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2003年7月20日 日曜礼拝メッセージ

「新しくされた者の生き方」



 新約聖書 第1コリント5章6節〜8節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 先日テレビを見ていましたら、車のお好きな方が何10年前のアメリカの水陸両用車を購入したとの話題が出ていました。ジープのような舟のような車で砂浜まで普通に運転するのですが、そのまま進みますといつの間にか舟になります。海を運転して砂浜に来るとまた切り替えて車として動き出すします。タイヤが動いていると車として動くのですが、タイヤが浮き上がるとレバーを変えるのです。今まではタイヤを回していた動力が、スクリューを回すようになるのです。まさしく水陸両用車です。

 ある意味において私たちもこの水陸両用の生き方を持っています。そして「チェンジ・レバー」。ある所まではタイヤで動き、切り替えて水の上を走ります。もし陸に上って舟に切り替えても動きません。逆に海の中で車に切り替えても動きません。もしかするとクリスチャンもこういうことをしている危険性がないでしょうか? すなわち本来は陸でしか動かないものを水の上で動かそうとしているのです。そのために神様の恵みの中に歩めるようにされているのに、恵みを味わえないクリスチャン生活を歩んでいることがないか? と思うのです。今年私たちは「御霊による歩み」を1年間のテーマにしています。御霊によって歩む時に水の上を走った車同様に、冒険の生涯が私たちの内に起こるわけですが、そのチェンジレバーをしっかりと変えていながために、この恵みにあずかれない。今日私たちはそういう事のないようにレバーを切り替えて海には海の、陸には陸の歩み方があることを認識し、正しい歩み方をご一緒にさせていただきたいと思うのです。

「高慢」のパン種を取りのぞく

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(第1コリント5章6節〜8節)

 コリント教会は神様の賜物が非常に豊かに与えられている教会でした。奇蹟を行なう力や悪霊を見分ける力、悪霊を追い出す力、預言や異言やさまざまな賜物が溢れていたようです。彼らはどこか「自分たちは優れた者」という意識を持ってしまっていたのではないかと思うのです。高慢が入り始めてしまいました。コリント5章の前半に書かれているのは彼らが性的に乱れた状態になり、ある者は自分の継母と同棲している状況でありました。ところが彼らを見て教会の人たちが誰も注意しなかったのです。パウロはこれを問題にし、「彼らが高ぶっている証拠です」と言ったわけです。私たちは「高慢」にしっかりと目を留めていきたいと思います。「高慢」になりますと神様の恵みを失います。

「8章2節 人がもし何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章2節)

 私たちの信仰生活、または教会を考える時に「高慢」は私たちの歩みを台無しにしてしまっています。これをまず第一に覚えさせていただきたいと思います。「自分は別にそんなにまずくない」という思いが少しでもあれば、既に危険状態が始まっていると思っていただきたいです。自分が「分かった」と思ったならば、知るべきこともまだ知っていないというのが聖書の基準です。皆さんは人から少しでも誉められると口では「そんなことはないですよ」と言いながら、心の中では「うんうん、分かってくれてありがとう」と言っています。反対にちょっとでもけなされると「この人は少しも分かっていない」と思ったり、あるいは自分よりも素晴らしい人がいると自分よりも低い立場の人を探して「私はあの人よりは下だけど、この人よりは上だ」と、変な満足感を持とうとしたりします。本当に何でも高慢の材料になってしまうのです。他人を「あの人のこういう所は困るよな」と見ます。しかし考えてみると自分が同じことをしていることがあります。他人を見るのですが、同じことをしている自分に気が付いていないこともあるかと思うのです。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしているひとびとをさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2章1節〜4節)

 皆さんの中に他人を裁かない人がいますか? 高慢になるから裁くのです。もし自分をわきまえたなら裁くことはできません。でも私たちの生活の中は裁きだらけ、言いかえれば高慢だらけということです。これに私たちは注意する必要があると思います。『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6章2節)』と言われていますが「互いに裁き合いなさい」とは言われていませんし、『さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7章1節)』、また『まず自分の目から梁を取り除けなさい。(マタイ7章5節)』ともイエス様は言われています。自分の中の「裁き」「高慢」を取り扱っていただくことが大切だということです。私たちには四六時中あらゆる事柄において高慢の芽が出て来るのです。どうぞ芽の内に取ってしまって下さい。そうでないとこれはムクムクと成長して気付かずに高慢の支配下になっていることもあるわけです。

「あなたがの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(6節)

