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2003年1月19日 日曜礼拝メッセージ

「神の家族」



 新約聖書 エペソ2章1節〜22節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 新年に入ってからご一緒に「教会」について学ばせていただいております。私たちは自分たちが「どういう者であるのか」を自覚することは大事です。それが分からなければ不安と恐れとおののきの中に生きなければならないかもしれません。反対に「自分」を自覚しているならば堂々と安心して歩むことができるのではないかと思います。私たちはどういう者とされているのかを認識し歩ませていただくことは大切です。前回、教会とはキリストを信じる者の集まりですと学びました。  

「 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1章3節)

  クリスチャンとは『天にあるすべての霊的祝福をもって』祝福されている存在であることに気が付いていたでしょうか。私たちがすごい祝福をいただいているのが分かるのは多分天に帰った時でしょう。そして神様は私たちに天での祝福を下さるだけではなく、この地上でももっと祝福を味わいなさい、と教えているのです。

 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるのかを、あなたがたが知ることができますように。エペソ1章23節 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 私たちはこの「教会」の一員であることを深く認識させていただきたいと思います。もし「私はその一員になっているか不安です」という方は、主イエス・キリストを罪からの救い主であり人生の主として信じているか否かこれだけです。それでも分からなければ「イエス様、あなたが私の罪からの救い主であることを信じます。私の罪を赦して下さい。私も神の子供、神の国の一員にさせて下さい」とお祈りなさったらと思います。その瞬間から、あなたは神の子供として生み出されるのです。イエス様は神様であり救い主であることを信じるならば、神の国の市民となっているのです。なぜならば『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(第1コリント12章1節)』だからです。罪が赦され聖霊が宿っていなければ、「イエスを主」と言えないのです。ですから「イエス様は主であり、救い主である」と言えるならばすでに神の教会の一員とされていると知って下さい。そしてあなたの中には『いっさいのものをいっさいによって満たすお方』が満ちておられることをしっかりと受け取っていただきたいと思います。では今日はそのようにされた私たちはどういう者であるのか?を学ばせていただきたいと思います。 教会とは「神の家族」。教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合います。イエス・キリストにあり私たちは家族とされています。このことをしっかり認識させていただき、ともに家族として歩ませていただきましょう。

私たちは神の作品

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊にしたがって、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれらながらに御怒りを受けるべき子らでした。」(1〜3節)

 私たちは元は『御怒りを受けるべき子らでした。』。このことを知る時に神の教会の一員とされていることの重さ深さ素晴らしさが分かると思います。聖書ではアダムとエバの失敗以来、この世は悪しきものの支配する場所になってしまっています。私たちも気付かずにそのサタンに影響され、いつの間にかそれに従う者になってしまっているのです。「私はそんなものに従っていません。」と言うかもしれません。気が付かなくても従ってしまっているのです。皆さんは親から「恨んで憎んで嫉妬して生きていきなさい」と教えられましたか? 逆であると思います。ではそれをなさったら良いでしょう。なぜなさらないのでしょうか? 実は悪しきものの影響を私たちが知らずに受けてしまっているからです。神様が喜ばないことを多くしたわけです。ですからそこから解放される必要があるのです。しかし、 

「 しかしあわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに、生かし、・・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(4〜6節)

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(10節)

 神様は私たちがそういう者であることを知り、そのことが私たち自身ではどうすることもできないことを知っているから、キリストにより解決と処理をして下さったのです。その第1は身代わりの罰を受けて下さることにより過去に犯した罪を赦すことです。赦すだけでなく、大きな憐れみにより罪に打ち勝つ者、罪に支配されない者にしようとされたのです。それが「十字架」でした。十字架により、私たちは今、罪の奴隷ではなく罪から解放された者として歩むことができるようにされているのです。イエス様は『わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16章33節)』と宣言されました。私たちにはその勝利が既に与えているだけではなく、神の御霊により私たちが『良い行いに歩むように』備えて下さっているのです。自分の力ではできません。全て神様の力、御霊の力により私たちは神様に喜ばれる歩みができるようにして下さっているのです。『私たちは神の作品であって良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。』、自分が神様の作品である認識を持っていましたか? 作品は大切にします。神様は皆さんひとりひとりが「作品」であるというのです。「私はこういう風だから。あれもできないから私はかわいくない」と思うかもしれませんが、神様は皆さんを新しくしようとしているのです。「私はこれができない。私はこんな風だから」は関係ありません。神様は私たちを生まれ変わらせ新しいものを造り上げて下さるのです。私たちは神の作品なのです。過去のことをひっぱり出して「ダメだ」と言わないで下さい。それは私の「作品」です。『神様の作品』ですから神様が私たちを造り変えることができる。必要なのはその方にお任せして委ねていくことです。


