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2003年1月12日 日曜礼拝メッセージ

「聖徒として召されて」



 新約聖書 第1コリント1章1節〜9節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

 私たちはこの世の中に生き、さまざまな中に属し交わりがなされています。つまり人間は交わりなしでは生きていけないことを現わしているのではないでしょうか? 嫌な交わり、心待ちにしている交わりもあるでしょう。では「主との交わり」は私たちクリスチャンにとって、どのような意味があり、また信仰にどのように重要なのでしょうか? 今朝は主イエス・キリストとの交わりの大切さを教えられたいと思います。

聖徒として召されて

「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神とイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(1〜3節)

 まずパウロは『神のみこころによってイエス・キリストの使徒として召された』と言い、次に『聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ』と繰り返すことにより、コリントの兄弟姉妹たちに対して「あなた方は聖徒としての自覚を促すように」と語ったわけです。というのは、コリント教会の置かれている状況を考えますと『聖徒として召された』意味はとても重要であったからです。コリントの町は陸と海に通じる重要な場所であったため、商業が発展しておりました。多くの民族が集まれば、各民族の宗教も入って来るわけです。ですから偶像礼拝が盛んでした。各所に神殿があり、そこでは公然と不品行が行われていました。コリントの町は道徳的に荒廃していましたから「コリントの人」と言えば「不品行な人」の意味であり、また「コリントのように振舞う」とは「不品行を行う」ことを意味していたのです。この状況の中からコリントの兄弟姉妹は救われ召されたのです。ですから『聖なるもの』とされた意味は測り知れないのです。それは聖徒としての歩みは神様の栄光を現わすことになるからです。

 パウロがコリントを離れてから、福音が十分に理解されず、また誤解され混乱が生じさまざまな問題が起こってきたことを知らされました。彼らがパウロに助けを求めたその返事がこの手紙です。パウロは「Aはこれをした」「Bがあの事を行った」「この問題」「あの問題がある」と聞いたでしょう。パウロはそれを聞いていて彼らに手紙を書くのです。普通ならば真っ先に「Aよ。その事はいけないことである。Bよ。これは間違っている」と書くのではないでしょうか。しかしパウロはそれらを聞いていても、祝福の祈りを捧げて後、コリント教会に注がれている神様の恵みに感謝しているのです。問題を聞いてしまうと、その問題に混乱してしまい、「どうしよう。こうしたらいいのでは? あのようにしたらいいのでは」と先だって考えてしまうわけです。問題もあるし混乱しているのです。ですが、まず神様を見上げ注がれた恵みに感謝を捧げたのです。

「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。神は、真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストの交わりに入れられました。」(4〜9節)

 『ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされた』とあるように福音は彼らの中に根付いていたと知ることができます。道徳的不安の中から救われたことにより、全く違った価値観を持って生活するわけです。福音を十分に理解していなければ、その生活をすることは困難であり、でき難いです。理解していたとしても、自分で「生活を変えよう」とする意思と決断と勇気が必要になって来るわけです。実際に『キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになった』とありますから、彼らの歩みが変えられたことが分かります。コリント教会は聖徒としての歩みが始まったことにより、多くの賜物を見い出しました。コリント教会はひとりひとりが賜物をいただき、『あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがな』い教会になったと書かれています。さらに『熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。』とあるようにこの世に望みをおいていないことも分かります。天にもしっかりと目を向け歩んでいるのです。コリント教会の姿はコリントの人々にどのようにうつったでしょうか? この世の文化、自分たちの文化とは違う生活を突然彼らが始めるのです。滑稽に見え「今までの生活の方が得である」と忠告したかもしれません。しかし、なおコリント教会は信仰に堅く立っていたわけです。『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。』とコリント教会を励ましています。パウロは「そしてこの世の交わりからはじかれたとしても、心配はいらない。あなた方はこの世の交わりとは比べものにならないほど素晴らしい『私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられ』るからだ」と言うのです。

 この当時「交わり」という言葉は3つの意味で使われていました。第1に商売の仲間。儲かった分は山分けし、損をした時には互いに責任を負い合うのです。第2に結婚。結婚は全ての物を分かち合い、生活に入ります。正に結婚は共同運命体の関係にあります。3番目に人間とゼウスとの関係。どういう関係かは具体的な内容は分りません。これはこの当時に使われていた「交わり」の意味です。ではパウロが語る「交わり」の意味とは? 「交わり」の相手はイエス・キリストです。イエス様と交わりを持つための条件、あるいは神様と交わるための特別な方法があるのでしょうか?

