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2003年6月29日 日曜礼拝メッセージ

「ただ神の栄光のために」



 新約聖書 第1コリント10章23節〜33節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今年度目標の「御霊によって歩む」は皆様の生活の中に少しづつ現われているでしょうか? あるいは今月の目標「自己中心から神中心へ」は少しずつ方向転換ができてきているでしょうか? 今日は最後の週になりますので『こういうわけで、あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためだけにしなさい。』ここからご一緒に学ばせて頂きたいと思います。

自分の自由は他の人の利益のために

 クリスチャンになる前には私たちは虚しい思いを持っていることが多いと思います。そういう中を通して「イエス・キリストを救い主として信じます」と告白してから本当に心が満たされた思いになります。しかししばらくすると、以前の、虚しさとは違う「虚しさ」が出て来ている自分に気が付いたことを思い出します。私たちは心が満たされ、喜びが満たされているのですが、クリスチャンの歩むべき方向性がきっちりされていないと、また虚しい生き方になってしまうのです。今日ここでクリスチャンはどのように生きるべきなのか? を学びたいと思います。結論は『神の栄光を現わすために』生きるです。『食べるにも、飲むにも』この御言葉を聞いていますね。今朝「神様の栄光のために」とご飯を食べてきましたか? 考えてみたら「全て自分のために」ではなかったですか? 御言葉は私たちの行く方向性を指し示しているのですが、聞き流してしまうのです。そのために神様が備えて下さった充実した生き方を体験できなくなってしまうのです。私たちは「神様のために生きる」ように初めから造られているのです。その時に人間は一番力を発揮するのです。私たちが「神様のために生きる」とは、歯車がぴたっと入り動き始めることを意味するのです。しかしこの神様の戒めを私たちが忘れているために、ギクシャクした生き方になってしまっているのです。「神様の栄光のため」に私たちが今日、明日を生きていくならば虚しくはならないのです。聖書の中に富みもあり、頭脳明晰、自分のすることは何でもできた人のことが書かれています。

「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子の一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った、私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私は心はどんな労苦をも喜んだ。これは、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者2章3節〜11節)

 これが世で言う「成功者」と呼ばれる人の言葉です。ソロモンの使用した食器はすべて金であったと言われています。知恵もあり政治家としても優れていました。非の打ち所のない成功を歩んだ人物でしたが、彼は『なんと、すべてがむなしいことよ。』と言うのです。私たちは「意味のないもの」に意味を見出そうとし、そこに生き甲斐を見出そうとする生き方をするわけです。ソロモンが最終的に書いているのは

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、全であれ、悪であれ、すべての隠されたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12章13節〜14節)

 「神のために生きる」ことを真剣に心に受けとめていただきたいのです。もしまだイエス・キリストを受け入れていないならば、「イエス・キリストを罪からの救い主」としてお迎えしていただきたいと思います。もうお迎えしている方は「自分は“神の栄光のために生きる”のだ」としっかりと心にとめていただきたいと思います。小さなことに至るまで何かをするごとに「神の栄光のために」と考えるとよいかもしれません。この10章に書かれてる具体的な事柄として

「すべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかしすべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(23〜24節)

 私は「クリスチャンになると『あれをしてはならない。これをしてはならない』と縛られて生きるようになるのではないか」と思いました。しかし騙されないで下さい。クリスチャンになる以前はすべての人が罪を犯す自由を持っていました。でも罪を犯さない自由、罪に打ち勝つ自由は持っていなかったのです。イエス・キリストを信じた時には、相変わらず罪を犯す自由はあるのですけれども、私たちは「罪を犯さない自由」が与えられたのです。私たちは「罪を犯さない自由」を御霊によって歩む時にできるようにされているのです。「私はそれができない」という方は、今それを学んでいるのです。御霊によって歩むことができるようにされているのですが、罪を犯す道に歩んでしまっていることが多いのです。今私たちはイエス・キリストにより罪に打ち勝つ者とされています。だからあなた方はその自由を生かす者になりなさいと語っているのです。そしてその自由を「“他の人の利益のため”に心がけなさい。」、神の栄光に生きるとは具体的にそういうことです。

愛の中に現われる神様の栄光

「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げたりることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。私が良心というのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。」(25節〜30節)

