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2003年8月17日 日曜礼拝メッセージ

「与えることの力」



 新約聖書 第2コリント9章6〜15節 より
メッセンジャー
 門谷 信愛希神学生

 8月12日から14日まで青山学院大学で行われていた、日本福音同盟主催の世界青年宣教大会に参加し、大変恵まれた時を過ごすことができました。参加者は2,000人近くにまでなり、青学の講堂を一杯にするほどでした。主を信じ、主を求めてやってきた青年たちの賛美と交わりは、本当に素晴らしいものがありました。私は、このような全国規模の大会が、これからも続けて行われるのではないかと思っています。日本のキリスト教界の次代を担う若者たちが、こういった集会でチャレンジを受け、主のために人生を捧げるようになる。それが日本のリバイバルの発火点になると思います。この集会のテーマが「センド・ミー」、すなわち「私を遣わして下さい」でした。この言葉は、イザヤが神様の召しに応答したときに発した、有名なことばで、「あなたのために私自身をささげます。用いて下さい」という、ほとばしるような熱い応答でした。それは、主のために自分を与える、という献身でありました。私たちクリスチャンは、このイザヤのように、人生のいずれかの時点で、主に対し、「センド・ミー、私を遣わして下さい。私を、私のすべてをあなたに与えます」と応答することが期待されていると思いますし、また、日常生活において、与える愛を実践することが期待されています。

 今日読んでいただいた聖書の箇所は、礼拝の献金の時に、必ずといって良いほど朗読される箇所の1つですが、神様はここで、単に献金の話だけをしているのではなく、「与える」という、もっと広いテーマについて、大切なことを教えて下さっています。今日はこの「与える」ということについて、3つの段階を追って、ご一緒に学んでいきたいと思います。

 第1段階として考えるべきことは、「なぜ与える必要があるのか」ということです。私たちが何かをするには、動機が必要です。明確な動機付けなしに物事を行うなら、その行いは、「土台がない家」や、「根のない草」のように不安定なものになります。私たちは、自らが与えるに当たって、なぜそれをするのかをよく考え、平安をもってそれを行わなくてはなりません。では、私たちはなぜ与えるのでしょうか。それはまず第1に、「そこに必要があるから」です。今日の聖書箇所は、8章1節から続く、パウロのある要請の最終部分です。パウロがこの手紙を書いたのは、紀元56年ごろと言われていますが、この時、エルサレム教会の人々は、経済的にも、宗教的にも、非常な困難の中に置かれていました。キリストを神として信じるクリスチャンは、エルサレムのユダヤ教徒からは「異端」として攻撃を受け、ユダヤ人の社会からは、はじき出されていました。多くの信徒たちの生活は苦しく、財産をある程度持っている者がそれを売って、貧しい者に分け与えていました。このように、エルサレムの教会は、世界で最初の教会であるにもかかわらず、かなりの信徒は、非常に貧しかったのです。パウロは、このようなエルサレム教会の苦しい有様を見て、他の教会に、募金を求めました。この募金に最初に応じたのが、コリントの教会だったのです。今日の箇所には、エルサレム教会の経済危機、このような背景があるのです。

 私たちは、ひとたび兄弟姉妹の必要を知ったならば、それに応えるクリスチャンでありたいと思います。「良きサマリヤ人のたとえ」を思い出して下さい。道端に瀕死のユダヤ人が倒れていたとき、パリサイ人、律法学者、祭司は、彼が倒れていることを知っていながら、見て見ぬ振りをし、道の反対側を通り過ぎていきました。ところが、ユダヤ人とは敵同士であったサマリヤ人が、そのユダヤ人を介抱し、彼の必要の全てを満たしたのです。サマリヤ人は、瀕死のユダヤ人の必要、つまり介抱されること、を知ったとき、見て見ぬ振りをすることがどうしてもできませんでした。イエスさまがこのたとえを語られたのは、他の人の必要を直視し、与えることを教えるためでした。私たちの身の回りにも、疲れ、倒れている人はいないでしょうか。あなたの助けを必要としている人はいないでしょうか。私たちは、必要のあるところを知り、それに応えていくキリスト者でありたいと願います。

