乗り出して「何だい。言ってごらん」と聞いて下さろうとしているのです。そして『私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださ』り、『そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされ』たのです。「巌」とは、磐石な、何物にも揺るがされない場所、ということです。神様はそこに置いて下さったです。

状況は変らず酷い状況にあるかもしれません。でもダビデは「大丈夫。主が私をその場所に置いて下さった。私の祈りを聞いて下さった」と語るのです。その結果『主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう』ということばが出てくるのです。神様は私たちに賛美のくちびるを与えて下さるのです。 私たちが出会っている困難や苦しみの中で、それを乗り越え「主よ、感謝します」と賛美する力を下さると言っているのです。神様は「救い主」です。私たちにどんな問題があれ、どんな苦しみがあれ、神様がその「救い主」である事をしっかりと心に受けとめさせて頂きましょう。その時に、ダビデと同じように『主は私の口に新しい歌、われらへの賛美を授けられた』と告白する事ができるのではないかと思います。

あなたの口にその様な賛美がわき上がっていますか。その様な喜びがありますか。このダビデの祈りや思いに、私たちもまた目を留める必要があると思います。ダビデは「切なる思いで」主を待ち望みました。あなたは神様に対してどういう姿勢でいますか。「神様も助けになるかもしれない」・・これですと神様に“切に”という所まではいかないでしょう。でも「もう他にはない。絶望だ」と思うのであれば、「神様!」とすがりついて行くのではないでしょうか。それが幸いなのです。

皆さんが今その様な窮地に陥っているならば、そのように叫べると思います。そしてそれはあなたに大きな祝福、大きな賛美を授ける。問題は私たちが神様にソッポを向き、多くの問題や苦しみを直面せずに「なるようにしか成らない」と諦めの心がかなりの割合で占めいることなのではないでしょうか。そして『切なる思いで』主を待ち望む事が少なくなってはいないでしょうか。あるいは神様が私たちに与えて下さるクリスマスの恵みを「何度も聞いて分かっている。知っている」という所に留めてしまい、それを小さくないがしろにし、結果としてその恵みに与れなくなってはいないでしょうか。

ルーベンス・グレゴリーの話をしてみたいと思います。彼は牧師の息子でした。小さい頃から教会に行き、信仰告白もし、洗礼も受けていましたが心から神様に向かってはいなかった。そして次第に教会からは遠ざかってしまいました。彼が求めたものはブロード・ウェイの華やかさでした。そこで成功も収め活躍もしましたが、17年後に彼はアパートの一室でクリスマスの夜にドアに釘を打ちつけていたのです。彼は麻薬中毒に冒されていたのでした。同じビルの他の住人たちがクリスマスの準備をしている間、彼は金槌を出してドアが開かないように打ちつけました。死ぬところを誰にも邪魔されたくなかったのです。紙ナプキンに遺言を書きなぐり、テーブルの上に置きました。クリスマスの日、一日中ベッドでひざを抱え込んで最後の日を待ちました。時折キリストの降誕を祝う賛美歌や、「メリークリスマス」などの挨拶が部屋の中まで微かに聞こえてきました。

夜が来て部屋が暗くなりました。彼の中の痛みは最早耐えられないものとなりました。いよいよ最後の時だと思いました。電話が鳴ったようですが、しばらくは気がつきませんでした。ようやく音に気がつき、何かに急き立てられるように彼は受話器を取りました。「クリフトンか?」兄のカーラインの声が震えていました。「みんなが心配をしている。お母さんは夕べお前が死にそうになっている夢を見たそうだ。」彼は電話を切ろうと思いました。兄は牧師です。説教のせの字も聞きたくはありませんでした。「家族はみなノースカロライナのジャクソンビルに集まっている。みんな心配で誰もプレゼントを開けないでいるのだ。これから皆でお前の為に祈ろうとしているのだ。」「兄さん。放っておいてくれよ。」「神様は今も変らずお前を愛している。お前に生きていて欲しいんだよ。神様はその事をお前に知らせなさいというのだ。」「何だって? 神様が何だと言うんだ。もう何もないのさ。全部見つくしたし、全部やりつくした。なぜ電話なんか。」


兄は言いました。「クリフトン、神様が言っているのだ。ダニエル書12章3節だ。読むから聞いてくれ。『思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。』」兄はそれっきり黙りましたが、また口を開きました。「クリフトン。神様はお前にその『星(スター)』になって欲しいと思っておられるのだ。」彼には何の事なのか分かりませんでしたが、何かが彼に触れたようでした。「ひざまずいて一緒に祈らないか?」彼はフラフラしながらも床にひざまずきました。祈る言葉もなかったので、「主よ。この罪人を憐れんで下さい。」とだけ祈りました。突然彼は堰をきったように泣き崩れ嗚咽を上げ祈り続けました。少しづつ神様から逃げていた恐るべき歳月から解放されていくようでした。イエス・キリストが側に立っておられるのが感じられました。そしてイエス・キリストはこれまでの年月ずっと変らず彼の側に居続けて待っていてくれた事を一点の疑いもなく確信できたのです。

