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2003年4月27日 日曜礼拝メッセージ

「へりくだり立ち帰るなら」



 旧約聖書 第2歴代誌7章11節〜22節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今月の目標は「悔い改めと信仰を明確に」です。これは私たちが神の御霊によって歩ませていただくには、「悔い改め」「信仰」「主の赦し」をしっかりと受けとっていくことが大切だと思うのです。これに関して1つぜひとも味わわせていただきたいと思っていることがあります。世界中に「リバイバル」がおとずれたことがありました。神様の御霊が驚くべき勢いで現わされ、その地を一変させてしまう働きが起こったのです。グアテマラのアルモロンガという町では1970年くらいまでは偶像礼拝や不道徳や魔術やアルコールが蔓延っていた町でした。現在は町の98%の人が生まれ変わったクリスチャンになっているというのです。そのきっかけは町の1人の青年が回心し、牧師となり町の人たちと一緒に町のために心を尽くして祈り始めた時から変り始めたそうです。現在はこの町の4つの刑務所が全部閉鎖されているそうです。刑務所に入る人がいなくなってしまったのです。1つ、2つと閉鎖され遂に全部が閉鎖されているのです。以前町には36のバーやキャバレーがあったそうですが、今は雑貨屋やスーパーマーケットになっているのだそうです。リバイバルは1人1人の魂が造り返られていくだけではなく、その家庭が変わり社会が変わり、地域が変っていく驚くべき力、その力が私たちの頂いている「福音」の中にあるのです。私たちもその恵みにあずからせて頂く期待と可能性があるのです。問題は私たちがそこに向っていこうとするか否か、です。私たちもぜひ「起爆剤」にならせていただければと思います。

祝福の約束と警告

 ロシアのベラルーシには有名なチェルノブイリという放射能に汚染された地域があります。この地域はあの事故以来今後200年間は作物が採れないと言われた地域です。その地の1人のクリスチャンが「この地も神様あなたの物です。どうかこの地を癒して下さい。この地を回復させて下さい。」と真剣に祈り始めたそうです。現在はガイヤカウンター(放射能濃度を計る機械)には何の反応も出ず、その地の放射能は本当に消えているのだそうです。そこには昆虫や動物がどんどんと戻ってきているのです。ある方がその地で取れた蜂蜜をもらいました。しかし心配になり政府機関に持ちこみ調べると、その蜂蜜から放射能は全く検出されず、さらに最高級の蜂蜜であるとお墨付きをもらったそうです。神様の御業は驚くべき力を持っていますし、いつの時代でも「もし私たちがその気になりさえすれば」神様は驚くべきことを成されることを心に留めたいと思います。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16章9節)

 神様は私たち1人1人にも『その心がご自分と全く一つになっている』ならそこに御力を現わして下さるのです。私たちもそういう者、そういう教会にならせていただきたいです。その秘訣が今日の歴代誌の中にあるように思います。有名なソロモン王が神殿と王宮を建て上げた時に神様から頂いた言葉が記されている箇所です。素晴らしい壮大な神殿を建て上げたソロモンの祈りが6章です。本当にへりくだった時に、神の栄光が主の神殿に満ちたと書かれています。これを「シェケナー」といいますが、神の臨在を現わす光が輝いていたのです。その地は神の栄光で満ち人々はそこに入ることができなくなり、ひれ伏したとあるほどです。その時に神様からソロモンに声を掛けられました。

「すると主がソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、またいなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしに民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪の道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(12〜16節)

 『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげわたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』。先程のチェルノブイリの話をしました。正しく神様はこのことを今でも約束して下さっているのです。問題は私たちがこの事に励むかどうかです。私たちはここに歩んでいくなら神様は驚くべき祝福を下さるのです。しかし警告も記されています。

「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたは、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない。』と言って契約を結んだとおり、あなたの王座を確立しよう。しかし、もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地から、彼らを根こぎにし、わたしがわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨て、これをすべての国々の民の間で、物笑いとし、なぶりものとする。かつては並びもなく高かったこの宮も、そのときには、そのそばを通り過ぎる者がみな、驚いて、『どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から連れ出した彼らの父祖の神、主を捨て、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちにくだされたのだ。』と言うようになる。」(17〜22節)

 彼らが神様に従っていく限りは祝福は約束されているのです。でもその神を離れるならば、さまざまな困難や苦しみにあわなければならない、これが警告です。この原則は今も変りません。私たちが本当にへりくだり神様に仕えていくならば祝福を溢れるばかりに注いで下さいます。しかし私たちが神様を離れ自分勝手な道を歩むならばとんでもないことが起こるというのです。私たちは主を恐れ、主に従う民とならせていただくことを警告として受けとめていきたいです。しかし神様は警告だけではなく、あなた方が祝福の基となり、大いなる御業があなた方から流れ溢れるようになることが本当の神様の御心です。

 どうしたら良いのでしょうか。一旦汚れてしまった所でも、もし私たちがこの原則をきちんと受けとめていくならば、あのチェルノブイリに起こった事は今でも起こるのです。そして事実そのように歩んでいる方々に確かに神の雨が注がれているのです。

 私たちの周りにも、私たちの家庭の中にも、教会の中にも、地域の中にもその神様の御業は起こるのです。問題は「わたし」自身がこのことをしっかりと受け取るか否かということです。  もし皆さんの生活の中にさまざまな困難や試練や苦しみが立て続けに起こったとするならば、私たちはそこに主の手、主の業を見、主の前に「どうしてですか?」と聞いていく必要があります。「何気ないただの日常の出来事」と思うのではなく、私たちが天地創造の全てを治める神を信じているのであるならば、皆さんに現われる1つ1つの中に神の思いを探るべきだと思います。その時に神様は私たちに語って下さると思います。