 「高慢」は小さくないのです。これを放っておくと全体がダメになってしまうのです。「パン種」はいわゆる、ふくらし粉です。昔はパン生地を作っても全部焼かずに少し残しておき、次に新しい粉と残しておいた生地を混ぜると全体的にまた膨らむのです。これは発酵ですが、同時に腐れとも言えます。「パン種」という言葉はユダヤ人にとってはあまり良い意味ではないようです。パン種は放っておくとあっという間に台無しにしてしまいます。私たち自身を腐らせますし、いろいろな関係や教会をも台無しにしてしまうのです。私たちは高慢を取り除いていく必要があります。言い訳や弁解をやめ「これを取り除いて下さい」ということが必要なのです。私たちは裁いている場合には「『裁くは神なり。』と私は神様の領域に入ってしまった。裁く権利は私にはない」と立ち返り悔い改めていくことが大切なのです。

新しいパンとして生きる

「7節 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(7節)

 皆さんは自分が新しくされていることを受けとっていますか? 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 条件無しです。「私は優柔不断だから」「私は弱いから」「私は小さい人間だから」「罪深いから」は関係ないのです。もし皆さんが自分の罪を認めてイエス・キリストがそのために死んで下さったことを認めて「その救いを私にも与えて下さい」と願ったのであるならば、あなたの内には新しいいのち、新しい創造が起こっていることを受けとめなさいというのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10章9節)

 その人がイエス・キリスト求めるならば「救い」は来るというのが聖書の約束です。私たちは水陸両用の生き方が今や可能になっているのです。私たちはこの地上を自動車としてしか走れないと思ってしまっています。その車に乗っていた人たちも最初は恐々でした。でも自動車が水の上で「浮いている」と喜びの姿をうつしていました。ところが自分は新しくなっている「舟にもなる」ことを知らなければ、その歩みもしないと思うのです。イエス様が水の上を歩いていた時のペテロの言葉を覚えていますか?

「しかし舟は陸からもう何キロも離れていたが、風が向い風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかしイエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。するとペテロが答えて言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見てこわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14章24節〜31節)

 これはすごい信仰です。夜のガリラヤ湖の上をイエス様が歩いていました。それを見てペテロは『「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じなってください。」』、皆さんはこんなこと言えますか? パウロは少し信仰があったのかもしれません。そしてもっとすごいのは、イエス様の「来なさい」という言葉に本当に舟から水の上に1歩足を踏み出したのです。当然水の中に沈むと思うでしょう。ところが彼は沈まなかったのです。ペテロは両足で水の上に立ちました。2歩進んだか、3歩進んだか分かりませんが、これはすごいことであると思います。ところがここでペテロの弱さが出ました。風と波を見て恐くなったのです。「浮いているはずがない」と思ったら沈み始めてしまったのです。これは信仰の歩みという姿をよく表しています。イエス様が「『来なさい。』と言ったのだからイエス様は私を歩かせることができるに違いない」と思って足を踏み出したら歩けたのです。ところがその時に波や風を見て、「いくらイエス様だって」と思った瞬間から沈み始めたのです。私たちも「神にはできる」という信仰をもって踏み出すならばできるのです。でも「いくら神様であってもできない」と思ったならばできないのです。皆さんが「私はどうもこの神様の力を体験できない」という方がいるならば、恐らく心の中で「いくら神様でもできない」と思っているのです。イエス様は「あなたの信仰のごとくなるように」と言われました。「できっこない」と思っているからできないのです。信仰によって歩む訓練、信仰によって歩む備えができていないからです。イエス様にはできるという信仰を持って歩み始めるときに、ペテロのように水の上を歩く経験をきっとなさると思います。私たちは水陸両用の生き方ができる者にされたのです。イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じたときから、あなたの人生は水の上に行けば浮かぶ経験ができるようにされているのです。

 ですがここで大切なことはレバーの切り替えです。アクセルを踏んだり、ハンドルを回したりと、やっていることは同じです。でもレバーを切り替えないとその生活にならないのです。この生活とは『古いパン種を取り除きなさい』です。「古いパン種」は古い生き方と言えると思います。自分の肉や自分で頑張っていこうとする生き方に死になさい、捨てなさいということです。私たちはクリスチャンになってからも古い生き方を引き続き持っているのではないでしょうか? 根本的なことは自己中心が神中心に変えられるのが一番大切なのですが、私たちは自己中心の土台は変えないで、その上に神様の祝福だけもらおうとしているのです。これでは少しも変らないです。私たちは本当に新しい生き方を身につけていく必要があります。「今まではこうしてきた。でも神様は何と言っているのか」、それは1つ1つ聖書に聞かなければ分かりません。私たちは少しも分かっていないということを知る必要があります。そして「聖書は何と言っているのか?」と調べ、学ぶことができるのです。私たちは自分の生活のあらゆる分野を見直す必要があります。自分は「正しい」と思っていてもそれが聖書が言っているのか? もともと持っていたものは、本当に神様の教えかどうか吟味し、古い物を捨てる必要があります。それから『あなたがはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊が、すでにほふられたからです。』と7章の後半にありましたが、このこともきちんと覚えて下さい。私たちは新しくされ、新しい力を与えられているという確信を持つ必要があります。私たちが自分でできないのは当り前です。でも神様はそうさせて下さるために、イエス様は十字架に掛けられたことを忘れないでいて下さい。そしてその中で注意したいのは、 

「ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(8節)

 古いパン種とは、古い考え方、古い生活習慣であります。舟になって行かなければこの世にあって歩むことはできません。イエス様は『あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送りだすようなものです。(マタイ10章16節)』と言いました。私たちは信仰によって歩めるようになっていなければ、本当に厳しいわけです。ですから神様によって守られ、神様によって歩むことをマスターさせていただくことです。その中でとりわけ悪意が私たちを妨げます。人間、同じ出来事でも良く考える事もできますし、悪く取ることもできます。私たちの中で悪い考え方がはびこってしまうのです。そうすると自分自身が汚され暗くなり、自分だけではなく周りの人たちまで暗くしてしまうことがしばしばです。私たちはこの悪意を取り去り、聖めてもらう必要があります。私たちは悪い考えを取り去っていきましょう。悪く考えても何も良いことはありません。聖書は『すべてのことを働かせて益としてくださる。』というのですから、私たちはどんなことでも「益にして下さる」と信じることができたなら嫌なことでも感謝できるのです。よく訓練を受けた人は「神様は本当に私を愛しているんですね。次々と訓練下さるのです。神様は私に期待をして下さっているのだと思います」と言います。なかなかそうは思えませんが、事実はこちらの方が正しいでしょう? 神様は皆さんを愛して期待してくれているから、あえてそのような訓練を下さっているのです。でも暗く思ったなら「嫌だ」としか思えないのです。同じことでも全く違う捉え方になってしまうのです。悪意が私たちを恵みに生かすことを妨げていることを知って下さい。悪い考えが出てきたら取り去って下さい。私たちは良く考えていく、この性質に立っていきたいと思います。これが神様から祝福を受ける秘訣です。

 もう1つ不正のパン種。私たちはごまかしておきたいのです。「私が悪かったのです」と言いたくないのです。これでは神様の祝福がやってこないのです。『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。』。私たちにはイエス様がいます。弁解や言い訳は必要ないのです。「ごめんなさい。イエス様が赦して下さいました。感謝します」、これで良いのです。不正に甘んじないで、正直な真実な生き方に歩む事ができるのです。では具体的にもう少し話しましょう。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4章7節)

 具体的に言いますと「神のみ言葉に従う」ということです。自分でやろうとするから苦しくなるのです。神の御教えを思い起こし、「神様どうぞそのようにさせて下さい。できるようにして下さい。」と求めていくのです。

「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1章23節〜25節)

 「自分の顔はこうだ。」と鏡で見たつもりでも忘れてしまうのです。御言葉を聞いても忘れてしまう人はこういう人であるというのです。それに対して『完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人』、これは「神に思いを向けている人」ということです。例えば「神様助けて下さい。神様にならできますよね」と祈り求めて歩んでいる人は『すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。』ということです。絶えず祈りながら神様に求めていくならば、悪魔が逃げ去り神様の祝福が注がれます。神の御言葉がその人に成されていきます。古い生き方ではなく新しいパン種の生き方が皆さんの内に可能になるというのです。私たちもいろいろな場面に出会うことがあります。私たちは水陸両用の生き方ができるのです。今まで同様にこの世の生き方もできますし、御言葉にある生き方も可能になったのです。ではどうすればいいのですか? 「神様できません。神様助けて下さい。神様導いて下さい。神様力を与えて下さい」と主に求めながらその問題と向き合って戦っていくことです。その時にそれを乗り越える力が神様から与えられていくのです。これはゲツセマネの祈りなのです。イエス様も「これをとりのけてください」と祈りました。苦しかったのです。その時に天使が彼を助け祈りぬくことができたのです。私たちもそのように主を求める時に、主はそれを乗り越えさせていただく力、レバーをチェンジするその時を備えて下さるのです。自分にはできないのですが、神にはできるという歩みに導いて下さいます。どうかそれを妨げる悪意やごまかそうとする心、高慢などの古い生き方を主に差し出して新しい生き方に歩ませて下さい、と祈り続けていきたいと思います。
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