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2003年8月31日 日曜礼拝メッセージ

「人間の戒めと教えからの解放」



 新約聖書 コロサイ2章16節〜23節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 高橋 勝義師

 日本には昔からさまざまな言い伝えがあります。普段は全く気にせずに生活していますが、問題や困難が起こった時に、それらの言い伝えが気になりだすのです。全くの迷信である場合もあれば、役に立つ場合もあります。私たちは多くの言い伝えに支配されながら生活していることが分かると思います。あなたはこれらをどのように受け止めながら歩んでいるでしょうか? 

行ないによって救われるのではない

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」(16節)

 食べ物には清い物と清くない物があると考え区別していました。清くない物を飲食することにより、自分自身が汚れると考えていました。しかしイエス様ははっきりと言われました。

「イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。」外側から人にはいって、人を汚すことのできる物はありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」イエスが群集を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスはこのように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7章14節〜23節)

 食べ物や飲み物により人が汚されるということはありません。またこのような区別が禁欲主義を生み出し、いつの間にか信仰深さを決める基準とされていったようです。祭りや新月や安息日についても細やかな決め事を定めるうちに戒律主義へと発展し、宗教行事として重んじられるようになりました。宗教行事と信仰とは全く別物です。しかし規律を守ることが信仰深いと同一されるようになっていったのです。そこでパウロは禁欲主義や戒律主義に陥らないように食物、飲物、祭りや新月や安息日に関して悪い評判や噂が流れないようにしなさいと戒めたわけです。どうすれば禁欲主義や戒律主義に陥ることなく、それら解放されるのでしょうか?

「これらは、次ぎに来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(17節)

 旧約聖書には食物、新月、祭り、安息日に関しての規定が細かく書かれております。この規定は神様がイスラエル人に与えたものです。それゆえ彼らは約束を固く守ったのです。しかし彼らは神様の命令をより分かりやすくするため、彼ら独自の教えをそこに付け加えたのです。神様の命令を守るためにはまず先祖の教えを守らなければならなくなったのです。 

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました。私たちが思考によって義と認められうためなのです。しかし、信仰が現われて以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3章23節〜26節)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためでなく、成就するために来たのです。」(マタイ5章17節)

 律法は影であり、その律法が私たちをキリストに導き、キリストによる救いの恵みを受けるのです。禁欲主義や律法自体には救いはありません。禁欲主義や律法に頼る必要はないのです。頼る必要がなければ惑わされることありません。救いはイエス・キリストによりもたらされることをしっかりと受け取っていきたいと思います。

キリスト以外に救いはない

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結ぶ合わされて、神によって成長させられるのです。」(18〜19節)

 『自己卑下』とは自分を低くし、卑しくし、へりくだること、謙遜になることです。本当に謙遜になりへりくだるならばとても良いことであると思いますが、『ことさらに自己卑下をしようとしたり』とあるように、自己卑下を装いながら自分の謙遜さを人々に見せていたのです。そして口には出しませんが、「こんなにも自分はへりくだっているのだ」と自慢し美徳として誇っていたのです。彼らは傲慢であったのです。

 それとは反対に自己卑下は気をつけなければ、自分自身の存在も否定してしまいます。「どうせこんな自分は」という思いになり自分を受け入れることができなくなってしまうのです。確かに嫌な自分をたくさん発見します。嫌いだからそんな自分を捨てたい訳でしょう。そのようにして自分の存在自体を否定してしまうところにまで陥ってしまうのです。しかし神様は『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節』で言って下さってることを覚えて下さい。神様は私たちの全てを知っているのです。「だめな私」も「嫌な私」をありのまま受け入れ『わたしはあなたを愛している』と言って下さっているのです。自己卑下に陥った時にこの御言葉を思い出したいです。『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節』そうすれば必要以上に自己卑下に陥ることはないでしょう。

 次に『御使い礼拝』についてです。人間は直接神様に近づくことができませんので、神様と人間の間を取り持ってくれる仲介的な霊の助け「御使い」が必要であると考えたようです。彼らは唯一の仲介者であるイエス・キリストを全く無視し、かつ神様の備えて下さった救いを無効にしていたのです。このことに彼らは気付かずにいたのです。彼らは神様に対する不信仰と不従順が問題であったのです。さらに神様から「特別の幻を見た」と誇る人々もいたようです。もしもあなたが特別の幻を見たのならば、神様はあなたに特別の御心を示そうとしているわけですから、その時にこそ、神様の御心を熱心に求めつつ御旨に従って歩むべきです。そうでないと特別な経験が高慢への落とし穴となっていくからです。特別な経験をしたのであれば、なおのこと謙遜になり、神様の御業が妨げなれないように最善の注意を払う必要があるのです。パウロは彼らの現状を見ながら、信仰の原点であるイエス・キリストに戻そうとしました。パウロは『かしら』と表現しています。自己卑下や御使い礼拝、肉の誇りがキリストから彼らを離してしまうことが分からなかったのです。ですからパウロは彼らに自覚させながら、信仰の成長は『かしら』であるキリストにしっかりと結び合わさっていなければありえないと教えさそうとしたのです。

「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから解放されたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(20節〜23節)

 パウロは「あなた方はキリストによって新しく造られ変えられた者であるのに、なぜ古い生き方を今も続けているのか」と問いかけるのです。「キリストがあなたのために何を成してくれたのかを思い出してみなさい。そうすればキリストにある新しい生き方ができるでしょう」と訴えたのです。それではキリストの成された御業とは一体何でしょうか?

