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2003年9月21日 日曜礼拝メッセージ

「私たちの交わり」



 新約聖書 第1ヨハネ1章1節−10節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今日はヨハネの手紙から「私たちの交わり」と題して、クリスチャンが力強く歩んでいく秘訣を学ばせていただきたいと思います。皆さんの心には今喜びが満ちているでしょうか? 「喜び」があると多少の苦しみや困難があってもそれを乗り越えていけるのではないでしょうか。反対に喜びがないと小さなことでもしょんぼりして乗り越えることができなくなってしまいます。イエス様でさえ『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。ヘブル12章2節』とあるのですから、私たちもそのように喜びに生きるクリスチャンになっていきたいと思うのです。

光りの中を歩んでいるか

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びがまったきものなるためです。」(1〜4節)

 皆さんどうぞ期待して下さい。この福音、この聖書の言葉を本当にその通りに受けとっていくならば私たちは全き喜びの中に歩むことが可能になるのです。それには最初に何が必要かと言いますと、『御父および御子イエス・キリストとの交わり』を持つことです。もし私たちがこの交わりを持つことができるなら喜びの中に生きることができるということ。ここには御霊によってその交わりができるようになっていくのが前提と考えて下さったらと思います。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神との交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」(5〜6節)

 神様は罪を持っていない、神様には暗い所が少しもない。これが聖書の神様です。  クリスチャンはイエス・キリストと交わりを持っている人々であると思います。もし皆さんが「私はイエス・キリストを信じている」と言いながら現実の生活が闇の生活であるとすれば、あなたは神様との交わりを持てていなのではないですか? という訴えかけなのです。私たちが神様との交わりを持てているならば喜びが来ますし、私たちの生活に闇はありません。もし闇があるならば、それはあなたが今神様との交わりが正しく持てていないということですと語っているのです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7節)

 『もし神が光の中をおられるように』私たちも光の中を歩んでいるなら、闇のない世界を歩んでいるならということですが、このことは別の言い方をしますとヨハネ福音書にはこう書かれています。

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)

 『やみの中を歩むことがなく』とは光の中を歩んでいるということです。具体的に言いますと「主の御言葉に従っているか」です。「主の御言葉」はこんなにたくさんありますから「どの御言葉を指しているのか?」と言うかもしれません。イエス様はある時たった2つの御言葉に聖書の全体を集約したことがありました。

「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのは、これです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次ぎはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12章28節〜31節)

 本当に神様を愛し、人を愛していますか? それがごく自然のこととしてあなたの内にできていますか? もしできているなら今あなたは光の中を歩んでいます。できていないとするならば、神様とあなたとの間に闇が入ってしまっているのということなのです。私たちが光の中を歩んでいる時には、別に無理することなく戒めを守ることができるのです。マタイ25章にはイエス様が来て裁判をされる時のことが書かれています。

「 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であったとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しいひとたちは、答えていいます。『主よ。いつ、私たちはあなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25章35節〜40節)

 その人たちにとっては覚えがないのです。それはごく当然のことをしたに過ぎないからです。誉められることをしたつもりは全然ないのです。もし私が神様の光の中を歩んでいる時に困った人を助けてあげるのは当然のことであり、そのようなことは忘れてしまうようなことだったのです。その様な歩み方をしている時に、私たちは隣人と非常に良い交わりができていくし、瞬間瞬間イエス様の血により私たちの罪が聖められていくというのです。いつでも主によって赦されている生き方ができるのだということなのです。ここに書いています『きよめます』という言葉は「毎日毎日」とか「常に」という継続される言葉が使われているのです。私たちが光の中を歩んでいるならば、いつでもイエス様の十字架により完全な赦し、完全な聖めの中に歩むことができますと言っているのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 私たちは御子イエスの血で新しく聖くされ神の前に歩むことができるようにされているのです。しかし私たちの内には御言葉が素直に入って来ずに打ち消されてしまうことが多いように思います。本来標準的なクリスチャン生活を歩んでいるならば、罪から聖められ、解放された生き方ができるのです。「だってできない」と思うかもしれません。それは私たちの中には違う考え方が結構刷り込まれてしまっているからです。聖書の教えよりも皆さんの考えの方が深く入ってしまっているのです。御言葉は『だれでもキリストの内にあるなら』、「だれでも」と言っていますのに私たちの頭は自然に「でもそれは特別な人ね」という思いが入ってしまい「自分はダメなのではないか、自分はそう簡単に変わりはしないのではないか」という思いが支配していると思います。そうではなく主の御言葉により日々聖められ解放されていく生き方ができると受けとっていきたいのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何は良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

 私は長い間『一新』という言葉を「一心」だと思っていました。一生懸命「神様変えて下さい。変えるぞ」という気持があったのです。でもそうではなくイエス様の十字架により「変えてもらいなさい」ということです。自分で頑張ってするのではなく、壁紙を張り替えるように、イエス様の十字架により心を一新してもらいなさいということです。御子イエスの血はいつも私たちの悪い心を変えていって下さるのです。これが約束です。でも現実の生活はそうなっていない部分が多いでしょう。ではどうしたらそこから抜け出していけるのでしょうか?

