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2003年3月30日 日曜礼拝メッセージ

「御霊によって」



 新約聖書 ガラテヤ5章13節〜26節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今年に入ってから私たちは「教会」について学んでまいりました。前回は「成熟を目指し御霊に導かれていく教会に変えられていく事が必要です。」と学ばせて頂きました。今日はその中で主にあって自由に歩む事ができる特権を学ばせていただきたいと思います。

自由の中を歩むには

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5章1節)

 イエス・キリストを信じた者は『自由を得させるために』召されているというのです。「自由」とは何でしょうか? 「悪い事をする自由」でしょうか? 悪い事をする自由はクリスチャンであるないに関わらず持っています。信じる前にも罪を犯す自由はあったのです。ここで言っているのは「罪を犯さない自由」です。この自由の中に生きることこそ祝福と喜びです。イエス様が弟子たちに『あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5章13節〜14節)』面白いのは「あなたがたは地の塩になる、世の光になる」と言っていないのです。「あなた方が現在“地の塩、世の光”だ」と言っているのです。イエス・キリストを信じた者は地の塩、世の光となる属性を既に与えられているということなのです。私たちはこのことを知り、神様に従って生きることができるようにならせていただきたいと思うのです。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(13〜15節)

 私たちは罪を犯さない自由が与えられています。聖書の言葉で言うならば『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』こういう生き方が私たちにはできるようにされているのだから、そう進みなさいと勧めているのです。でも私たちは「そうしようとしてもできない」と思われるかと思います。できるようになる方法が16節以降に記されています。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(16〜17節)

 結論からいえば「御霊に満たされ歩みなさい」ということと分かると思います。御霊により歩むならば、私たちは決して肉の欲望を満足さることはない。反対に肉により歩むならば、肉の欲望を満足させる罪の生き方になってしまいます。私たちがしばしば「肉によって歩む方が気楽だ。御霊によって歩むのは堅苦しく辛く大変なこと」と騙されているのです。私たちは神様からこの尊い恵みをいたのですから、その道をしっかりと歩めるようにならせていただくことが大切なのです。第1には、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じた人は、罪から清められてその人の内に御霊は宿る事ができるのです。この事実を絶対に揺るがせないで下さい。サタンは「お前には御霊は与えられていない。お前はまだだ。もっとこれをしたら」と律法主義に陥らせるのです。そうではなく、イエス・キリストを信じるだけです。しかし神の御霊ともに肉の人生もあります。例えば40歳でイエス様を信じたとします。40年間は肉の生き方をしてきましたからすっかりと自分の物になっています。肉年齢は40才ですが、御霊年齢は0才です。ですからよほど気を付けていないとすぐに私たちは肉の欲望を満足させる生き方になってしまいます。私たちは肉の生活を御霊の生活をバランスをとって生きようとすることがあるのです。そうすると滅茶苦茶になります。自分で訳が分からなくなってしまいます。私たちはバランスをとるではなく、肉により生きるのか、御霊により生きるのかどちらかなのです。私たちは御霊により生きる生き方にさせていただくことが大切なのです。そうなれば私たちは罪に負けることは無くなりますし、神様の恵みの中に歩むことができるのでする。ではどうしたらそうなれるのでしょうか。

肉の歩みか御霊の歩みか

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」(18節)

 私たちは御霊の声に聞き、御霊に導かれて歩むことが大切なのです。例えば困っている人を見て「この人を助けるべきだな」と一方が語ります。しかしもう一方は「やめておきなさい。大変だよ。時間がなくなるよ。苦しくなるよ」と語るのです。どちらに聞き従いますか? 私たちは大体肉の声に聞いていると思いませんか? そのために私たちは神様の恵みの生き方ができなくなってしまうのです。肉によって生きる方が正しいと思ってしまっているのです。私たちの古い性質は自然に出てきます。私たちは肉なるものを切っていく必要があります。しばしば私たちは「それはできない」と思ってしまいます。もう一度肉に生きる生き方がどんなに悲惨なものか見てみましょう。

「肉の行ないは明白であって、次ぎのようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが、神の国を相続することはありません。」(19〜21節)

 『不品行、汚れ、好色』、これは家庭や社会を乱す罪です。これらにより滅茶苦茶になってしまう人もいます。『偶像礼拝、魔術』、これは神様との関係です。「偶像」とは形造られた物以外にもあります。物であれ、人であれ、金銭であれ、名誉であれ人間が作った物が偶像なのです。『敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分派、分裂、ねたみ』これらが私たちの内から消え失せたならどんなに素晴らしい人間関係ができると思いませんか?『酩酊、遊興』、自分自身を台無しにしてしまうような肉の姿です。  これらが私たちに何か益をもたらしますか? 肉によってはこんな生き方にしかならないのです。先程『隣人を愛せよ。』という教えがありましたが、肉によるのと御霊による違いをお話したいと思います。肉によって良い事をする事もあります。「この人を愛さなければならない。大変だわ。こんな人をどうして愛さなければならないのかしら。でもやらないとまずいから」となります。それに対して御霊によると「可哀想だわ。何かしてあげることはないかしら。助けてあげられることはないかしら」と重荷も苦しさもなく当然の事としてできるのです。どちらが良いですか?   「嫌だ」と思いながら、妬みや嫉妬を抱えて歩みたいですか? 肉により歩むとそんな不自由で面倒くさく辛い生き方しかできないのです。ところが御霊によって生きる時にはそれが当然のこととして喜んでできるのです。


