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2003年9月14日(第1礼拝) 日曜礼拝メッセージ

「主を喜ぶ」



 旧約聖書 詩篇37篇1節〜11節 より
メッセンジャー
 鳩ヶ谷福音自由教会牧師 平井正治師

 仙台教会に集い皆様と香港からお出で下さった方々とともに、創造主であり、贖い主であられる方に礼拝を捧ることができることを感謝しております。また鳩ヶ谷教会員からも「皆様によろしく」というご挨拶を携えて参りました。先程ご紹介にありましたように、今回国内宣教ツアーで仙台にお伺いさせていただいております。本当に暖かいお迎えと色々な配慮をしていただき本当に嬉しく思っております。他の4名は本日古川教会の礼拝に行っております。今回のツアーではいろいろなことを教えられ、また励まされ、チャレンジも与えられていますし、悔い改めなければいけないと考えさせられてもいます。時間も限られておりますので、早速メッセージに入りたいと思います。

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かせる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者は、彼らの地を受け継ごう。ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」(詩篇37篇1節〜11節)

 人は誰でも「自分に満足を与え幸せをもたらしてくれる」と思うものを喜ぶのではないでしょうか? 虚しさや不幸をもたらすものを喜ぶ人は恐らくいないでしょう。自分が喜びとするもの、自分に満足感を与え幸せをもたらしてくれると思うものを追い求めていく傾向が強いと思います。例えば「お金」を喜びとし自分に満足感と幸せをもたらしてくれると思う人は、お金を追い求め、それを得ようとし、自分の能力や時間などを費やしていくでしょう。また「人から認められること」を喜びとする人は、人から認められる生活のあり方をしていくことでしょう。「仕事」を自分の喜びとする人は、家族を顧みず仕事に没頭していくこともあると思います。

 「何を自分の喜びとするのか」は私たちが「何を追い求めて生活するのか」ということに結びついています。私たちの周囲には人の心を喜ばせてくれると思う物がたくさんありますし、テレビを通して、また新聞の折込、最近ではインターネットを通して「これこそがあなたにを喜ばせ、満足感を与え幸せをもたらしてくれる。」と盛んにアピールがなされています。でも神様への悔い改めと主イエス・キリストへの信仰によって救いにあずかることのできた私たちは、周囲にあるそれらの物や盛んにアピールされてくる物がたとえ悪いものではなかったとしても、それらが与えてくれる喜びは一時的なものであり、「主ご自身のみが心の深い所に喜びを与え満足感と幸福感をもたらして下さるお方」ということを少なからず知っていることでしょう。ところで私たちは日ごろ何を喜びとして毎日の生活を送っておられるでしょうか?

 詩篇の記者は『主をおのれの喜びとせよ。』と語っています。この1節から11節は悪者が栄える中で主なる神様に信頼するようにとの勧めがなされています。

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起すな。」(1節)

  悪を行なう者に対して何もしなくてよいと言っているのではないのです。悪に対して私たちははっきりとした態度を取っていかなければなりませんが、同時に8節では『怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。』と書かれていますように、悪に対する態度を明らかにする時に、私たちはしばしば悪に対して腹を立てて心の中で憤りを段々と膨らませていってしまうのです。そして憤りが憎しみに変っていってしまいます。結果的に自分もまた悪に陥ってしまうという危険があるので『悪を行なう者に対して腹を立てるな。』と妬みを起すことのないようにと勧められているのです。イエス様が罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせずに正しく裁かれる方にお任せになられたように、主に信頼しお任せすることが勧められているのです。それには裁く方を己の喜びとしなければ、主に信頼することも任ることもできないでしょう。3節には『主に信頼して、善を行なえ。地に住み、誠実を養え。』という勧めが。また5節で『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』7節には『主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。』との勧めに対しても主を己の喜びとすることがなければ、主を信頼することもまた自発的にお従いすることもできないでしょう。