 さて、なぜ与えるか、の第2番目の理由を見てみましょう。それは「私たちがキリストにあって一つであることを知るため」です。先ほど述べたとおり、エルサレム教会は激しい宗教的迫害に遭い、パウロ自身もユダヤ人たちと闘っていました。ですから、各地にできつつあった教会が、一致してエルサレムの教会を支援するならば、それはエルサレム教会にとって大きな励ましとなるはずでした。9章2節を見ますと、「コリントの教会の熱意が、他の教会を奮起させた」、とあります。私たちは、与えることによって、自分たちが一体であることを、知ることができるのです。パウロ自身で見れば、第2コリント書を書く前に、コリントの人々を責めるような手紙を書き、それによってコリントの人々が心を痛め、悲しんだということがありました。これによって、パウロとコリント教会との関係は、少し「ぎくしゃく」したようです。ですからここで、パウロがそのコリントの人々に募金を要請していること自体が、一体感を再確認したいという願いの現れなのです。私たちはまた、一体である、ということを、別の角度から見ることができます。 

「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」(第1コリント12章12節)

「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(第1コリント12章25〜27節)

 からだのある部分が痛めば、他の部分がそれをカバーし、いたわるのです。また、ある部分が苦しめば、他の部分が共にその苦しみを担うのです。それによって、私たちは1つのからだであり続けることができます。体の中で、どれ1つとして、自分自身のために存在している器官はありません。心臓は、全ての細胞に血液を送るためにあり、脳は他の器官を制御していますが、他の器官から来る栄養に、すべてを依存しています。 私たちの体自体が、このように、与え合って、「1つ」になっているのです。聖書は、教会もこれと同じように、与え合うことによって一体である、と言っています。

 次に、「なぜ与えるか」、の3番目の理由を見てみましょう。このことは、与えることに最も大きな勇気を与えてくれるでしょう。それは、「主ご自身が与える神である」、ということです。有名な箇所ですが、

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3章16節)

 と言っています。神様の愛は、かけがえのない一人子であるイエス様を「与える」ということに示されているのだ、と言っているのです。 このことから、私たちは、「愛を示す」ということは、「その人が最も必要としているものを与える」ことに他ならないのだ、ということを学びます。神様は、私たちが最も必要としていたもの、すなわち、罪の赦しを、イエスさまを私たちのものとすることによって、与えて下さいました。私たちが今、罪の束縛から解放され、自由になり、永遠の命を持つことができるのは、神様が、イエス様を与えて下さったからです。イエス様こそ、神様からの、最大のプレゼントなのです。そして、そのイエス様は、私たちのために、ご自分のいのちを与えられました。いのちより大切なものはありません。イエス様は、この究極的な与える愛で、私たちを愛して下さいました。私たちは、このことを知ったとき、感動し、涙し、与えずにはいられなくなるのではないでしょうか。

 与えることの必要性について見てきた私たちですが、そろそろ次の段階に進みましょう。第2段階は、「どのような心で与えるか」ということです。なぜ与えるかを知った私たちは、次に、与えることを実践していくことになります。パウロは、与える者の心として、3つの大切な示唆を与えています。 第1のポイントは、「与えた量ではなく、与えた人の心が問われる」、ということです。 

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(6節)

 私は、長い間、この箇所を読むたびに、「できるだけ多く蒔くように」、という暗黙のプレッシャーを、神様から受けたような気分がしていました。イエスの当時のイスラエルでも、多く与えた者は多い祝福を受ける、と考えられていたようです。これは、因果応報の考えがはびこる今の世の中でも、無意識のうちに私たちの内側に入り込んでいる考え方です。ところが、イエス様はこのような私たちに驚くべき真実を語られました。マルコの福音書12章41節〜44節には、神殿の献金箱に、レプタ銅貨2つを投げ入れた貧しい女性のことが書かれています。イエス様はそれを見て「彼女は誰よりも多くを与えたのだ」と言われました。彼女にとって、それは生活費の全てでした。 私はこの所を読んだとき、今度はこう考えました。


