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2003年6月15日 日曜礼拝メッセージ

「キリストにある成人」



 新約聖書 コロサイ1章24節〜29節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義執事

 私たちは多くの人たちに助けられ、多くの人たちに出会い、多くのことを学び経験します。そしてこれらを通して思慮分別を身につけ、自分の言動や行動に責任を持つ事ができるようになっていくわけです。自分の行動や言動に責任を持つことができるようになれば一人前の大人と言われ、法律は20歳を大人とみなし、社会的な責任を求めます。法律は社会に対して責任を負える年齢を定め本人に自覚を促すわけです。人が成長するには、時間が必要なのです。では信仰はどうでしょうか?

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係りとなりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3章24節)

 イエス様が来られる前の時代は律法を学び守ることにより、大人の信仰者へと導かれていったのです。ではその律法を簡単に見てみたいと思います。 

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。」()

「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記20章7〜8節)

「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20章12〜16節)

 エジプトで奴隷であったイスラエル人たちは神様の御業により救われ「神の民」としての歩みを始めたわけです。彼らは「神の民」の歩みがどのようなものであるのか分からないので、神様は「神の民としての歩み」を分かりやすく示されたのが、今読みました律法です。彼らは律法を熱心に守りました。この時は信仰面から見れば生まれたばかりの赤ん坊です。律法は信仰の赤子を導く養育者であり、大人の信仰者へと導くのが役割です。イスラエル人は律法を守ることにより、大人の信仰者になることを求められていたのです。 このことを覚えながら、今日の御言葉に聞いていきましょう。

「24節 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(24節)

 パウロが「サウロ」という名であった時、彼は熱心にクリスチャンたちを迫害していました。その彼がダマスコ途上でイエス様に出会い救い主として受け入れました。ところがクリスチャンたちは彼がイエス・キリストを信じたことを素直に受け入れることができなかったのです。なぜなら彼の迫害があまりにも厳しかったからです。そこで神様はアナニヤにパウロを受け入れ、彼の今後の歩みについて語ります。

「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9章15節〜16節)

 こうしてサウロは「パウロ」と呼ばれるようになっていったのです。恐らくパウロは神様がアナニヤに語った言葉を聞いたのではないでしょうか? キリストが十字架の上で罪の贖いのために苦しまれたように、今自分は教会を生み出すための苦しみを受けなければならないことを自覚しておりました。ですから『あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。』と語るのです。

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」(25節)

 パウロは自分の信仰が立派なので「私を見習って下さい。」と言っているのではありません。神様に対する信仰の姿勢、生き様を見習って欲しいと言っているのです。自分がどのように教会に仕えてきたのをあなた方は知っているのだから、あなた方もこのように教会に仕えて欲しいと言っているのです。パウロは迫害と苦難の連続でしたが、迫害や困難に遭わなければ一人前の信仰者になれないとは言っていません。彼は神様から与えられた賜物をあなたが遣わされている所で用いることを十分に知っていました。パウロは教会に仕える者とされたので、神様から託された御言葉を余すところなく伝えたと語ります。

 ではその神様の「御言葉」とは何でしょうか?

「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされ奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(26〜27節)

 『奥義』とは福音のことです。福音とは「キリストは肉において現われ、私たちの罪のために死んで葬られ、3日目に蘇られた事を信じれば救われる」という良い知らせのことです。旧約時代は動物を殺し、罪の赦しを得ていました。これらの行為により、罪の重さを知り、神様の愛と赦しを知ったのです。そして時が満ちイエス様がこの世に現われ、十字架により救いが完成した奥義が私たちに明らかにされました。神様の願いはこの奥義が全ての人のものとなることです。そしてパウロはこの『奥義』を伝える者でありました。同時にこの奥義が神様の愛、赦し、癒し、力がぎっしりと詰まっており、神様の知恵や知識が無限に与えられていることを経験していました。それゆえ、彼は、この奥義の素晴らしさを多くの人に知って欲しいと思い熱心に語ったのです。
 

「 私たちは、このキリストを宣べ伝へ、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(28節)