光の歩みを妨げるもの――罪

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(8〜9節)

 『罪はないというなら』と言うと「そんな風に言う人はいるのかな?」と思う人は既にその状態です。「自分に罪はないという人はいないのではないか。自分はそんな風には言わないよ」と言っていながらその罪を犯しているのです。「自分には罪はない」という考え方が根深く私たちの中にあるのです。これが私たちを祝福から遠ざけているのです。「自分はそんな問題児ではない。」「あの人のようではない。この人のようではない」、そうではなく私たち自身の中の罪や間違った考え方が深く根付いていることを認めることが大切です。それには私たちが光の中を歩んでいるかどうか、神の命令を守っているかどうかが1つの目安になるでしょう。自分が光の中を歩めていないのは苦しみでしょう。その兆候が出ているということです。このことをしっかりと受け取っていくことが大切です。さらに

「もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(10節)

 私たちは「『罪を犯していない』などとは言わない」と言うかもしれません。でもときどき「どうして私がこんな目にあわなければならないの!!」「いつ私がそんな悪いことをしたの!」と言っていませんか? これは自分の中に「罪がないとは言わないけれど、そんなに酷くない」と言っていると同じなのです。

「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽りものであり、真理はその人のうちにありません。」(第1ヨハネ2章4節)

「神を愛すると言いながら、兄弟を憎んでいるなら。その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(第1ヨハネ4章20節〜21節)

 もし私たちの心に中に神を愛する心、また隣人を愛する心がないとするならば、私たちは偽りものであるということを知るべきです。もし私たちが赦せない人がいる、誰か憎んでいる人がいるならば、私たちは闇の中を歩んでいる証拠です。ですから「私は闇の中を歩んでいます」と告白することが必要ですと言っているのです。

 私たちはなかなか自分の失敗や間違いを認めたくないですね。相手が「自分が間違ってました」と言えばこちらも「私も間違っていた」と言えるのですが、こちらから「私が悪かったです」と言いたくないのです。でも私たちにはそれが必要です。神の前に罪を犯しているのならば神様に、人に罪を犯しているのならばその人に「ごめんなさい」と言いなさいということです。『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら』とは分かりやすく言えば、神様は十字架を決して忘れないということです。その罪を赦し解放してくださるのです。その時に私たちは本当に神様との交わりを持つことができるのです。きれいな神様と交わっていれば私たちは当然、聖くなっていくのです。だからもしそれが起きていならば、まだ交わりを持てていない、まだ聖めてもらわなければならない部分があるのではないでしょうか? 私たちは正直に罪を認め「本当に自分はそんな者です」と言う必要があります。私たちは頑固ですから、自分の罪を認めたくないのです。私たちが神様の前に正直な罪の告白をしていく時に、私たちの内からどんどんと解放が与えられそこには神の喜びが満ちるのです。この神の喜びはいつしか隣人との交わりが豊かにされるものに変っていくのです。教会とは互いに愛し合うこれが理想です。「教会の人々は、なんと愛し合っているのだろう。なんと輝いているのだろう。なんと喜びに満たされているのだろう。」という教会になっていきたいと思います。

 私たちは言い逃れや弁解する必要はありません。でもアダムとエバ以来私たちの内には言い訳と弁解の性質が身についてしまっているのです。「ごめんなさい。これが私の罪です」と言う代わりに何か違う手立てを考えるのです。しかし違う手立てをしている内は私たちに喜びはやってこないのです。そして本当の交わりも回復しないのです。自分の罪を言い現わすなら、真実で正しい方がそこから解放して下さり、御子イエス・キリストの血は全ての罪からきよめ、私たちは互いに交わりを持つことができるということです。この「交わり」とは共有する、分かち合うという言葉です。クリスチャンの交わりは「キリストのいのち」を共有しているのです。誰よりも深い交わりがそこにあるのです。クリスチャンの交わりはこの世のどんな物にも比べられない麗しい素晴らしい交わりを築けるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 『だれでも』です。特別な人ではなく「あなた」です。自分にはダメだという考え方をどうぞ追い出して下さい。自分は新しくなれることを受けとってください。そしてキリストにある豊かな命を共に分かち合っていく教会、クリスチャンになっていきたいと思います。
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