 コリントの町ではほとんどの肉が偶像に捧げられて後市場に出回るのが普通でした。偶像に捧げられた肉を食べることがクリスチャンとして相応しいかどうかという問題です。普通にできるなら調べあげることはしないで食べなさい、感謝して食べなるなら捨てるべき物は何もありません、ということです。しかしもし誰かが「これは偶像にささげた肉です。」と言うならば言った人の良心のために食べてはならない、本当はあなた自身が食べても良いのですが、その人のために食べるのをやめなさいと言っているのです。これはクリスチャンが物事の判断に困った時にどう考えるべきかが示されていると思います。まず第1に「自分の信仰の確信、心の平安に従っていきなさい」です。他の人が良いと思ってもあなたが「まずいな」と思うのならば止めなさい、ということです。自分の心の平安、心の確信をまず第一にするべきです。


 第2は心に確信があって「自分は食べていい」としても、誰かが「これは偶像に上げた肉なんだって」と言うならば、私が食べていることでその人が汚されるというのです。あなたには食べる自由があるけれども、その人のためにあなたは食べることを止めなさい、「自由を制限しなさい」ということなのです。自由ですがあえてその自由を制限するのです。これが栄光のために生きるということです。具体的に言いますと、隣人の事を思い本当に愛するという生き方。これが私たちが目指していくべき「神の栄光を現わす生き方」です。そのようにして私たちは互いに愛し合う歩み方をしていくことが大切です。この愛するという事について。  愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛しあうべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 神を見た者はいないのですが、私たちが愛しあうのであれば、そこに神の栄光が現わされるのです。私たちはどのように生きるべきであるのか? それは「神の栄光のために生きる」ということです。毎日食べるにも飲むにも、顔を洗う時も「神の栄光のために」と思い出すだけでも良いでしょう。そのために言葉に出してみたらよいですね。ご飯を食べる時に「神の栄光のために」、人と話す時に「神の栄光のために」、すると自然に態度も変ってくると思いませんか。何でも「神の栄光のために」と口に出して思い起すだけでずいぶん違うと思います。そうすると虚しくないのです。「これが神の栄光のため」だからです。そしてそれは具体的に隣人を愛することです。そうするならば神の栄光がそこに現われるのです。私たちは神の栄光のために生き、愛し合って生きる時に、神様の御業がなされるのです。「その愛とは何ですか?」と聞かれる人のために第1コリントの13章を見てみましょう。

「愛は、寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(第1コリント13章4節〜8節)

 このような愛が皆様の内にありますか?「ない」と言う方は安心して下さい。「ある」という方はもう少し真剣に見た方がいいかもしれません。それは錯覚である可能性が高いと思います。私たちの内にこんな愛はないのです。見返りを要求する愛はありますが、純粋に与えっぱなしの愛はないのです。「ある」と思っているのは錯覚なのです。ではどうしたら良いのですか?

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛しあうべきです。」(第1ヨハネ4章10節〜11節)

 私たちに必要なことは、神の愛をしっかりと受け取ることです。神の愛を受け取ることなしには、このような愛は出てきません。出て来るのは腐った愛です。見せかけの愛でしかありません。本物の愛は神様からしか来ません。イエス様はあなたのために十字架にかからなければならない責任がありましたか? はっきり言えば無関係の人でした。その無関係の人があなたのために命までも捨てて下さったのです。現実にあなたのためにそういう人がいれば「この人は一体どういう人であるのだろうか?」とピンとくるかもしれません。もしかするとイエス様にはそういう感動をあまり持たず「当たり前」と思っているかもしれません。イエス様はあなたのために死ぬ責任はないのです。でもあなたを救い出すために代価を一方的に払って下さいました。しかし愛を押し付けることはしません。 

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

 「私の愛を受け取りなさい。」と言っているのです。イエス・キリストはあなたのために十字架にまで掛かってその責めを全部受けて下さいました。そして「私を受け入れなさい」と戸を叩き、その愛を受け入れた者に愛をほとばしり出されるのです。

 人間がどんなに裏切っても神様は私たちを本当にそのまま受けとめ愛して下さいます。このことを私たちは心底受け取るべきです。「こんな私をそのまま受けとめて下さっている。そのまま愛して下さり、そのまま赦して下さっている。主よ感謝します」と祈るのです。

 多くの方が「神様、赦して下さい」と祈ります。でもイエス様は既に「赦した」と言っているのを受けとっていない方が結構いるのです。私たちはこの神様の愛を受け取っていきましょう。その時に隣人を愛する愛、また神様の栄光のために生きたいという思いが現われ始めるのです。神のために生き始める時に、虚しさから解放されていきます。私たちは何をするにも、食べるにも、飲むにも、遊ぶにも、仕事をするにも、勉強するにも神様の栄光を現わすためにしていることを忘れないようにしましょう。それは具体的に隣人を愛することによって成されることを覚え、主の前に自己中心から離れて第一に神のために生きる生涯に入らせていただける歩みに入らせていただきましょう。
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