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 日曜礼拝メッセージ

「御霊の賜物」



 新約聖書 第1コリント12章4節〜27節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

2003年2月16日

 1月に入ってからは教会についてずっと学んできました。第1回目は『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』と。第2回目は、私たちは神様の恵みを頂いて同じ御霊により生み出された者として兄弟姉妹となることを。第3回は『人知をはるかに越えた愛を知ることができますように。』どんなに私たちが落ちぶれ酷く醜い者になろうとも、なおも私たちを愛して下さる神様の愛を。第4回は、神の御霊が与えられている故に、御霊により一致を保つことを学ばせて頂きました。

それぞれの賜物

 今日はこの御霊は私たちに力を下さっただけではなく、賜物も下さった事から学ばせていただきたいと思います。

 賜物は生まれながらの才能とは違います。才能は誇ることがあるかもしれません。でも賜物は神様が一方的に下さったものですから、誇るわけにはいきません。才能と賜物が同一の場合もありますが、本来は別々です。皆さんが「イエス・キリストを自分の罪からの救い主。人生の主として信じている」ならば、神様は間違いなくあなたに神の聖霊を宿し「御霊の賜物」も与えて下さっています。神様は私たち1人1人に使命と目的を持って生かして下さっています。ですから賜物を知ることは「私たちの使命」を知るためにも大切なのです。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第1コリント6章20節)

 聖書は、人は自分のために生きるのではなく、神の栄光のために生きる時に幸せなのだと語っています。私たちは自分のために生きることが幸せであると考えますが、これが大きな間違いなのです。反対に私たちは人のために、犠牲を払っても、その人が心から喜ぶ時、無上の喜びがあるのです。すなわち私たちは自分のために生きようとすると幸せになれず、他者のために、特に私たちを目的を持ってお造りになられた神のために生き始めるならば、そこに本当の生き甲斐が出て来るのです。何をしていても、「これで神様の栄光が現わされるように」と行動しているならば、やりがいも意味も感じるのです。ところがやっかいなことに「神のために生きよう」とすると「できない」という現実にぶつかるのです。ここで御霊の必要が出てくるのです。もし「御霊によって愛せるようにして下さい」「仕えたくないけれど、仕えられるようにして下さい」「一生懸命にできないけれど、一生懸命にできるようにしてください」と祈れたら幸いです。その時御霊による新しい生き方と創造がだんだんとできるようになってくるのです。

 しかしそれだけではなく、さらに神様は私たちをキリストの身体として召しておられることを知る必要があります。神様は1人1人に神様の使命を果たすために必要な賜物を与えて下さっているのです。教会の中では1人1人にその人が果たすべき使命と任務があり、そのために必ず1人1人に御霊の賜物が与えられてるのです。

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、是非次ぎのことを知っていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私はあなたがたに次ぎのことを教えておきます。神の御霊によって語る者は、だれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第1コリント12章1節〜3節)

 この世には多くの偶像、多くの宗教がありますし、また霊や奇蹟を行なうものもあります。霊だからと言って簡単に信じないようにして下さい。それが本当に神からのものかどうかを見極めて下さい。イエス・キリストを告白するのであれば、そこには神の霊があり、そして神の御霊の賜物があるのです。 

「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」(4〜7節)

 御霊の賜物は『みなの益となるために』与えられているので、他の人がそのことで助けられ、慰められ、励まされ、力を受けるのです。ですから決して誇ったり自慢してはなりません。自分に与えられている賜物を喜んで他の人のために使うべきなのです。面白いもので、その人に与えられている賜物は他のクリスチャンの方が気付くことが多いのです。なぜならあなたの賜物で他の人が助けられているからです。私たちは劣等感があり、自分に与えられている賜物をなかなか認められないのです。ですから他の人の賜物を感じた方はぜひ本人に「あなたには○○の賜物が与えられていると思いますよ」と言ってあげて下さい。でも言われたからといって決して高慢になって自分が誇ってしまうのはよくありません。『みなの益となるために』仕えるために与えられていることを覚えて、へりくだって仕える者となっていただきたいと思います。具体的にはここにいくつか書かれています。

「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には、奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分けて与えてくださるのです。」(8〜11節)

 ここに書きあらわせないほどのさまざまな賜物があります。それぞれが生かされ合いキリストの身体が建て上げられるために与えられているのです。皆さんの賜物がフルに生かされていけば、多分教会に来た人が「ここに来ると何かイエス様を感じる。」という集いになれると思います。これが理想だと思っています。多くの方は自分の賜物に気付かないために用いていないのです。すべての賜物が生かされ合うことにより、キリストがそこにおられるような働きと業が教会を通して成されていくのです。その為に1人1人の賜物が生かされていくことが大事なのです。「自分には与えられていない」という事は絶対にありません。賜物の詳しい説明はさまざまな書物も出ていますので、そちらも見ていただければと思います。

