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2003年3月23日 日曜礼拝メッセージ

「成熟を目指して」



 新約聖書 ヘブル5章11節〜6章12節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 エペソの手紙を通して「教会」について大まかに学んで参りました。教会とは『いっさいのものをいっさいのものよって満たす方の満ちておられるところです。』この祝福を教会に与えて下さっています。私たちはその一員とされているのですが、現実には中々そのことにあずかることが少ないか、あずかっていても弱いと感じることがあるかもしれません。私たちは今日ヘブル書から教会に置かれた私たちがどのようにして祝福に留まり、祝福に満ちた者とさせて頂けるかを学ばせていただきたいと思います。

経験によって良い物と悪い物を見分ける

「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれからに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(5章11節〜14節)

 『この方について』これはイエス様のことを指しています。この方について話なさなければならないことがあるのが、あなた方は聞くことができないと言っているのです。

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたにはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16章12節〜14節)

 聖霊を受け、聖霊によって説き明かされなければその意味する所が分からない。ここで学ばせていただきたいのは、自分の内に神様の御業がなされることを求めていなければ私たちの耳は鈍くなってしまう危険性があるのです。彼らは何年もクリスチャンとして歩んだのでしょう。ですから教師として立つ立場にあったのですが、その状態は基礎をやり直さなければならない状況だというのです。クリスチャンとして何年間か過ごしていますとある程度のことを分かった気になってしまうのです。説教題を見て「今日のメッセージはこんな内容か」と大体想像し最初と最後だけ聞いて「やっぱりな」と納得してしまったり。気をつけなければなりません。私もクリスチャンとして何年か経過した時に「クリスチャンってこんなものか」「聖書ってこんなものか」と思った時期がありました。今から考えると「分かっていた」と思ったことが錯覚であり、表面をなぞっただけであったと思わされるのです。私たちは真実な御言葉の意味を学ばせてもらわなければならない。それは単に知的に知るということではありません。聖書では「知る」とは「ギノスコー」という言葉が使われています。これは経験を通して「知る」ということです。このように私たちは神様を「知る」必要があるのです。私たちはもう1度自分がどこに立ちどのように求めていくべきかを知っていくことが必要であると思います。そして『まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』とあります。私たちは訓練や試練を通らなければ本当の意味での強い信仰、健全な信仰に育っていくのは難しいというのです。別な言い方をしますと「試練は逃れたい。自分に都合の良い事だけ受けていたい」「恵みは受けるが試練はいらない」と思うおです。もちろん「患難万苦を我に与えたまえ」と言う必要はありません。『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。マタイ6章13節』と祈りなさいとありますから、こう祈ることは悪くはありません。しかし神様が与えられる試練や訓練を逃げ越したり、ごまかしたり、見て見ぬ振りをするのではなく、しっかりと立ち向い、そのことを通して学ぶべき事柄を学びとっていくのです。嫌なことに出会った時に「これは私が訓練され砕かれるためである。本当の意味で自分の姿を教えられるためだ」と1つ1つの出来事の中に直面させていただく時に、私たちは成長していくということなのです。種蒔きの例え話を覚えていますか。

「 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13章3節〜8節)

 ここに面白い表現があります。健全な育ち方をするために植物には太陽が必要です。ところが「岩地に蒔かれた種」に関しては太陽は種を死滅させてしまうのです。同じ太陽ですが、ある人にとって萎えさせるものとなり、ある人にとっては力強く生きていく力となります。私たちは試練を通して学び取らせていただくことが大切であると思うのです。試練を受け入れていく時に、弱々しい根が岩地の岩を真っ二つに割り大地に根を張る事ができます。私たちは試練を主の前に持ち出し主によって戦っていきます。こうする時に岩地が砕かれて、そこに立派に植物が育ち実を結ぶようなるのです。私たちは都合の良い所だけを受け取り、嫌なことには「従いなさい」「捧げなさい」と言われても「嫌だ」となるのです。私たちは「全面的に心から主にお従いさせて下さい」と祈っていくことが大切ではないかと思います。その時に良いものと悪いものを見分ける感覚が訓練されていくのです。「これは神様から来ている」「これは悪しき者から来ている」「これは肉の思いだな」と訓練を受ける時に、段々と見えてくるのです。ですので「見えるまで教えて下さい。」と求めていくことが必要なのです。それにより私たちは見分けることができ、神様の祝福にあずかる者となるのです。

訓練の後の祝福

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」(6章1節〜3節)

 クリスチャンは救われただけで良しではなく、救われた後にそこに停滞し続けていてはならないのです。クリスチャンはそこから引き上げられて神様の器に変えられていくために、選ばれ召されているということです。そこで訓練を受け変えられていくのです。いろいろと神様に求めると思いますが、この求めを絶えず持っていくことが大切かと思います。ある時に聖霊がよく分からなかったときに「これを教えてもらったなら他に何も要らない」というほどに必死になって求めました。そしてついに「分かった」と思えるようになったのですが、その後しばらく私の信仰は停滞してしまいました。「分かった」これは危険です。私たちはもっと上にあるものを求めていかなければならなりません。大きな神様の祝福をいただくために召されているのですから、低い所で自己満足していてはいけないのです。神様が与えようとして下さる祝福にあずかるために、自らを主に明渡していくことが大切だと思います。それでは『初歩の教えをあとにして』とあります。『死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式や、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやりなおしたりしないようにしましょう。』これらは初歩的なことだと語るのです。私たちはもっと神様にある幸いな交わりに導かれていく必要があるのです。