光の中を歩み続ける

「 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(第1ヨハネ 1章5節〜6節)

 この手紙もクリスチャンに宛てて書かれています。「救われていても、暗やみの中を歩んでいるのであれば、神様との交わりをする事はできない」と語るのです。神様との交わりを持つためには罪の中ではなく光の中を歩むことが条件だというのです。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの故に救われました。しかし罪が全く無くなったわけではありません。罪を犯すことはあるのです。しかし犯し続けることはありません。つまり罪の中に留まり続けることはないのです。ただし「光の中を歩み続ける」ならばです。もし罪の中を歩み続けるならば、イエス様の十字架の贖いを無駄にすることになってしまいます。そうならないように、 

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ 1章8節〜9節)

 イエス様と私たちの交わりは「こんな罪深い者が赦される」ことを深く味わうことなのです。イエス様との交わりは「罪の告白」から始るのです。そして罪の赦しを味わい、私たちを聖い歩みへと導くのです。自分が本当に神様に受け入れられ、赦され愛されたことを交わりを通して味わうのです。そして自分という存在が赦され受け入れられ、愛されている時に、そこから相手を思いやる心が芽生えてくるのではないでしょうか? 自分が赦され愛され受け入れられなければ、どうやって他人を受け入れることができるでしょうか? そのような思いが兄弟姉妹の中に起こってくれば、教会内で起こっているさまざまな問題も問題ではなくなるということをパウロは言いたかったのかもしれません。確かに問題はありますが、その中に赦しと愛と受け入れがあるならば、問題自体を問題視するのではなく、お互いの立場、言い分を尊重しあい、受け入れあうことから解決を見出す事ができるのではないでしょうか? イエス・キリストの交わりがある所に、「主にある交わり」も祝福されていくのです。パウロはコリント教会に主イエス・キリストとの交わりの重要さを教え諭しました。

 ではあなたは日々イエス様との交わりを楽しんでいるでしょうか? イエス様との交わりはクリスチャンの信仰生活によりとても重要です。しかしこの交わりを妨げるものがあります。聖書はそのこともハッキリと私たちに教えています。 

「 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ3章14節〜16節)

 苦い妬み、敵対心を、目の前にいる人に対して持っていて、その方と自由に交わることができるでしょうか? 形だけはできても本当の意味ではできません。私たちは救われる前はこの中に生きていました。救いを受けた今、私たちは神の子とされ御霊に属する者となり、聖徒として召されたのだから油断せずいつも注意を払うようにというわけです。

 イエス様との交わりを通してこのこともはっきりと教えてくれるのです。私たちが生きるために水や食物はとても大切であると同様に、信仰者にとりイエス・キリストの交わりは大切なものです。ところが、イエス・キリストとの交わりがなくても何の支障もなく生活できてしまうこと問題なのです。食べなければ、命の危険にもさらされます。ところが、イエス様との交わりがなくても、そういう意味においては何の支障もなく生活できるのであまり痛みを感じないのです。しかし「交わりがない」とは、私たちの霊は死んだ状態にあることを覚えて下さい。そういう状態の時には妬みや敵対心に支配されてしまいますから、当然赦す心、愛する心もどこかに行ってしまいます。罪を犯したからといって神の子供でなくなるわけではないのですが、「役に立たない塩」になってしまうのです。イエス様との交わりが保たれているならば、罪の中を歩み続けることはなくなり、聖徒として召された歩みをすることができるわけです。正に地の塩の役割を果すことができるのです。またどこにいても生き生きとした信仰生活を送ることができますし、更に主にある交わりが赦しと愛の交わりになっていくのです。それほどに大切なものであると自覚し理解していますか? それゆえに神様はあなたがイエス様との交わりを大切にし、保たれることを願っているのです。

 コリントの町は商業的に繁栄していましたが道徳的には荒廃していました。ではコリントの町が特別なのでしょうか? コリント教会がそのような中から救われたのと同様に私たちもそのような中から救われているのです。時代とともに変化する価値観や道徳。あなたが聖徒として召された歩みをすること現代においてもとても重要なのです。そしてコリントの人たちが周りから変な目で見られたように、私たちも偏屈者や変った者と見られる覚悟をする必要があります。違った歩みをするのですから当然です。だからこそあなたの存在意義は大きいのです。「そこにあなたがいる」のはそれだけ重要な意味を持っているのです。しかし私たちこの世に未練があり、その未練を中々捨てきれないのも事実です。そして苦い妬みや敵対心に支配されてしまうならば、地の塩としての役割を果すどころか、主にある交わりも全て中途半端になってしまいます。中途半端はどちらもつかずですから、それは厳しい結果を招くと聖書ははっきりと語ります。あなたはどちらの歩みを今選び、あなたの心はどこを向いているでしょうか? あなたは聖徒として召されていることを覚えて下さい。そしてその歩みを確かなものにするのは、主イエス・キリストとの交わりです。あなたはイエス様との交わりを楽しんでいるでしょうか? またイエス様との交わりがそれほどに楽しいものであると受けとめているでしょうか?
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