 これは私たち人間関係の中でも言えると思うのです。例えばいろいろなことができる能力がある人でもその人を喜べないとするならば、信頼できないでしょうし任せる気持も起こってこないように思います。一方人を喜ぶことができ、その人が頼める能力を持っているならば信頼して任せる気持もわいてくることでしょう。私たちも主ご自身を「自分に満足感を与え、幸せをもたらして下さるお方」として自らの喜びとするならば、その方を信頼し委ね、その前に静まり耐え忍んで待つことが可能となっていきます。そして悪者が栄えるという状況で「主に信頼すること」「主に委ねること」「主の前に静まること」「そのお方を耐え忍んで待つ」ことは私たちが天の御国を目指す旅人としてこの地上での信仰生活を全うするためにはどうしても必要なことであると私たちは知っています。

 しかしそれらが必要なことであると分っていても、実際生活の中で「主を信頼し、委ね、主の前に静まって耐え忍んで待つ」ことは簡単にはできないことも知っているのではないでしょうか?私たちは自分の弱さの故に「主に信頼すればよい」ことを分かっていてもできないと悩んでみたり、「主に委ねれば楽になるだろうな」と思いながらも委ねることのできない自分と葛藤することがあるように思います。静まって主の前に待つよりは自分で考えて決断し突っ走ってしまうのです。後になって「なぜ神様に信頼しなかったのか? 何なぜ静まって祈って待ち望むことができなかったのか?」と自分を責めて悔い改めるかもしれません。でも『主をおのれの喜び』とするならば一気にではなかったとしても今よりはもう少し、さらにもう少し、さらにもう一歩と、委ね信頼し主の前に静まり待ち望むことにおいて成長させられていくことができます。「主に信頼し委ね静まり待ち望む」信仰生活を全っとうするために必要な前提は『主をおのれの喜びする』ということです。そして私たちが『主をおのれの喜び』とする時に、聖霊の働きにより私たちの心の内側が変えられていきます。それは「主ご自身の全てを喜ぶ」のですから主の御心をも喜ぶということです。そして主の御心を喜びとして祈る時に、


「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(第1ヨハネ5章14〜15節)

 主をおのれの喜びとし主の御心を喜びとする時に4節の『主はあなたの心の願いをかなえてくださる。』のです。ただ、ここには「いつ」という約束はありません。いつという約束はないのに私たちは「今日祈ったから明日」と勝手に時をに決めてしまうので気を付けたいものです。しかしこのことを通して更に主をおのれの喜びとする者に変えられ、あなたの人生を主に委ね信頼する時に、主は人生の重荷を担い、ともに歩み、導いて下さることを知り、「主が成し遂げて下さる」という御言葉は本当に確かなものであること、主ご自身の真実を悟らされ、さらに深く主ご自身をおのれの喜びとするようになっていくでしょう。そしてその人は、悪者の栄える現実にはやがて正しい神様のご介入があること、究極的には悪者さえも神様の栄光を現わすために用いられるという神の摂理を知るでしょう。そしてますます主をおのれの喜びとしていくことでしょう。

 そういうわけで『主をおのれの喜びとする』とは主に信頼し委ね、主の前に静まり待つことの前提です。それとともにその人はさらに主を喜びとする人に変えられていきます。

 ただここで気をつけたいことがあります。詩篇記者は『主をおのれの喜びとせよ。』と語っているのであって、主が恵みによって与えて下さる「もの」や主が摂理を持って導いてい下さる「事柄」を喜びとしなさいと語っているのではないのです。ルカ15章に放蕩息子の例え話があります。彼は父親の与えてくれる財産の分け前を求めました。なぜなら彼は「お金」が幸せを与え自分を満足させてくれると思ったからです。息子は与えてくれた「父親」を喜んだのではなく「物」を喜びとしたのです。ところが与えられた「物」はやがて無くなり彼は行き詰まったのです。私たちも主にさまざまなことを祈り願い求めます。その時に与えて下さるお方よりも、与えて下さるものや事柄ばかりに心が向いてしまうことがあるかもしれないのです。その願った物が与えられ、祈ったことが叶えられても、与えて下さった方を忘れてしまいます。もしそうであるならば少し極端な言い方をしますと与えてくれる人は「誰でもいい」ということになってしまうのです。放蕩息子はお金が欲しかったのですから、お金を与えてくれれば誰でも良かったということです。主の恵みによって与えられた物や事柄が悪いと言っているのではないのです。しかし与え主であるお方を喜びとするのでなければ、願っても与えられない、祈っても叶えられない時に、私たちは主に対し不平不満を持つことでしょう。主は人が祈ったこと以上に、私たちに最善の物や最善のことを、最善の時に施そうとするお方です。私たちも放蕩息子のように、主ご自身よりも主が与えて下さる「物」や導いて下さる「事柄」を喜びとして求めていることはないでしょうか? 御言葉は『主をおのれの喜びとせよ』と語っているのです。ではどうしたら『主をおのれの喜びと』し続けることができるでしょうか? 