 ここでは少しだけお話しします。『御霊により知恵のことばが与えられ、』これはその人に神様が「こうやれば問題なくスムーズに進む」という知恵を与えられること。『知識のことば』とは、いろいろなわかりにくい事柄に対し、神様から光が与えられる真理が示されること。『信仰が与えられ』「信仰って皆が持っているのではないの?」と思うかもしれませんが、救いの信仰は全てのクリスチャンに与えられているのですが、この意味は「神様にはできる」と信じる信仰、確信が強く与えられているのです。ですからこの人は真剣に祈り求めます。ある人には『奇蹟を行なう力』この人が祈ると不思議なことが起こったりします。韓国で研修所の建物を建てようとしたら、法律でその高さの建物は建てられないと決められていました。するとその人は「では法律が変るように祈りましょう」と祈ったら本当に法律が変ったのです。あるいは『預言』、神様から言葉をいただく、これは励ましの言葉や御心を教えられて分かち合っていくというメッセンジャーとしての意味合いもあります。『霊を見分ける力』人が気が付く前に「これは何か神様の力とは違うものが関わっている」と感じる人。あるいは『異言』御霊の力で習ったことのない言葉を話すのです。この他にもさまざまな賜物がありますが、それらが生かされあっていくのです。どれが上でどれが下ということはありません。みな神様の身体を建て上げるために必要だから与えられているのです。私たちは「あの人の賜物の方が良い。」とか「この人の賜物が羨ましい」と感じることがありますが、これではだめです。その人に相応しく与えられているのです。それぞれの賜物が生かされ、それで形が整っていけば良いのです。12節からはクリスチャンになっても「自分はダメだ」と劣等感の強い方のための言葉です。


互いの賜物が生かされ合う

「ですから、ちょうど、からだ一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲むものとさてたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」(12〜15節)

「しかし、このとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(18節)

 私たちは人のものが欲しくなるのです。でも神様はそれぞれに相応しく分け与えて下さっているのですから、それが生かされていけばいいのです。ですから自分に与えられている賜物が何かを知り、それを用いていただくことが大切なのです。 

「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。」(22〜24節)

 「私みたいな者はダメだ。あれもできない。これもできない。私は一人前のクリスチャンにはまだまだ足りない。ただ隅にいればいいんだ」ではありません。その人の賜物が生かされないなら、教会は元気になっていかないのです。ですからそのことを十分に知り、自分に与えられている賜物をしっかり知っていくことが必要なのです。しかし少し知り始めると他の人の賜物をねたんだり、裁きたくなってきたり、「あの人の賜物は不要だ」と思ってしまう危険性も出てきます。皆の賜物が生かされていく必要があるのです。私の経験では「教会の中で、この働きが、配慮が足りない」と思ったならば、それがその人の賜物である可能性が高いように思います。例えば「この教会はもっと伝道すればいいのに」と感じた方は伝道の賜物が与えられている可能性は高いのです。ですから「誰かが」ではなく「自分が」そのことに携わり始めることが大切だと思います。そうすると教会が元気になり生き生きとしてくるのです。そしてお互いに助け合い支え合うことができるようになっていくのです。私たちはぜひとも互いの賜物を生かしあう者でありたいと思います。特に大事なのは「自分みたいな者は神様のために何もすることがない」と思われている方は『からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』という御言葉を思い起こしていただきたいと思います。誰が尊いとか誰が劣るのではないのです。お互いを神様がちょうどよく調和して下さったのですから、支え生かし仕え合っていくことが大事であると思います。

「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(25〜27節)

 それぞれの弱さも悲しみも苦しみも、分かち合い支え合っていけたならどんなに幸いでしょう。分裂なく裁いたり高慢になったり、落ち込んだりするのではなく、他の人の弱さを別の人が補い、他の人の強さは別の人の助けに用いられていく、そのようになる時に、教会は生き生きとしていくのです。でも残念ながら私たちの教会も、1人1人の賜物が十分に生かされているとは言えないように思います。1人1人に豊かに賜物が与えられているのに生かされていないので、その賜物のない人が力を出して頑張ってやっている、そういう現状があるように思います。そうではなくそれぞれが与えられている賜物を生かしあっていければと思います。

 そういうわけで、「自分に聖霊が与えられているかどうかよくわからない」「私はまだ聖霊の賜物をいただいている自信がない」と思っている方は、まず主の前に自分が人を、恨み憎み嫉妬したり妬んだり、神の前には罪を犯してきた罪人であることを認め、「イエス様。私のこの罪を赦して下さい。あなたを罪からの救い主、人生の主として信じます」と祈って下さい。そうすれば間違いなくあなたの罪は赦され、神の御霊があなたの内に来て下さいます。

 次に皆さんの内に御霊が来て下さっていたのに認めていなかったこと、聖霊様を無視してきたことを告白し、助けて下さるように祈り求めていきましょう。そしてさらに神様に「御霊が与えられていることが、もっと分かるようにして下さい」と祈りましょう。そうすれば、神様がだんだんと教えて下さいます。そして「これが私に与えられた賜物かな?」と思ったなら、思いきってその関係の奉仕をしてみましょう。賜物であるならばその奉仕をする時、初めは恐れがあっても喜んでできるようになると思います。賜物が生かされる時喜びがあるのです。そしてその奉仕を受けた人にも助けられたという感謝と喜びがあるのです。それゆえ、賜物が生かされる時、お互いが感謝なのです。神様の業はそんな風なのです。ですから賜物が生かされなかったなら「もったいない」のです。「これかもしれない?」と思い、実際にやってみて力も喜びも出てこなければ、多分それは賜物ではないのだと思います。また周りのクリスチャンの「それはあなたの賜物だと思いますよ」との声に耳を傾けてみる事も大切です。そしてそれが実際に生かされ合う時に、「あそこの教会に行くと何かイエス様にお会いしたような気持になるのです」というような感想が出てくるようになるのです。このようなことが現実となりたいですね。秘訣は皆さんの賜物が生かされ合うことです。土に埋めたままにしないで、掘り出して生かされ合うようにしましょう。例外なくイエス様を信じているのなら、あなたにもその賜物が与えられています。生かされ合い神の家族としての身体、互いに愛し合う群れを築かせていただきたいと思います。
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