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2003年1月26日 日曜礼拝メッセージ

「人知を超えた愛」



 新約聖書 エペソ3章1節〜21節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 私たちは今月「教会」ということについて学んでいます。第1章で学んだ中心的な事は『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 エペソ1章23節』ということでした。しかし私たちは本当だろうか、と首を傾けてしまう所があるかもしれません。しかしこれは聖書が語っているのですから、事実なのです。問題は私たちが真実にそれを受けとっていないことが原因かもしれません。第2章では、私たちは本来、神様から恵みを受ける者ではなかった、『生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした。エペソ2章3節』ところがイエス様はその私たちの全ての罪を代りに受けて下さり、私たちが神の子供となり、神の祝福に与る者として下さったということでした。本来はユダヤ人だけが受け取れる祝福でした。しかし神様から遠く離れていた者たち、神様と無関係で、神様が忌み嫌うことを平気で行ない続けてきた私たちにも、神様を真剣に求めた人たちと同じ祝福を与えて下さったのです。十字架により誰もが神様の祝福に与ることができるようにして下さったのです。そのことを3章において、パウロは次のように語ります。

悔い改めて後大胆に神に近づく

「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6節)

「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(12節)

 私たちは『大胆に神に近づくことができる』者にされていることを、どの程度真剣に受け取っているでしょうか? 正直に言いますと、「私の祈りは聞いてくれないのではないか? 私の所には来ないのではないか?」と思っている面が多いのではないかと思うのです。でも御子イエスの十字架は妨げを全部取り除くことを、ハッキリとひとりひとりが認識する必要があるということなのです。

 旧約聖書のエステル記で女王エステルは王に1つの願いを申し出ました。王自らが王妃を呼び出すのであれば、何の咎めもなく王の前に出ることができますが、王妃といえども自分から王の前に出る時には、王が笏(しゃく)をその人に差し出さなければ即刻殺されてしまうのです。

「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し出せば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されてはいません。」(エステル記4章11節)

 呼び出されない限りは王の前に立つことができないのです。私たちも本来は神様の前に出ることができるような者ではありません。あなたは網日、神様に本当に喜ばれる歩みができていますか?  神様が嫌うことを何度も行なったのではないでしょうか? それゆえ神様を信じたと言えども心のどこかで「こんな私は神の恵みを受ける資格はない」、そんな思いを持ち続けているのではないでしょうか? 「だから神様は私の所には来ないし、私は祝福をもらえないのではないか」と思ってしまっている面があるのではないかと思います。しかし聖書は『大胆に確信をもって神に近づくことができる』と宣言しています。「自分みたいな者がそんな風に神の前に出たなら申し訳ない」という考えは、一見謙遜に見えますが、これは実はイエス・キリストの十字架を引き降ろしてしまうことなのです。すなわち「いくらイエス様の十字架でも私の罪を赦すことはできない。」と言っていることになるのであって、決して神様の前にへりくだっている姿ではないのです。

 「私は本当に酷い罪人である。悪いことをし放題してきた者です。神様に従うと言いながら従う事ができない。本当に捨てられても当然の者である。でもイエス様の十字架はもっとすばらしく大きいのです」、これが私たちの告白すべき告白です。自分の罪がどんなに酷く醜く、自分がどんなに愚かな者であったとしても、「イエス様の十字架は、それよりも力あるのであり、それらを覆い尽すほどである。」と私たちは受け取っていくべきです。「自分みたいな者は・・・」ではなく、「このような自分のために」イエス様は来て下さったのです。神様は私たちのために贖いと赦しを成して下さったのです。イエス様はある時言いました。

「 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度もまで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」」(マタイ18章21節〜22節)

 7回赦すことは結構大変なことです。1回目は何とか腹の虫を押さえこみ、2回目までは耐え忍んだとしても、3回耐えられる人はどれほどいるでしょうか? 4回目、5回目になれば猛烈に怒り出すのではないでしょうか? でもイエス様は7を70倍するまでと言います。7は完全数とされていますので「完全に赦せ」ということです。では「完全に赦せ」と言っている方は私たちをイエス様は何回赦して下さるのでしょうか? 何回でもです。何度でも心から「ごめんなさい」と言うのであれば、イエス様はその度ごとに赦して下さるのです。神様は、私たちが力を与えていただけなければ何もできないことを分かっているのですから、「お前はできないではないか」と責めることはないのです。ただ「私は本当に弱い醜くいい加減な者です。神様に従うと言ってもどれだけできるのか分からない。見捨てられても当然の者です。ごめんなさい。それが私なのです。」と認め祈るのを待っておられるのです。イエス様は7を70倍するだけ赦して下さっているのです。だから「赦して下さって有難うございます。」と言うだけで十分なのです。ですから『私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。』を知って下さいとパウロは語るのです。
 

