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2002年12月8日 日曜礼拝メッセージ

「愛の贈り物」



 旧約聖書 詩篇2章1節〜12節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

 あちらこちらで「ジングル・ベル」の曲が流れる季節がやってきました。「今年はどんなプレゼントを貰えるかな?」 それを考えるだけでも楽しくなります。このような華やかさの反面、年間自殺者が3万人もいます。死を選ぶにはそれなりの理由があるでしょう。言葉では言い現すことのできないそれぞれの苦悩と問題が隠されています。 その中で自殺者を救いたいと奮闘して戦っている人もいます。その方が自殺を考える人の所に行き、接するたびごとに「自分の姿勢が問われてくる」と語っていました。彼らは「この人はどこまで自分に本気で関わってくるのか」という目で見てくるからだそうです。単なる興味本位なのか、慈善事業としてなのか、その心の本質を見られる。さまざまな葛藤と戦いながらも自殺を思いとどまった方が「親兄弟がいなくてもひとりだけ話せる人がいれば生きていける」、また「人生の一部を本気になって背負ってくれる人がいれば自殺したりはしない」と話しています。

 私たちはさまざまな問題や困難に出会う時、誰もが同じ様に感じ考えながら歩んでいるのではないでしょうか? 今自分が苦しんでいる時に、自分のことを気遣い、心配してくれる人がそばにいてくれさえすればと思うことがないでしょうか? 確かに物資的な面では豊かになり、お金さえあれば欲しい物を手にいれることができます。しかし心は豊かになったのでしょうか?

私の人生を背負って下さる方

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油そそがれた者とに逆らう。」(1〜2節)

 ダビデは隣国の王たちから命を狙われています。それだけではなく自分の最も信頼している部下が命を狙っていることも有り得るかもしれません。増してこの世では人を平気で陥れ、権力を自分の物とするためにあらゆる策略を用います。このようにして得た権力ならば、今度は自分が同じことをされても不思議ではない、なぜなら今までどんなことをしてきたのかは自分が一番よく知っているからです。それだけ「孤独」が自分の友となってしまいます。自分の心を打ち明ける人がいないのですから、寂しい人生を送ることになってしまう。ダビデは自分から王になったのでも、他人を陥れたわけでもありません。

「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」(7節)

 ダビデは神様の一方的な恵みにより、イスラエルの王に任命されました。この神様が本気になり人生を背負い助けて下さることを味わっていました。ですから自分の命を狙う者が多くいても、神様が彼らから自分を守って下さることを信じていたので、神様の御手に全てを委ねることができたのです。神様は自分の味方ならば何も恐れる必要はありません。むしろ神様は彼らと戦われることを知っていたからです。

「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」(3〜6節)

 ダビデは孤独ではありませんでしたし、孤独がダビデの友でもありません。ダビデの友は神様です。あらゆる困難や問題が振りかかった時に、友である神様に訴え助けを得てきました。ですから神様に自分の心の内にある全てを語ってきたのです。なぜなら神様は全てをご存知だからです。また友である神様は「自分の人生を背負って下さる」ことを肌で感じ味わっていました。確かに王になったが故の苦しみと困難や命の危険だけでなく、国を治めなければなりません。しかしそれ以上に神様の愛と恵みと憐れみを味わい、自分と共に歩んで下さることを知ったからです。

 ですからダビデは自分が王にされた事を否定的にとらえたり、恨んだりはしてはいません。「人生の一部を本気になって背負って下さる人がいれば自殺したりなどしない」と先ほど言った方がおりましたが、人生の一部ではなく、あなたの人生全部を本気になって背負って下さる方がいることを今朝はともに覚えたいのです。そしてその神様はあなたに愛の贈り物を下さったのです。

愛の贈り物―――イエス・キリスト

「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」(7節)

 この御言葉は神様がダビデをイスラエルの王に任命した時の言葉であると同時に、神様からあなたへの愛の贈り物の言葉でもあります。『あなた』とはイエス・キリストのことであり、『わたし』とは神様のことです。『きょう、わたしがあなたを生んだ。』とはイエス・キリストがこの地上に送られたことを意味しています。ではなぜ神様は愛する子をこの地上に送ったのでしょうか?苦しい時に頼むことはあったとしても、私たちが神様を愛するとはとても考えられません。神様の方が私たちを愛されたのです。その愛が私たちの罪の赦しの為に、愛するわが子イエス・キリストをなだめの供え物とするために、この地上に送られたのです。ですから詩篇2編7節のこの御言葉は神様からあなたへの愛の贈り物なのです。

 ダビデは一生を神様の御手に守られて過ごしました。同様に神様はあなたにダビデと同じ歩みをして欲しいと切実に願っています。では愛の贈り物であるイエス・キリストは本当に私たちの人生全部を背負って下さるのでしょうか? どんな風に背負って下さるのでしょうか?


