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2003年10月12日 日曜礼拝メッセージ

「神との和解」



 新約聖書 ローマ5章1節〜11節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 牧師になるための学校が神学校です。その神学校での最終学年で私は1つの壁に出会いました。それは「聖書が言っている事柄が本当の意味で私の内に実現しているであろうか」という疑問でした。御言葉は『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。第2コリン5章17節』と語っています。別の箇所では『というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。第2ペテロ1章3〜4節』

 特別な人ではありません。キリストを信じる全ての者は神様のご性質を宿すことが出来る者とされているというのです。しかし現実を見ますとちょっとしたことでイライラしたり不安になったり恐れたりする。私はそういう中でもう1度神様を真剣に求め始めました。ゼロに戻って信仰を洗いなおさせて頂いた経験をしました。今年の教会キャンプは「チェンジング・キャンプ」としました。これは神の言葉が実現していない事柄を私達自身の中に体験させて頂くためのキャンプです。私達は聖書の言葉を与えられていてもその力を十分に味わっていないことが多い。ですので、もう1度その御言葉に深く触れて変えられていきたいと願っています。キャンプ第1回目のメッセージということでお話をさせて頂きたいと思います。

たった1つの罪でも

「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4章21〜25節)

 これはアブラハムというユダヤ人の1番初めの人です。アブラハムの子孫がユダヤ人です。彼は「もう出来えない。ありえない。」という所においても神を信じた。そしてそれが彼の義(正しい)と認められたというのです。私達は神の前に正しいと認められるためには、良い行いをしなければならないと思ってしまうのですが、良い行いではなく“神を信じる”ことで、彼は義と認められ神様から多くの奇蹟や祝福を味わったのです。そしてそれは同様に今神を信じる私達も主イエス・キリストを信じることにより、神の恵みにあずかることが出来ると教えているのです。もし私達が正しい行いをして義人となろうとするならば大変です。99正しいことをしていたとしても、たった1つ失敗したならば、これでおしまいです。これで義人ではなく罪ある者になってしまうのです。正しい行いによって義人と認められるとするならば、緊張の連続でしょうね。大変な緊張やストレスの中に歩まざるをえないと思います。

 先日有名な弁護士の中坊氏が廃業宣言をしておりびっくりしました。自分の部下がある事件に関わったので、自分も潔く弁護士から離れるという決断をしたようです。たった1度の間違いでも正しく生きようとするならば大きく責められるということになるのです。でも神様はそうではなくてイエス・キリストという方により私達を完全に赦す道を備えて下さった。それが『また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』

 イエス・キリストという方は私達が正しい行いが出来ないのをご存知だったのです。イエス・キリストはその私達の罪全部を「わたしが背負う」と言って下さったのです。あなたが過去において犯してきた罪、そして今も犯し続けている罪、将来にあって犯してしまうかもしれない罪。もしかしたら正しいことはたった1つしか出来ないかもしれなません。ほとんどが間違っていたとしてもその全部を背負うと受けて下さったのが教会に必ずある十字架です。十字架により私達の全ての責め、全ての罪の裁きを受けて下さったのです。そしてそれだけではなく、その死からよみがえったと聖書は語りますし、多くの人々が本当にそのキリストに出会ったというのです。

 復活は、イエス・キリストの十字架の身代わりが本当であったという証拠です。死んでよみがえったということは、このお方に罪がなかったというのが1つと、それらの罪は処理されたということです。処理したからよみがえってきたのです。ですからイエス・キリストを見て「私の罪は本当に赦されていると考えていいのだ。私は義とされている。正しい者とされている。これを受け取っていいのだな。」とこのことが復活の中に現されているのです。皆さん本当に“義”を受け取っておられますか。あなたは本当に神様の前に正しい者とされたことを受け取っていますか。何か「そんなこと言ってもちゃんとやっていないではないか。」とか「いい加減なズルばかりして」と責められて神様が「良いよ」と言っておられても「私はまだまだ駄目です。」と言ってしまい、神の言葉を受け取らないことが多いのではないかと思うのです。

 よく「先生が祈って下さい。」と言われる人がいます。牧師の祈りは聞かれても自分の祈りは駄目だと思ってしまう。イエス・キリストを信じた人の罪は赦され消し去られて義人となっているのですから、その人が祈れば神に聞いて頂けるのです。ところが私達はこのことをきちんと受け取らないことが多いのです。私達が神様の恵みを十分に味わうことが出来ない理由の1つは、神の言葉を文字通りに受け取っていないからです。割引して聞いてしまうのです。聖書の言葉は文字通りに受け取る。その時に私達の内にそれが力となっていくのです。

キリストを信じた者は義人となる

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(1節)