 「そうか、イエス様は、割合を重視しておられるんだ。金持ちはたくさん入れたけれども、財産全体から見れば0.1パーセントかもしれない。ところが、貧しい女性は、100パーセント。つまりは、割合の問題なのだ。聖書は什一献金をせよとも言っているし。」

 確かに、什一献金は祝福の鍵です。しかしながら、ここでイエス様が注目されたのは、割合の話ではありません。イエスさまは、貧しいやもめの心に注目されたのです。彼女にとっては、レプタ2枚を与えることは、明日の生活の見通しが立たなくなることを意味していました。財布の中にお金が全くない、家にもない、という状況は、私も含め、恐らくここにいるほとんどの方は未経験のことでしょう。できることなら避けたい、いや、絶対そのような状況には置かれたくない。誰もがそう思います。 ところが、この女性は、自ら進んでそのような状況に身を置きました。彼女の「主に与えたい」という思いが、明日への不安をうち消したのです。 イエス様が称賛されたのは、この女性の、そのような純粋な心に対してでした。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(7節)

 後半には「喜んで与える人が神様から愛される人である」、と書いてあります。私たちが主を思う純粋な動機から兄弟に与えるとき、そこには喜びが伴います。もし喜びがないのならば、7節の前半に書いてあるように、与えることを「惜しい」と感じているか、あるいは「与えなければ」というプレッシャーが、動機となっているのです。 喜んで与えるならば、たとえレプタ2つであっても、イエス様の目に留まるのです。与える心の2番目のポイントは、「自由意志」です。もう一度6節を見てみましょう。この箇所で興味深いことは、パウロが、与えるということを、種を蒔くことである、といっていることです。しかし、与えることと、種を蒔くことに、何の関係があるのでしょうか。この謎を解く鍵は、種の性質にあります。私たちが種を蒔いたとき、1つの種から1つの実しか実らない、ということはまずありません。1つの種を蒔けば、それは成長して大きくなり、たくさんの実を結ぶでしょう。1粒の種もみを蒔くと、苗が育ち、100粒近い米粒を収穫することができるでしょう。つまり、種を蒔くということは、必ず蒔いた種以上の収穫を得ることができるということなのです。与える、ということも同じです。私たちが与えたものは、必ず与えた以上の実を結びます。与えた以下のものにしかならない、ということはありません。

 しかし、同時にもう1つ、知っておかなければならない種の性質があります。それは、蒔いた量に応じて、収穫が決まる、ということです。種もみを一粒しか蒔かないのに、稲が田んぼ一杯になるということはありません。1ヘクタールに苗を植えれば1ヘクタール分の、10ヘクタールに植えれば10ヘクタール分の収穫があります。当たり前のようですが、しかし、私たちはしばしば、1ヘクタール分の苗しか持っていない自分を見て、10ヘクタールの人をうらやんだり、ねたんだりします。しかし、知って下さい。私たちは、1人1人、任されているものが違っている、ということを。 タラントのたとえの中で、イエス様は何と言っているでしょうか。3人のしもべは、みな同じ量の財産を任されたでしょうか。同じではなく、1人は5タラント、1人は2タラント、1人は1タラントと、1人1人異なっていました。私たちはこの例えの結末を知っています。すなわち、5タラントの人も、2タラントの人も、同じお褒めのことばを、主人からいただきました。私たちは、任されたものを、どのように用いるかについて、完全な自由を与えられています。どのように与え、どのように与えないかの判断は、私たちのものです。そして、御心に沿って与えるなら、必ず喜びが伴い、主からお褒めのことばをいただくことができるのです。この原則が崩れた時、私たちは落とし穴に陥ります。使徒の働きの5章に出てくる、アナニヤとサッピラの事件を覚えておられるでしょうか。彼らは、自分の土地を売った代金を、ペテロの所に持ってきて、寄付しようとしました。しかし、彼らは、代金の一部を隠しておき、残りを持ってきて、それが全部であるかのように偽りました。その偽りのために、2人は息絶えてしまいました。私たちは、とかく、人の目を気にして、人から評価されることを求めるあまり、「与えることは常に自由意志による」という原則をつい忘れてしまいます。この出来事は、そんな私たちへの警鐘となっているのではないでしょうか。

