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2003年9月28日 日曜礼拝メッセージ

「神の家族としての交わり」



 新約聖書 エペソ2章11節〜22節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 洗礼式のたびに神様がおられることを思います。そして何と感謝すべきことでしょうか。私たちは洗礼により神の家族となっていることをご存知でしょうか? 全世界大のキリストの家族の一員とされているのです。そして神様が願っているのはこの家族1人1人が本当に仲良く歩み、その歩みがもっともっと押し広げられていくことです。

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろうか。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはシオンの山々におりつヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133編1節〜3節)

 私たちが平和を保ち1つになることをどんなに神様が祝福して下さるかを教えられるのです。しかし残念ながらさまざまな罪が1つになるべきものを無茶苦茶にしたり分裂させたりしてしまうのです。今日は1つの家族して歩み続けるにはどうしたら良いのかを学ばせていただきたいと思います。

キリストの中に入る

 キリストの教会は世界中で一番「神様の力」が宿っている所なのですが、現実にはそうでない場合が多いのです。1+1+1は3ではなく、5にも10にもなっていく可能性がありますし、反対に1になってしまったり、時にはマイナスになってしまうこともあるかもしれなません。私たちは本当に主にある一致を求めていきたいと思うのです。そればかりでなく人間が持つ多くの根本的問題は「人間関係」であると聞いたことがありませんか? 皆さんも「どうもあの人は性に合わない」とか「あの人はどうも嫌だな」と受け入れられない、もしそういう方がおられるなら、この御言葉はそこから私たちに解放と勝利を与えて下さることができると思います。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにして、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬りさられました。」(14〜16節)

 直接はユダヤ人と異邦人(神を認めない人々)との間のことで、水と油のように全く合い入れないものでした。ところが十字架により平和がもたらされました。敵意は既に廃棄され壊されたのだから解放された生き方ができるのですと教えて下さるのです。もし私たちの中から「あの人は嫌だ。」「あの人を受け入れられない」「あの人は性に合わない」そういうものが消え去っていったらどんなに楽でしょうか。ぜひそのように歩んで下さいというのがこの箇所なのです。

「こういうわけで、あなたがたはもはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(19節)

「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(22節)

 初代教会が力を持っていたのは、彼らが愛し合い受け入れあっているのを見て多くの人がその群れに加わりたいと集まってきたからです。私たちもその交わりを築かせていただきたいです。その秘訣はどこにあるのでしょうか?

「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(13節)

 第1の秘訣は「キリストの中にある」です。「イエス・キリストを信じる」とは英語で「believe in」と言います。元々のギリシヤ語から言いますと「エイス」(believe into)「中に入っていく」という言葉が使われています。信じるとはキリストの中に入りどっぷりと囲まれることです。キリストの内にいなければ私たちは仲良くしようとしてもできないのです。

「だれでもキリストのうちになるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 『だれでも』と言っても自分のことを除外するのですね。『だれでも』ですから間違いなく皆さんも入っています。ただし条件は「キリストの内にあるなら」「キリストを信じているなら」です。イエス・キリストを自分の救い主として信じているならば、その人は新しく造られた者なのです。それなのに『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。』と言われても「でも私は違う」と拒んでいる方がこの中にも何人もいるのではないでしょうか? キリストの内にあるという大切な真理をぜひ受けとって下さい。もしまだキリストの内にないならばぜひキリストの内に入って下さい。イエス・キリストはあなたの罪の代わりに十字架に掛かりあなたを赦して下さったのです。それを信じるだけで新しくされるのです。『古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。』です。

 エペソに戻りますが『今ではキリスト・イエスの中にあることにより』これが1つです。もう1つは『キリストの血によって近い者とされたのです。』と書かれています。

古い人を脱ぎ捨てる

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷ではなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6章6節〜7節)

 私たちはイエス・キリストを信じてはいても「古い人」というものがあるのです。そしてそれを処理しないとならないのです。本当は「古い人」は既に十字架に掛けられ処理されているのです。しかしこのことも私たちはなかなか認めず「自分には変えられない」と思っているのです。ですからクリスチャンであっても古い生き方しかできないと思ってしまっているのです。

「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって。キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6章4節〜5節)

 イエス・キリストを信じた者はその罪が十字架に掛けられているだけではなく、新しいいのちが与えられ、新しい生き方ができるようにされているのです。できないのではなくそれが与えられているのですからそこに歩まなければならないのです。筋肉は使わないと成長していきません。可能性はあっても訓練していかないと成長しないのです。私たちは古い生き方に死に新しい生き方に歩めるのだからそうしなさいと語るのです。