 「律法を守ってさえいれば大丈夫」という安心感があるので、熱心に律法を守ります。この状態ではいつまでたっても大人になることはできないのです。神様はあなたが『キリストにある成人』した大人になることを待ち望んでいます。そうであるらば、もっと分かりやすく、具体的に『キリストにある成人』になれる教えを現わすべきと思うかもしれません。確かにその方が自分の現状を自己分析もできますし、自分がどの段階にいるのかがはっきりと分かります。私たちは変化に富んだ時代に生きています。「これが良かった」と言われる物が10年後には全く変ってしまっているlこともあるわけです。環境は変化し、価値観は変り、育った環境や地域の文化も異なり、性別も年齢も能力や個性も違います。もしもこれら全てを満たす教えを現わそうとするならば、時代の変化が起こるたびに「教えの改訂版」も必要になってくるのではないでしょうか? とするならば、皆さんが持ち歩くこともできないほど聖書は膨大な書物になるでしょう。また規則を細かくするほど、規則に縛られていくことになります。かつてイスラエル人たちは律法主義(律法を守ることによって、自分を正しいとする考え方)に陥りそれが彼らを窮屈にしてしまったことを聖書を通して知ることができます。彼らは神様に最も近くにいたはずなのに、律法主義が神様との距離を遠いものにしてしまったのです。ですから神様はあなたの人格を尊重するためにも、あるいは時代の変化に左右されない原則である「律法」を私たちに示されたのです。律法は時代を超えあらゆる人々を教え導いてきました。ここに神の言葉の不変性があるのです。神様は次の段階としてこの世にキリストを送られました。イエス様は3年の短い期間でしたが、信仰者としての模範を示されました。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12章2節)

「 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5章17節)

 イエス様は律法にはできなかった完全な救いを成し遂げ、自分の力で律法を守るのではなく、キリストとともに私たちも十字架に死に、イエス様が蘇られたと同時に私たちにも新しいいのちをいただける道を備えられたのです。またイエス様はどんな時でも天の父の御心を行なうことを心がけていました。それには、神様を愛する思いがなければ、神様の御心を自発的に行なうことはできません。「神様の御心を求めます。」と言いながらその背後には自分の思いをいつも考えます。「いざとなった時に果してどうなるのだろうか?」といつもそのことを問われるのです。聖書はもしあなたが神様の御心を求めるならば私たちに道をしめして下さると語ります。

「イザヤ30章21節 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳にはうしろから、「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。」(イザヤ30章21節)

 神様の御心を選択する時に、自分の思いとぶつかり葛藤した時に『これが道だ。これに歩め』との言葉を聞きながら歩んでいるでしょうか? それには主を愛する心がなければできないでしょう。イエス様の歩みは私たちに模範を残されました。それは神様に対する信仰の姿勢を教えてくれます。そして同時に私たちの信仰の姿勢を問いただすのです。「本当に私は主に従っているのだろうか?」と問い掛けてくるのです。私たちは律法主義から解放され、神様に従う喜びを味わっていくのです。パウロは自らの歩みを振り返ります。

「このためにも、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(29節)

 パウロは多くの迫害や困難に遭い、そのたびに自分の無力さを痛感させられました。その時に自分の内に働くキリストの力を味わい知ったのです。この力により、生きる素晴らしさを知ったのです。ですから自分は労苦しながも奮闘することができると告白しているのです。これは私たちにとっても大きな慰めとチャレンジではないでしょうか? 自分の力ではなく私たちの内に働くキリストの力を日々の歩みの中で味わいたいと思います。自分に死に、キリストにあって生きる歩みが『キリストにある成人』した生き方です。聖霊はこの様な歩みができるように導いてくれます。しかし問題はあなたが神様に心から全てを委ねるかどうかです。神様は「委ねなければならない」と踏みこんできません。それを決断するのは「あなた自身」にかかっているのです。あなたの信仰は『キリストにある成人』に向かっていっているでしょうか? 律法の中にいる歩みは確かに「これをしているから」という安心感はあるかもしれません。しかしいつの間にか「私はこれだけのことをしているのに、神様はこれだけのことをしてくれない。」といった要求へと変っていってしまいます。私たちはすべての律法を守りきることはできません。だからこそパウロは自分の内に働くキリストの力が必要であり、その力こそが本当の意味で自分を生かすと言っているでのす。

「 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係りのしたにはいません。」(ガラテヤ3章25節)

 『信仰があらわれた以上』これはイエス・キリストです。イエス様が現われた以上、私たちは律法の下にいるのではなく、キリストの力による歩みに移されたということです。今月の暗誦聖句、第1コリント10章31節『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』、この歩みを共に目指していこうではありませんか。その力が私たちに与えられていることを味わい知っていきたいと思います。
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