 まず第1には『死んだ行ないからの回心』、私たちは肉の行ないをいまだに、し続けていないですか? そこから離れて神の者として歩むことができるようにされたのに、そこに留まり続け「仕方がない」と言ってしまっていることはないでしょうか? 肉の力で一生懸命に頑張るのではなく、神様に寄り頼みそこから解放されていくのです。そして主イエスに対する信仰「イエス様は打ち勝って下さった。勝利して下さった。この私にも神様を恵みを与えてくれることができる」、このことをしっかりと握り締めていく必要があると言っているのです。神様はよみがえり死を打ち破って下さいました。私たちに良きことを成そうとして下さっているのです。少し嫌なことがあると「神様は私を見捨てた。私を嫌って意地悪している」とサタンは私たちにそう思わせます。その言葉に乗らないで下さい。そこから主の御言葉に立って歩んでいくことが必要ではないでしょうか。  『死者の復活』、死からよみがえったいのちは私たちの内にもあのですが、それをどこまで受けとっているでしょうか? 自分の中によみがえりの主が生きておられるという確信を持っているでしょうか?

 『とこしえのさばき』『人は1度死ぬことと、死後さばきを受けることはまぬかれない』とありますが、私たちはごまかされてしまうのです。神様はアダムとエバにはっきりと『「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』と言われたのを、『「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」』とごまかしまどわされてしまうのです。私たちも御言葉をいい加減にしてしまうことがあります。ですからイエス・キリストを信じ、宣べ伝える必要があるのです。そういった基礎的なことをしっかりと受けとめていく必要があるのです。そして『神がお許しになるならば、私たちはそうするべきです。』と正直に言いまして「また失敗した。またやられてしまった。また不信仰になってしまった」を繰り返しやり直している人であったのでしょう。しかし願わくばそこに留まるのではなく、日ごとに変えられてことが必要です。毎日神様によって私たちは引き上げられ強められ新しくされていく道に歩む必要があるというのです。  さて、それに対し厳しい言葉が出て来ます。私たちはついつい甘えの方向にいってしまい「この程度で良いではないか」と上に向って進むことを止めてしまうことがあります。勤勉に神様を求める心が失われやすいのです。そうではなくしっかりと主に向っていく必要があります。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」(4〜8節)

 私たち罪を「良し」と言ってしまう危険性があるのです。私たちはこの御言葉にしっかりと立っていかなければ、あっという間に崩されてしまうのです。私たちは「神様にしっかりとついて行こう。毎日変えられていこう」という覚悟が必要でなのです。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人人は同じ苦しみを通って来たのです。」(第1ペテロ5章8節〜9節)

 「私は神様に対してしっかりとした信仰を持っているのだから大丈夫」、これは危険です。「もう信仰も持ったし、確信もあるし大丈夫」と安心していると、気付かないうちに滑り落ちていく状態にあります、という警告です。小さな罪を赦すことが大きな「しくじり」につながっていくのです。「これくらいなら大丈夫」ではなく、そこにきちんと立っていかなければそれらの誘惑に私たちも乗ってしまいます。あなた方もせっかく神様の祝福の中に入れられたのですから、2度と足を滑らす事のないようにと厳しく戒めて下さっているのです。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」(9〜12節)

 神様はまず第1の約束として、あなたのしたことを覚えてくれているのです。人が認めなくても、人から評価されなくても、神様はあなたが神の前にどう歩んだかを覚えて報いを下さるのです。第2に『最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。』、これは神様が天において永遠の命、永遠の祝福に導いて下さるという約束です。これを決して忘れずそこに留まるようにと語るのです。悪しき者は何とかして私たちを祝福から遠ざけようと絶えず働きます。それに騙されてはなりません。『信仰と忍耐によって約束のものを相続する』とありますが、神様はそうできるのです。しかし時にはそれが私たちの目に見える形で現われない経験をすることもあるかもしれません。そんな時にこそ忍耐が必要です。「神の約束だから神様は必ず与えて下さる」と希望を持って待つことです。その時に

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1章4節)

 私たちは目の前に現われる嫌なことや上手くいかないことに惑わされたり、あるいは自分の思い通りにならないと言って神様から離れるのではなく、その困難や試練を乗り越えてなお主に信頼し、主の約束に立ち主の御業を待ち望む者になっていきたいです。もし私たちが試練の中で主に信頼して歩み成長させ、訓練を通してもっと私たちを引き上げて下さるという決意に歩んでいかなければ、せっかくの祝福が消え去ってしまうのです。その時は『この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことは困難です。』という状態になってしまうのです。今あなたの状態は神様との生き生きとした関係の中にあるでしょうか? あるいは日々神様の恵みを求めて主の前に歩んでおられますか? それとも「こんな試練は嫌です」と主から離れ神様の恵みから遠ざかる滅びの道に向かっているでしょうか? そうではなくともに神の祝福にあずかる道に歩んでいきたいと思います。それには神の御霊によって歩むお互いとされていきたいと思います。
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