「主よ。私の人生をあなたにお任せします。御心のままにして下さい。このように弱い人間ですから明日になればまた麻薬に手を出すかもしれません。けれど主よ。もし今日1日私を導き守って下さるのなら明日またあらためて一切をあなたに委ねてやってみます。」冷たい所に座っている彼の頭に優しい手が触れたようでした。体中が言葉では言えない安らぎに満たされました。祈りながら知らない間に受話器を置いたうようです。彼の頭はこの数年になくはっきりとしていました。不思議にコカインの必要は感じませんでした。その夜私はどうにかロサンジェルス空港にたどり着き、ジャクソンビル行きの飛行機に乗りました。家族の暖かく心優しい支援を受けて、一日、また一日と新たに自分の人生と生活をイエス・キリストに捧げる決意をする事が出来ました。神様は御言葉の通り日々真実でした。2週間後に彼は麻薬依存症から完全に解放されたのです。そして主の元に留まる彼に不思議な形で新しいドアが開かれていきました。

・・・神様は彼から一時も離れていませんでした。ただ彼の心が神様から離れていたのです。神様に切なる思いで心を向ける事がなかった。だから神様の愛も神様の平安も味わう事が出来なかった。でも彼は正直に「こんな罪人を憐れんで下さい」と主の前に切なる思いで出た時に神様は、ただちに彼の心を癒されたのです。これから8年後「アーメン」というテレビ番組のパーソナリィーとして神様の愛を伝える伝道者として立ち上がっていきました。

神様は今もおられます。クリスマスとはその神様が地上に来て下さった証しの時です。イエス様は“インマヌエル”と呼ばれると書かれています。“インマヌエル”とは「神は私たちとともにおられる」という意味です。神様は本当に私たちと共にいてくださるのです。でも私たちが心を開かなければ神様が見えません。でもルーベンス・グレゴリーのように、あるいは多くの方のように、この方に心を向ける時に神様は一瞬にしてその心を満たす事が出来ます。神様には不可能がないのです。どんな境遇にあろうと、どんな人であろうとも神様に触れられたら私たちは一瞬にして変えられていく事ができるのです。

イエス様は“救い主”です。たとえ皆さんが持っている問題がどんな問題であったとしても、その問題の“救い主”です。大切なのは私たちがその方に心を開いて手を伸ばしてイエス様の救いを自分のものとして受け取るか否かです。ルーベンス・グレゴリーのすぐそばにいつもあったのです。でも彼はそこに触れる事はありませんでした。心開く事がなかったからです。私たちももしかするとこのイエス・キリストの尊い福音をないがしろにしてしまっている事はないでしょうか。「かつては私も喜んでいた事があった」では十分ではありません。神様は

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(Iテサロニケ 5章16〜18節)

と言って下さっています。キリストの時代に「愛の教会」と称されたエペソの教会は、素晴らしい教会でありました。その教会に宛てた言葉が黙示録に出てきます。

「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたか思いだし、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうででなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのとこrに行って、あなたの燭台をその置かれた所からとりはずしてしまおう。」(黙示録2章3〜5節)

もし私たちがどんな問題であれ、神様に明渡し委ねて「助けて下さい」と叫び神様に任せていくならば、いつでも私たちの救い主になって下さいます。私たちはいつのまにか、そんなに熱烈にするよりも“適当に”する事が多くなってしまったのではないでしょうか。ダビデのように切なる思いで主を待ち望む姿勢と心を持つ事が必要であり、その様な心を持たせて下さいと祈ろうではありませんか。

私を救ってくださる方は主キリストです。そしてこの地上に来て全ての弱さ、全ての災いをご自分の身に受けて下さったのです。問題は私たちがその惨めで哀れな姿を「そうでした。私はそんな者でした。憐れんで下さい。赦して下さい。助けて下さい。悲しいのです。辛いのです。寂しいのです」と切なる思いでこのお方を待ち望む事が必要なのです。神様はその時にダビデが語ったように、『私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた』と私たちもまた告白する事ができるのです。あなたは今神様との関係がしっかりとしているでしょうか。本当に切なる思いでこの神様を追い求めて行きましょう。そして神様の愛にしっかりと与っていくお互いにされていきたいと思います。
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