「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(ローマ8章12節)

 私たちは御霊によって歩んで良いのです。しかしどういう訳か昔の生き方、「これはしてはならない。あれもしてはならない。」と罪に押し込まれる生き方になってしまうのです。昔の生き方から解放される道、それが御霊によって生きる生き方です。21節の後半には『こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』とありますが、これは厳密に訳しますと「こんなことをし続けている者たち」となります。クリスチャンも罪を犯します。しかしその罪を悔い改めるのがクリスチャンです。残念ながら「悔い改める」までいかずに「悔い」で終っていることが多いかもしれません。「しまった!そのためにイエス様が十字架に掛かり死んで下さり赦してくれた。解放してくれた。新しい生き方ができる」とまでなって欲しいのです。いずれにせよ罪を犯し続けることはありません。犯しても悔い改めるのがクリスチャンです。それでも平気で続けているのであればあなたの内にはまだ御霊が宿っていないからかもしれません。もし私たちに御霊が宿っているならば「いけない」ということに気が付くのです。それでは御霊により歩む時に、私たちに何が出てくるのでしょうか。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(22〜24節)

 これらは肉と御霊のバランスをとる生き方からは出てこないのです。肉に死に、御霊にあって生きていく時に私たちはこうなっていくことができるのです。しかし私たちは「できない」と思ってしまうのです。聖書は『十字架につけてしまった』と言います。この事に気が付いていず、認めていない場合が多いのです。これが私たちが御霊によって歩むことが出来にくくなっている原因かもしれません。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありません。私たちは。キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているのです。」(ローマ6章3節〜7節)

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6章11節)

 この箇所は私たちが十字架につけられキリストと共に死んだと語るのです。自分ではまだ死んでいないと思っているかもしれません。それは騙されているのです。聖書にはっきりと『私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた』と言っています。「でも私たちの経験は生きている」というかもしれません。この神の力は信じる中に働くのです。ですから不信仰の時にはその力が働かないのです。「本当に自分の肉は既にキリストと共に十字架につけられ死んでいる」と信じ続けている限り、その罪の思いが消える経験をきっとなさると思います。私たちは騙されてすぐに「違う」と思いこまされてしまうのです。「だって2000年前の十字架と今の私とどんな関係があるのか?」と思う方もいるかもしれません。 

「すなわち、神は私たちを世界を基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1章4節)

 『神は私たちを世界を基の置かれる前からキリストのうちに選び』ということは、イエス様が十字架に掛かった時に皆さんはどこにいましたか? ともに十字架に掛かっていることが分かります。イエス・キリストが蘇った時にはその中にも私たちは入っています。このキリストのうちに私たちを十字架の前に選ばれていたと言うならば、イエス様が十字架に掛かる時、蘇られた時にそこに私たちもいたのです。私たちが「神様が本当にそうして下さっている」と信じるならばその力が働いて事実、私たちはさまざまな古い肉の思いから解放されていく体験をしていく事ができるのです。「私は本当にキリストと共に死んでいた」、この事実をしっかりと受けとめましょう。ですから私たちは「罪を犯さない自由」が出て来たのです。私たちは信仰に立っている時に罪のうごめく力を死なせる事ができる神の力が働き始めたのです。「主よ感謝します。この私の肉が、この私の罪はキリストと共に十字架に既に掛けられた事を信じます」、ぜひこの信仰に立って頂きたいと思います。そしてその上で

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありません。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(25〜26節)

 私たちは自分でやろうとすると失敗します。ですから「そのことをさせて下さい。」と願っていく時に、自分にできなかったことができるようになってくるのです。これが神様が私たちに備えて下さっていることなのです。ですから『互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。』。私たちは日々この肉に死んでいくことが必要なのです。自分のいろいろな思いが出て来た時に「お前は既に死んでいる。騙されない。イエス様とともに自分の中に出て来る妬みや嫉妬や憎しみはキリストとともに死んでいる」、これが信仰の戦いなのです。そのように信じて立っていく時に、その思いが打ち破られていくのです。ぜひこの勝利の体験を自分の物にしていただきたいと思います。

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(第1ヨハネ5章4節)

 私たちの内に「イエス様が私のために死んで下さった」という信仰が与えられたならば、既に悪魔の業は根本において切られてしまったのです。神様はあなたの内にあり勝利したのです。ですからこの勝利を日々新たにして歩ませていただきたいと思います。主は確かに私たちと共に死んで下り、私たちに新しい命を下さったのです。この信仰に堅く立ち、騙されずサタンの「それは違う」という言葉には耳を傾けずに共に勝利から勝利へと歩む人生を進んでいきましょう。「御霊によって」、これが私たちが1年間掛けて学び体験していきたい生き方であります。この第1歩を今日お話させていただきました。
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