 キーポイントは11節の『貧しい人』です。この『貧しい人』とは謙遜な人、柔和な人ということです。自分の存在の全てが主なる神様に全く依存していることを認めている人のことです。自分の無力さを知り、自分には誇る者が何も無いと知っている人は、本当の意味で主以外には自分に満足感を与え喜びをもたらして下さることがないということを知っているでしょう。だからこそ『主をおのれの喜びとして』主を追い求めていくでしょう。そして『主の前に静まり、主を待』ち『地を受け継』ぎ『豊かな繁栄をおのれの喜び』とすることでしょう。この『繁栄』とは「平和」とも訳せる言葉です。私たちが主をおのれの喜びとするのに必要なのは、自分が『貧しい者』であることを認め意識することです。自分の存在の全てを主に依存していることを認め日ごろの生活の中で意識することです。そしてその時に私たちの心は主ご自身に向いていくのではないでしょうか? よく「困った時の神頼み」という言葉がありますが、「自分は無宗教」という人でも自分の無力さを知った時には神を求めることがあります。逆にクリスチャンでも困ったことが何もないと「主がいなくても自分は生きられる」かのような錯覚に陥ることがあるかもしれないのです。その時に主に向おうとはしないでしょう。心が主に向うことがなければ主を喜ぶことはできないのです。でも主を知り信じる者とされた私たちはわきまえていかなければなりません。私たちは主なる神に全く依存しなくても存在できる者なのでしょうか? 私たちのいのちは神様から与えられたものです。いのちを保っていくための空気や水やエネルギーなどすべては神様から与えられたものです。自分に何かができる、人よりも多く知っていると思ったとしても、考える、知る、感じる、判断する、話す、持つ、歩くという能力や機能も神様が1人1人に与えて下さったものです。私たちの存在のすべては髪の毛1本に至るまで主ご自身に依存しているのです。私たちには主への感謝と喜びがあったとしても主の前で誇るものは何もないのです。主の前で誇るものが何もないならば人の前で誇るものは何もないということでしょう。もし誇るとすれば主ご自身です。私たちは父なる神様に抱かれ支えられ守られながらでなければ生きていけない無力で貧しい者なのです。私たちは自分の力で生きているのではなく、父なる神様によって生かされているのです。この事実を認め困った時だけでなく、日頃から意識していく時に私たちの心は主に向かわされて行くでしょう。そして私たちの心を喜びで満たして下さる主が見えてくるでしょう。天と地とその中の全てのものを造られ、私たち1人1人も神の形に似せて造られて、主と交わり神様の愛の交わりに中に憩わせて下さって、神を喜び生きる者に造り替えて下さった主。全てのことを神の栄光が現わされるためにご支配し、その方に対し罪を犯し、また与えられた物を自分の欲望のために貪るようになった私たちを見捨てることなく、むしろ憐れんで下さり神の子としての特権を与え、本来あるべき神様との交わりを与えて下さるために十字架の上で身代わりに死に、死から蘇られたお方。私たちのために今もとりなしをしていて下さるお方。私たちに御顔を向け、1人1人の名前を呼び、喜びの時、悲しみの時、苦しみの時、いつもともに歩んで下さり、再びお出で下さるお方。その方は力と富と勢いと誉と栄光と賛美を受けるに相応しいお方であるのです。自分が貧しい者であることを認め、意識していく時に、私たちの心は主に向わされていきます。その時に「主はおのれの喜びとすべきお方」ということが見えてくるでしょう。あるいは「おのれの喜び」とせざるえないお方であると言った方が適切かもしれません。詩篇記者は『主をおのれの喜びとせよ。』と語りました。主を知ることができ、信じる者とされた恵みにあずかっている私たちは、自分が貧しい者であることを認め意識して、貧しい者を愛し恵みを持って導いて下さるお方の懐に抱かれながら主ご自身をおのれの喜びとして歩んでいこうではありませんか。
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