 皆さんがイエス・キリストを自分の救い主、人生の主として信じたのならば、あなたは既に義と認められ、神との平和を持っているのです。ところが私達はこの御言葉を文字通りに受け取っていないために「本当かな。違うのではないか。」という思いになってしまい神様の恵みを受け取れないことが多いのです。皆さんの内には神との平和と言われているものがありますか。神様は皆さんをすっぽりと包んで下さる。このことに自信のない方は先に延ばす必要はないと思います。イエス・キリストを自分の救い主として信じて下さい。そしてその赦しを受け取り神の祝福と恵みを受ける者となって頂きたいと思います。私達はその様な者として歩むことが出来る。さらに

「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導きいれられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(2節)

 将来皆さんは素晴らしい世界に行こうとしているのです。パウロという人物はものすごく苦労した人です。何度も鞭を打たれ、難船したこともありました。苦しんだことも数限りなくありました。でも彼は『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』と言うのです。パウロが取るに足りないというのであれば、私達の持っているものはさらに取るに足りないのではないでしょうか。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練れた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(3〜5節)

 もし皆さんが神の言葉をその通り受け取っているなら苦しみさえも喜ぶようになれるのです。ピリピ書は別名「喜びの書」と呼ばれています。でもこれはパウロが牢獄の中で書いたものです。牢獄の中で『喜びなさい。喜びおどりなさい。』と伝えているのです。もし私達が神の御言葉を文字通り受け取るならばそうなることが出来るのですが、そうならないのは私達が神の御言葉を文字通りに受け取らないことが多いからだということです。

 そしてもう1つは何故患難を喜ぶのか。この御言葉はクリスチャンでなくても知っている人が多いですし、喜んで聞かれる方が多いのです。なぜならこのことをクリスチャンであろうとなかろうと多かれ少なかれ皆が経験しているからです。苦しみを乗り越えた時に、苦しみが希望に変わっていくのです。苦しみが忍耐を生み出し、忍耐が品性を生み出し、品性が希望を生み出す。苦しみを乗り越えた人はいろいろあっても「いや、大丈夫」という力強い希望を持つことが出来る。聖書の中では

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第1テサロニケ5章18節)

 皆さんが祝福された歩みをしたいと思うなら、是非やって欲しいことがあります。嫌なことに出会った時に「感謝します。」と祈って下さい。神様は『すべてのことを益として』くれるのですから、前もって感謝してしまうのです。「いつかこれが益となることを感謝します。」と待っていたなら必ずそうなります。そうすればあまり落ち込まないですね。益になった時に「やっぱりそうだった。」と喜べるでしょう。信仰により「今はまだ見えないけれども必ず益となる。」と思っているだけで心が軽くなります。神の約束ですから嫌なことを「感謝します。」と言ってください。それが私達の力になっていくことを体験していかれると思います。
 最後に『神の愛が私たちの心に注がれているからです。』もし私達が困難や苦しみの中にあっても神の御言葉に堅く立っていく時に、神様の愛が私達の心に注がれるというのです。皆さんの心は神様の愛が沁みてきて穏やかで平安な心が生まれ「自分は愛されている。神様は共にいて下さる。」と分かるということです。ここで“神の愛”とは何かとの説明が始まります。

罪人の私たちに神の愛が注がれる

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(6〜8節)

 神の愛は私たちが罪人であり、神に反逆していた時に注がれたのです。神に文句を言い、神様を無視していた時にです。にもかかわらず「わたしはあなたを愛している。」と言われるのです。これが神の愛なのです。ある人が「以前は神様は私を愛してくれたかもしれないけれど、今の私は聖書も読まないし、お祈りもしないしだめだ。」と思ったそうです。でも私達が罪人の時に死んで下さった方が、あまり真剣に従えないからといって愛することをやめてしまわれるでしょうか。どんな時でも神様の愛は私達に変わらずに注がれていることを知るべきです。

 自分に逆らい酷いことばかりする者に対して、普通は仕打ちをするでしょう。「神などいない。神がいるなら見せてみろ。」と悪態をついてきた私達のために神様は死んで下さったのです。それにより神の愛が明らかにされているのです。私達はこの愛の中に生かされていることをいつも思い起こす必要があると思います。ですから皆さんがどんなに反逆していても、どんなに神様の前にいじけていても、どんなに神様の前に滅茶苦茶な思いになっていても神様は「あなたを愛している」ことを忘れないで頂きたい。ある方が神様の愛を細かく分けて下さったのです。