キリストによりひとつにされる

「ですから思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる無割礼の人びとと呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、イまではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です、敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだにとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(11〜19節)

 ユダヤ人たちは「我らはアブラハムの子孫であり、神の祝福を受け継ぐ者。神を認めない異邦人達とは違う」という意識が非常に強かったので、異邦人とひとつになるなど考えられないことでした。でも今は『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』と言うのです。十字架により、そのような敵意は全部葬り去られました。神の前における隔ても全部取り去られ、中の隔ても取り去られました。そして教会は「神の家族」となれるのだと言うのです。ここで言う「家族」は安らぎを与えられ、安心感の持てる所です。教会はそうなれるし、そうなるべきと言うのです。でも現実には罪人の集まりですから、いろいろな問題が出てくることがあります。クリスチャンになり新しい生き方、新しい作品にして下さったのに、まだ古い生き方にしがみついているからです。私たちはその生き方に死に新しい生き方に変えられていく必要があるのです。その時に本当に教会が「教会」となる。 

「 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6章14節〜15節)

 クリスチャンとはこの世に死に、また肉に死に、この世の基準に死んで歩む者です。私たちは自分の中にあるさまざまな「この世の考え方」や「この世の捉え方」を教会の中にも入れてしまう危険性もあります。私たちの中に出て来るさまざまな妬みや嫉妬、憎しみは十字架により取り除けられるのです。私たちの中に色々なものが出てきまが、それを取り除けて赦す時、教会が正しく「神の家族」になっていけるのです。この世の基準、この世の考え方に死んでこそ教会が「教会」となっていけることをぜひ覚えていけたらと思います。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12章19節〜21節)

 これが神の基準です。「そんなことできっこない」、生まれながらにしてできないのです。でもあなたには新しく造られた新しい命、新しい霊があるのです。新しい作品が既にあなたの内に出され始めているのです。そしてその生き方をしていくうちに、それに打ち勝つ力が出て来るのです。赦せないはずの人を赦せたり、愛せないはずの人を愛せたり。「神様どうかそのようにして下さい。」と求めていくことが必要なのです。これは聖書の多くの箇所で言っていることです。  悪をもって、悪に報いず、侮辱をもって、侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。  「侮辱に対して祝福を与えることなどできっこない。」と言ってしまえばそれで終りです。でも「主よ。あなたがそうでない命を下さっているのなら、それを下さい。」と求めていきましょう。神様によってその様な力が少しづつですが、与えられていくことに気がつくでしょう。その場所は裁かれず受け入れられ愛されている場所になることでしょう。ともにそのような教会を目指していきたいと思うのです 。

「 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)

 このことをしっかりと心に覚え、「愛し合うために主は召されたのだ。人を受け入れ人を赦すために私たちは召されているのだ」と心に留めていきましょう。そのためには私たち自身は神様から御怒りを受け入れるべき子らでした。そのことが分かって「神様ごめんなさい」と言った後でさえも何度も同じことを繰り返したでしょう。それでも神様は私たちを赦し受け入れて下さったことを思い起こし、神様はその私たちを『神の作品』として造り出そうとされています。神様は私たちを「家族」と言って下さいました。さまざまな交わりがこの世にはあります。でも何よりも深く強いのは本来「神の家族」の交わりです。神により同じ御霊をいただいた、イエス様により同じ兄弟姉妹とされた者たちです。ですから聖書はそこが一致を保つように。仲違いを除けるようにと言っています。私たちはともにこの神の愛により赦し合うお互いにされていきましょう。
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