神の愛を受け取る

「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(14〜16節)

 神様にパウロは私たちのために『どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。』と祈ります。多くのクリスチャンが、イエス・キリストを信じたならばその人の内にはすでに「新しい命」が宿っているという事実に気付いていないのです。そしてパウロはさらに「それが強くなりますように」と祈っているのです。私たちは内なる人が弱いから、成長していないから新しい命が宿っていることが分からなくなっているのです。イエス様を信じた方には神の新しい命が宿っているのです。問題はその力が現れてきていないことなのです。ですからパウロは『強くしてくださいますように』と言っているわけです。「自分には力がない。神様に従っていく事もできない」と思うかもしれません。でも神様にはできるのです。自分を見るならば「ダメだ」と思ってしまいます。ですから私たちは「神様そうして下さい」と祈るだけでよいのです。神様はその時に確かに私たちにその力を与えて下さるのです。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(17節〜19節)

 今日のタイトルは「人知を越えた愛」です。私たちがそのように変えられていく秘訣は神の愛を本当に知ることです。聖書では愛を4つ現わしています。エロス(恋愛)、フィレオー(友情)、ストルゲー(家族愛)、これらはこの世でもあるのですが、聖書はもう1つ、アガペー(無条件の愛)を語ります。私たちはアガペーの愛をいただく必要があるのです。神様は私たちを無条件でそのままを受けとめて下さり愛して下さるのです。この事実を知り受け取る時にその人の内なる人、新しい命の力となっていくのです。愛は受け取らないと無くなってしまうのです。一生懸命に相手にしてあげても、相手がそれを受け取ろうとしないと消えて無くなってしまうのです。どんなに与えようとしても、相手が「関係無い」と言えば霧のように消え去ってしまうのです。神様は『人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように』と言ってます。私たちはこの世の愛、エロス、フィレオー、ストルゲーしか知りません。ですから、神の愛(アガペー)、と言われても分からないのです。ですから「それを受けたら危険だと思い、あまり信じ過ぎない方がいい。まともに受けない方がよい」と考えてしまうのです。それではその愛の力は働かないのです。私たちに必要なのはその愛を「私のことを無条件で愛しているのは本当なのだ」と受け取ることです。イエス様の愛の届かない所はないのです。地の果てから果てまでどんな人の所までも、神様の愛はあるのです。あなたが真剣に受け取るならばその時にあなたの心が変り始めます。あなたの内に愛が芽生え、育ち始め、そしてあなたの内に『神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』との御言葉が実現し始め、そのような者に変えられていくのです。

 神様が自分を愛して下さっているということを受けとるならば、皆さんの中で力、元気、喜びが出てきて、ついには他の人のために自分も何かできることがあればしたい、イエス様がして下さったように私も愛したい」という思いが与えられ始めるのです。これが神様が私たちにしようとされていることであり、この力は教会を通してこの世に与えてよううとしているのです。

「どうか私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(20〜21節)

 エペソ書は教会の事を本物の愛を現わす所だと言っているのです。あまりにも不完全で、かけ離れているかもしれません。でも教会以外にこのアガペーの愛を体験している所はないのです。どんなに素晴らしくてもフィレオーやストルゲーの愛でしかないのです。この世はGive&Takeの世界です。しかし私たちが何も良いことをしていないのに、イエス様は私たちを愛し、私たちの罪の身代わりとなるために一方的に死んで下さったのです。このような愛はこのキリストにしかないのです。そして教会の人しかこのことを知らないのです。そしてこのことを知った人からはその愛が少しずつ、ほとばしり出るのです。

 この愛を求め、この愛に基づく教会を築きあげていくことが、神様が私たちに期待していることなのです。しかし私たちの内にその力があるのではなく、御霊により神様の愛が私たちの内に満ちていく時にその事が起きてくると聖書は語るのです。

 あなたこの愛を受け取っているでしょうか? あなたがどん底にあってもイエス様が共にいて下さると本当に信じていますか? あなたは「こんな自分は耐えられない」と思うあなたと共にイエス様がいて下さり、そのあなたを愛してくれていると本当に思っていますでしょうか? このことをまずしっかりと受けとっていただきたいと思います。そこからあなたの内に新しい命が現われ始めるのです。愛は受け取らなければ消えて無くなります。本当に神様の愛を心から受けとめ、この愛が出て来る者とさせていただきましょう。
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