 では、与える心の最後のポイントは何でしょうか。それは「初志貫徹」です。コリントの教会の人々は、エルサレム教会への募金に対して、最初は他の人々を奮起させるほどの熱心さをもって応えました。しかし、どうやらその熱心さも、徐々に尻すぼみとなっていったようです。だからこそ、パウロは9章5節にもあるように、もう一度、当初のように、熱意を持って与えて欲しい、と要請しました。私たちも、主から熱心さをいただいて始めた働きを、最後まで成し遂げるものでありたいと思います。

 ここまで私たちは、なぜ与えるか、そしてどのような心で与えるか、という2つの段階を見てきました。最後の段階は、「与えることによって何が起きるか」ということです。聖書は、与えることによって私たちが得ることのできる、数々の祝福について述べています。 

「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」(箴言19章17節)

  主に貸す、とは、すごいことだと思いませんか。神様が私たちに借金をする、というのです。私たちは、主に貸すことができるなど、考えたこともないのではないでしょうか。しかし、他の人に与えることは、実は神様に与えることだと、聖書は言っています。ですから、私たちは喜んで分け与えることができるのです。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6章38節)

 「与えなさい」とイエスさまは言われました。それに従うと、何が起こるでしょうか。人々は、押しつけ、揺すり入れるようにして、私たちに与えてくれます。もうよい、もう十分だと思うまでに、私たちは与えられるのです。与えることの力は、素晴らしいものです。今日の聖書箇所には、与えることによって起こる、祝福がちりばめられています。私たちは与えることによって、「常に全てのことに満ち足り」、「すべての良いわざを行うことができるようになり」、「あらゆる点で豊かになり」、また「神様への感謝が生まれ」ます。どうでしょう。私たちクリスチャンの願い求める、豊かさの全てが、与えることによって、私たちのものとなる、そう思いませんか。

 今日、私たちは、与える、ということについて学んできました。その中で、与えるためには、「なぜ与えるか」、「どのような心で与えるか」、そして「与えることで何が起こるか」の3つの段階をよく知る必要がある、と言いました。与えることは素晴らしいことですが、アナニヤとサッピラの事件のように、落とし穴もあります。主に喜ばれる与え方は、与えたことをすぐに忘れることです。私たちは、与えられたことはすぐに忘れますが、与えたことは、いつまでも覚えています。不思議なものです。私たちがこのような、自己中心的な性質を持っているからこそ、イエス様も、与えることを強調されました。私たち仙台福音自由教会もまた、多くの人の与える愛によって、建てられた教会です。この教会が建てられたとき、私はこの場所にいませんでしたが、いま現在、こうして土地があり、会堂があります。協議会に加盟する、多くの教会の兄弟姉妹が、祈りつつ、捧げて下さったことによって、教会が産み出されたのです。他の人々が私たちに与えて下さらなければ、この教会はありませんでした。つまり、教会の存在自体が、与えること、にかかっていたのです。ですから、私たちもまた、与える教会になっていかなければなりません。コリントやマケドニヤの教会は、エルサレム教会の支援によって生み出された教会でした。彼らは、そのことを忘れていませんでした。だから、エルサレム教会が助けを必要としたとき、すぐにそれに応えようとしたのです。今日でも、私たちの助けを必要としている教会や、兄弟姉妹が、たくさんいます。私たちが与えるならば、あふれるほどに与えられ、私たちの心もまた、喜びで満ちあふれていくのです。あなたは、今日、与える者でありたいと思われますか。イエス様は、あなたのために、いのちを与えて下さいました。その愛に、応えていきませんか。イエス様はあなたの応答を、いつも待っておられます。
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