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3章9節〜10節)

 私たちは古い人を日々脱ぎ捨てる必要があるのです。今までは妬みの生活や嫉妬や自分で頑張って他人を蹴落とし打ち勝っていく生き方でした。そうではなくキリストにある生き方に日々成長させられていくことが必要なのです。具体的に言いますと

「それゆえ神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらのすべての上に、合いを着けなさい。愛は結びの帯びとして完全なものです。」(コロサイ3章12節〜14節)

 クリスチャンはこのようにできるのだからそうしなさいと言うのですが、私たちは「できっこない。」「他の人にはできてもお前には無理だ」といろいろなマイナスの考えが入ってしまっているのです。あるいは「普通の人は皆やっていることだ。人を裁いたって良いではないか。恨んだっていいではないか」。ですがそういう思いを私たちは脱ぎ捨てる必要があるのです。もうその思いはキリストとともに死んだと受けとめて「私は人を裁く思いに死にます。その権利を捨て去ります。」と告白します。しかしまだ「だってこんな酷いことをするんだもの。裁いたって当然ではないか。憎んだ方がいい」。そんな聖書とは違った裏腹の思いが心の中に出て来たりするのです。それがどうしてもできない方は『しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』、十字架こそが敵意を廃棄したと言いました。もし私たちがイエス様を見上げるならばそのような生き方ができるようになっていくのです。イエス様は文句を言う権利があました。イエス様は十字架に掛かる義務も責任もありませんでした。でも「わたしはなぜこのような目に合わなければならないのだ。どんな悪いことをしたのだ。」と言えたはずですが、鞭打たれた時にも彼はあえてその権利を棄てて下さったのです。それは私たちの罪の代わりをご自身の身に受けるためでしょう。黙々と鞭打ちもいばらの冠も釘打ちも苦しみを耐え受けて下さいました。私たちにも色々な言い分があると思うのですが、「イエス様はその道を歩んで下さりこの私の罪を赦して下さった」、このことを私たちが受け取るならば「古い人の生き方を十字架に付けよう。古い生き方に生きるのをやめよう。それを十字架につけよう」と思うのではないでしょうか? そしてその時に私たちの内に新しい生き方が可能になっていくのだと思うのです。私たちが受けなければならないその罪をご自分の身に負い「あなた方はその道に行ってはならない。あなた方は新しくされているのだから、もう妬んだり、憎んだり、嫉妬したりするのではなく、競争心に生きるのではなく、愛されているのだから深い同情心を持ち、その人の為に生きるなさい」と言って下さるのです。

 自分の当然の「権利」と思っているものにも古い生き方や考え方があるのではないでしょうか?私は自分の中にそれらがあり深く根付いていることを最近教えられました。そして「当然」と思ってしまうのです。しかしそれは古い生き方です。でもキリストは赦し受け入れ愛して下さったのです。こういう生き方にともに歩ませていただきたと思います。その時に本当に愛し合い赦しあっていることが分かるのではないのではないでしょうか。私たちには越えられない壁はないのです。イエス・キリストを見上げるならばその壁はどんどん低くなっていきます。そしてイエス様がこの私の罪のために鞭打たれ、いばらの冠を何の文句も言わずに受けて下さったことを思う時に、「私もこの人を愛し赦そう」という思いにされてくるのではないでしょうか? 私たちにも可能性はあるのです。私たちがイエス・キリストを信じたということは、そんなちっぽけなことではないのです。私たちにその力が与えられています。問題は筋力を増やすかどうかです。もし「この人は嫌だ。この人は苦手だ」という人が出て来たならば「主よ。どうぞこの心を十字架に付けて下さい。そして私に新しいいのちを下さい。愛させて下さい。受け入れさせて下さい」と祈りチャレンジして下さい。筋力が段々と出てきます。そして本当に同情心と慈愛と寛容と謙遜と柔和に満ちた麗しいお互いの交わりに入っていきたいと思います。秘訣は第1に『キリストのうちにある』ことです。もしまだ入っていない方は「今日イエス様を信じます」と祈って下さったら感謝です。『御子イエスの血はすべての罪からあなたをきよめます。』『「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」』というのが聖書の宣言です。自分がそのように赦され新しいいのちが主にあって与えられているのです。人を赦す力、愛する力、仕える力。このような愛に共に生き、ともに主の栄光を現わすお互いとされていきましょう。
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