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

 この「重荷」は負わされている状態です。ですから疲れるわけです。負っている重荷は人それぞれ違います。本人にしか分からない葛藤や苦しみの中で戦っているのです。イエス様は私たちに向かい『わたしのところに来なさい。』と命じます。命じるということはそれだけ自信があるということです。あなたがイエス様の所に行く時、一時的な休みではなく、あなたが生きている間継続する休みであるのです。もちろんこの休みは肉体の休みもあります。肉体も疲れていますから休みも与えられますが、それ以上にあなたが人生の大嵐のただ中で心安らぎ、安心していられる休みです。

 どんな困難や問題があってもその中で慌てふためくこと無く、右往左往しないで心穏やかにいられたらどうでしょうか? これがイエス様が与える休みです。 しかしイエス様の招きに応じて出掛ける時に、1つだけ守らなければならない原則があります。それはあなたの人生を「すべて委ねる」ことです。委ねるとは、あなたの重荷をイエス様の所に下ろすことです。下ろさなければ休むことができません。「委ねたはいいけれども跳ね返されたら?」と思うと半身に構える事はあるかもしれません。でも半身であるならば本当に安らぐ事はできません。 例えばあなたの前に1つの扉があるとします。この扉を通らなければ目的地に着けない。ところがその扉はあなたが通れるだけの大きさでしかない。そこを通るにはどんなに小さな物であっても手放さなければなりません。惜しんではならないのです。そこを通らなければ目的地には着けません。同様にすべての重荷をイエス様の所に下ろさなければ休む事ができないということなのです。全ての重荷を下ろすならばイエス様は『わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と語っています。ですからその時にこの約束を自分のものとする事ができるのです。実に簡単です。荷物を下ろせばいいのです。要求されていることは簡単なのですがなかなかできないのが現実です。そこでペテロは私たちの心をよく分かっていたのでしょう。

「 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがのことを心配してくださるからです。」(ペテロI5章7節)

 思い煩いの種は不思議と尽きることがありません。頭の中で「もしもこうなってしまったら」とそんなことばかりを考えていると、何時の間にかそうなってしまったような錯覚を起こし、不安や恐れに支配されてしまうこともあります。あなたが思い煩っている時に、神様はあなたのことを本当に心配して下さるのです。心配という言葉は「関心がある」「気に掛かる」という意味でもあります。神様はあなたの事が気に掛かって仕方がないのです。神様はあなたの事を心から心配しているからこそ、『ゆだねなさい』とはっきりと命じられているのです。あなたが成すべきことはイエス様の所に出掛け「思い煩い」という重い荷を下ろすことです。あなたは神様に心配されているのです。ぜひ覚えて下さい。孤独ではないのです。イエス様は人々をご覧になった時に、

「また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9章36節)

 神様は私たちがどんな状態にあるかよくご存知です。ただ私たちの方が『羊飼いのない羊のように弱り果て倒れている』真の姿が分からないのです。自分の真の姿が見えないから『すべて疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。』『あなたの思い煩いをいっさい神に委ねなさい』と言われても「自分は大丈夫」と言って頑張っているのではないでしょうか? でも「あの人の重荷はとっても大変だから、この御言葉は適用する」と外見だけを見て判断してしまうのです。

 しかし『すべて』とはすべての人に対して語っているのですから「大丈夫」と思っている「私」をも含んでいるのです。その「私」の姿をイエス様は『弱り果て倒れている』と言われました。「自分は大丈夫」と思っていませんか? もう十分に頑張ってきました。そろそろこの辺で頑張る重荷を下ろしてみてはいかがでしょうか? それとも、なお頑張って頑張って自分の力で生きようとしますか? 本当は自分の力で重荷を負うことに疲れ果て、日々思い煩っている気がするのです。神様ご自身が委ねて歩むことの幸いについて自ら語っています。  

「詩篇2篇8節―12節 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきつかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子にくちづけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。」(詩篇2篇8節〜12節)

 皆さん、素直に自分の現状を認めようではありませんか? 自分は弱り果て、倒れる寸前であること。神様はそのあなたに“愛の贈り物”を用意しました。あなたがこの素晴らしい愛の贈り物を心から喜んで受け取るならば、神様が約束されている休みを自分の物とすることができるのです。またあなたのことを本当に心配して下さる神様があなたの側にいます。その神様はあなたの人生を背負って下さろうとしているのです。そのような人生を味わう歩みへと導こうとされています。神様があなたのために用意して下さったこの愛の贈り物をともに受け取り、本当に安らぎ重荷を神様が背負って下さる歩みへと移されていきましょう。イエス様が約束して下さった『あなたがたを休ませてあげます』。この憩いを自分のものにしたいとい思います。
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