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2章12節〜14節)

「あなた自身も十字架の上で死んだはずです。そして今生かされているのはキリストを蘇えらせた神の力によるのでしょう。それなのにどうしてこのことを忘れて、『「すがるな。味わうな。さわるな。」』という人間の戒めと教えに従って歩むのか」というのです。この素晴らしい恵みをあなた方はいただいているのにそれを忘れ、『キリストと共に死んで、この世の幼稚な教えから離れた』はずなのにその教えの中にどっぷりと浸かっていたのです。人間の戒めと教え、人間の好き勝手な礼拝、偽りの謙遜、肉体の苦行は、あなたの肉の欲望に対して何の効き目もないのです。「あなた方はこのことを身をもって知っているのだから、あなた方のために捧げたキリストの命を無駄にしないで欲しい」と訴えるパウロの悲痛な叫びが聞えてきそうな気がします。

 もしかして神様はあなたが今も古い生き方を続けていることに対して嘆き悲しんでいるかもしれません。私たちは少なくともパウロの時代よりもはるかに科学の進んだ時代に住んでいます。またその科学の恩恵をたくさん受けています。しかし私たちは昔からの古い言い伝えに左右されながら生きている現実を見るのです。雑誌には必ず占いが載っています。テレビでも毎朝占いが流れています。その占いを見てから会社に出掛ける人もいるのです。また昔の古い家は「風水」という方位に基づき建てられています。ですから不便な所にトイレや台所があるのです。カレンダーには先勝、友引、大安、仏滅などが記載されています。これらを見ながら実際の行事を決めている訳です。この科学の時代に「迷信」と言っても実際に信じているからこそ気にするのです。ではどうすれば人間の戒めや教えから解放されるのでしょか? それは聖書の語る神だけが唯一の神であり、それ以外の物は存在していないことをしっかりと受け取ることなのです。

「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」(第1コリント8章4〜6節)

 日本には八百万の神がいたるところにおり、どこを向いてもさまざまな「神」に出くわすことになります。しかもその神々を恐れながら歩んでいます。サタンは恐れる心を利用し、それらの偶像には力があるかのように私たちに思いこませているのです。しかしここにはっきりと『唯一の神以外には神は存在しない』と書かれています。あなたはそれらの物が本当に生きていると信じてはいないはずです。とするならば何も恐れることはないのです。それでも私たちは恐れを抱くのです。もし恐れから抜け出せなくなってしまった時は

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」(第2テモテ1章7節)

 恐れるのはサタンが私たちを誘惑しているのであって、それは臆病の霊でしかないのです。ここには神から来るのは『力と愛と慎みの霊』であると書かれています。私たちには天地を造られた唯一の神様がいます。しかもその神様はいつもあなたの側にいるのです。神様はあなたを尊重しあなたを愛しているのです。これ以上強い味方があるでしょうか? それともあなたはまだ神様の力を知らないで歩み、いまだに自分の力に頼り生きているのではないでしょうか?

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自身の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次ぎに来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1章19節〜21節)

 「神の力」は神様を信じる者、すなわちあなたの生活のただ中に働くと記されているのです。あなたは神様の力を味わう歩みを本当にしているでしょうか? もし味わっているならば、人間の戒めや教えに左右されることはないはずです。また気にせずに歩むのではないでしょうか? それでも不安に感じるならば、神の力が私たちの内に最も現わされている素晴らしい例があります。それは私たちに救いの道を備えられたということです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4章12節)

 この名により私たちは救われたのです。それこそが神様の力を私たちが味わい知ったよい例ですし、その神様の力を頂いて救われたのです。禁欲主義や戒律主義をおくったとしてもそこには救いはないのです。キリスト以外には救いはありません。これこそが神の力です。救いは神の力と憐れみと愛によって、あなたの力や功績に全く関係なくただ一方的に与えられた恵みなのです。

 コロサイに戻りますが、パウロは面白い表現をしています。『あなたがたはことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。』、一見すると信仰に立っているような人々に対して褒美を取られてはならないと言うのです。ということはパウロも神様からご褒美をいただけると信じているということです。もちろんどんなご褒美かは分かりません。しかしご褒美をいただけるのは確かなのです。神様からのご褒美を人間の教えや戒めによって奪われてしまわないように、ともに気をつけたいと思います。さて、あなたは神の力と人間の戒めや教えのどちらを信じて歩みますか? 共に主の前に静まり私たちの歩みを点検させていただく祈りをしましょう。
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