 イエス様はある時に言いました。

「さばいてはなりません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁に気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などと、どうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7章1〜5節)

 私たちも裁くという罪がすぐに入ってくると思いませんか。一瞬一瞬気をつけなければ、自分の価値観で人を裁いてしまう。これが妨げになっているというのです。私たちはまず自分の中の裁きを取り除く作業が必要です。また多くの祈りに応えられない理由の1つに、私たちが罪をそのままにしてしまっているため、神の働きがストップさせられている現実をもっと私たちは知るべきです。私たちは生活の中に現れるさまざまな出来事の中における神の手、神の業を真剣に受けとめる必要を覚えていきたいです。そして自らの中にさまざまな出来事が起きてくる時に次の御言葉があります。

祝福に与る4つの秘訣

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(第2歴代誌7章14節)

 まず第1に必要なことは『へりくだり』です。私たちはなかなか「自分の本当の姿」を認めようとはしません。人に対しては色々と思ったり言ったりします。でもどうでしょうか? 自分自身の間違いについては軽く見積もってしまう傾向がないでしょうか? それを真剣に「悔い改めよう」とはしない傾向にないでしょうか? 私たちは自分がしていること、考えていること、感じていることを1つ1つを見て「自分はどんな者なのか」と考えると、「私には愛がない」と思いませんか? 神様が私たちに命じている標準的な生き方は「互いに愛しあう」ことです。愛し合えないのは神の前にずれているのです。私たちの生涯は神の栄光のために生きることと書かれていますが、そのように生きざまとしていますか? 相変わらず自己中心に自分の為に生きざまとしていることがはるかに多いのではないでしょうか? こういったことを常に悔い改めていますでしょうか? 私たちは月に1度、もしくは週に1度は時間をたっぷりととって、できれば毎日が良いですが、主の前に「主よ。私はあなたの前に罪の告白をすることはないでしょうか」と祈っていくといいと思います。もし皆さんの中に喜びや元気や感謝がなくなってきたら「主よ。何が原因ですか?」と主の前にへりくだることが必要です。これがないために私たちは神の祝福を取り去られてしまい、恵みを注ぐことができないのです。

それゆえ主はあなたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

 神様は私たちに恵みを与えようとして待っているのです。しかし私たちがへりくだらないために恵みを注ぐ事ができなくなっているのです。これが大切であると知っていきましょう。

 次に『祈りをささげ』です。皆さんの祈りの祭壇は築かれていますか? 神様の祝福は祈りを通してやってくるのです。でも祈りの祭壇が埃でいっぱいになっていませんか? あなたと神様との交わりは良い関係になっていますか? 神様に祈るのが億劫になっていませんか? ルターは「この書物はあなたを罪から遠ざけ、しかし罪はあなたをこの書物から遠ざけます。」と言いました。私たちは祈りと御言葉により神様との親しい関係を日ごとに持つことが大切です。そうでなければ神の恵みをいただくことは難しいです。恵みの御座は開かれているのです。問題は私たちが主の前に静まるかどうか? ある人は自分の言いたいことだけを話し、神様が答えようとするとその場から既にいなくなってしまっているのです。形だけの祈りだけではなく、本当に主と交わる時間が大切です。

 さらに『あなたの顔を慕い求め』とあります。私たちは祈りの中であのことも、このことも祈るでしょう。そしてその結果を期待するかもしれませんが、「主ご自身を求めること」があまりにも少なくはないでしょうか? 神様に結果を求めはしても神様ご自身を求めはしないのです。

「 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6章3節)

 お祈りをしていても主ご自身を求める事は案外と少ないと思うのです。主ご自身を求めていきましょう。

 次に『その悪い道から立ち返るなら』とあります。 私たちは分かっていても「仕方がない。皆もやっている」と言い訳をして罪から立ち返ってこようとしません。これが問題なのです。そこには「立ち返ったってどうせ赦してはくれない」とか「変らない」と思ってしまうのです。歴代誌にも出て来る王マナセを思います。マナセ王は歴代の王の中でも特別に悪い王です。ところが苦しくて仕方のないマナセが神様に祈ると、神様はそれを赦したという記事が出てきます。本当に驚きです。何と神様は寛大な方なのでしょうか。同様に神様は祝福しようと待っておられるのです。どんなに神様から離れていても私たちが立ち返っていくならばその私たちを祝福して下さるのです。

 チェルノブイリ事故での放射能汚染地が癒されるというが本当に起きているのです。もし私たちが悔い改めこの4つのことをしていくならば、私たちの内にもこのことが起こるのです。

「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主のはこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ。わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。」(ハガイ1章6〜10節)

 私たちの生活がこのようになっていないでしょうか?「一生懸命にやっているのに少しも実が実らない」のは私たちが主の前に大切な土台をいい加減にしているからなのです。

「さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」(ハガイ2章18〜19節)

 彼らがひでりで乾ききり、どんなに惨めな状態であったとしても、「神殿の土台」いうならば「悔い改めの土台」に立ったその日から彼らを祝福しようと神様はおっしゃっているのです。私たちもこの恵みにあずかっていきたいものであります。

 そうして私たちも神の祝福を他の人が認めざるえないそういう生き方に変えられたいです。それは特別な人だけではありません。全ての人に与えられているのです。誰でも主の前に静まる者はそうなっていくのです。この祝福にもっともっと与っていくお互いとされていきたいと思います。
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