神は私を愛して下さるので、私に忍耐して下さる。その忍耐は驚くほどである。
神は私を愛して下さるので、私を無価値な者のようにあしらわれることはない。
神は私を愛して下さるので、私がだれからも理解されないで悲しむとき、私を理解し慰めてくださる。
神は私を愛して下さるので、私が諦めたくなっても私のことを諦めないで育ててくださる。
神は私を愛して下さるので、御心にかなう歩みが出来たときには大いに喜んでくださる。
神は私を愛して下さるので、私が信頼しない時でも、私を信頼し続けてくださる。
神は私を愛して下さるので、私の環境や状況を用いて私を成長させてくださる。
神は私を愛して下さるので、私の罪を記録して機会あるごとにそれで私の頭を打ち叩くことはなさらない。
神は私を愛して下さるので、私が過ちを犯しても怒って拒否されるようなことはない。
神は私を愛して下さるので、お前には望みがないとは言わない。
神は私を愛して下さるので、たとえ多くの友が私を捨てても私を捨てることはない。
神は私を愛して下さるので、最悪に思えることの中から私に最善をしてくださる。
神は私を愛して下さるので、私が極度の憂鬱になって自分を見失うような時でも私を受け入れ、私と共にいてくれる。

 これが神様の愛なのです。皆さんの中には間違った神様が刷り込まれてしまってはいないですか。神様は責め立てたりとか、ほじくり出すとか、いつも注意を与えられるとか。特に親からの影響が入ってしまって、本当の神でないものが刷り込まれてしまっていることが多いのです。そういう訳で私達は間違ったものを全部消し去らせて頂く必要があるのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

 『心の一新』という言葉に目を留めて頂きたいと思います。イエス・キリストの十字架の血潮により私達の心は一新されるのです。間違った神の印象や神の愛を一掃して頂き、正しい神様の印象を受け取っていくべきです。その時に私達は神の恵みを喜ぶことが出来るようにされていくのです。その時にどういうことが起こるのでしょうか。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(9〜11節)

 ここでいう「和解」とは仲直りという言葉です。私達は神様と喧嘩状態になってしまった。神様は罪をそのまま受け取ることが出来ません。罪の上に裁きがなされなければならない。しかしイエス・キリストにより喧嘩が取り除けられて和解がなされた。私達は神様と深く交わることが出来るようにされたのです。このことも「特別に選ばれた人ならばそうかもしれないが、私には出来っこない」という神様に対する信頼を消し去るものが私達を覆っていることが多いのです。私達はいつもイエス様の十字架の血潮で間違った印象を取り去って下さいと祈って頂きたいと思います。そしてもう1つ

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)

 『邪悪な良心』は生まれながらの良心ですが、私達をしばしば騙すのです。神様の言葉を素直に受け取ることを拒否させるのです。「あの様なことをやってきてそれで赦されるなんて甘いよ」とか「もっと熱心でなければ神様の祝福にはあずかれないでしょう。そのためにはもっと良い行いをしなさい。」とか。『邪悪な良心』は聖書の御言葉に関しては素直に受け取らせることを止めさせる思いがあるのです。「あなたの祈りでは聞かれない。」と言われると直ぐに納得してしまう。神様は私達を義として下さるのですから「神様、こんな私の祈りでも聞いて下さることを感謝します。」『神はあなたを愛している。』と聞いても、「でも私は無理でしょう。」という受け止めない邪悪な心を血潮によって聖めて頂く。イエス様の十字架の血潮で私達は神様との敵対関係も完全に取り去られていく。完全な和解をイエス・キリストが十字架により成し遂げて下さったのですから、「イエス様お願いします。」と和解させてもらい神様の元に行くことが出来るのです。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10章19節)

 私達は神様に近づくことが出来るのです。プロテスタント教会が強調するのは「万人祭司」です。これは全てのクリスチャンは祭司同様に神様に直接届くことが出来るということです。私達はそういう者であることを覚えて神様の前に大胆に歩みましょう。皆さんが神様の愛の対象であることを知っていますか。顔を隠さずにイエス様の愛を素直に受け取って頂きたいと思います。そうするならば御言葉の通り私達の内にも喜びが、また栄光を待ち望む力強い心が与えられる歩みに導かれていくことでしょう。

 心の間違った思いを一新して神様の良い考え方をもっともっと蓄えましょう。私達の頭の中に悪い言葉や悪い思いをインプットしていたら、出てくるのは悪い言葉や悪い考えや暗い思いになると思いませんか。私達はこれらをイエス様によって消し去って頂く。そして神は愛である。神に出来ないことはどんなこともありません。私を強くして下さる方によってどんなことでも出来るのです。マイナスは必ずプラスになり、困難は必ず益となる。神様の教えをどんどんと入れていきましょう。その時に私達は積極的な力強い歩みに変えられていくことが出来るでしょう。折角頂いている神様の恵みを私達は無にしてしまっていることが多いかもしれません。悪い言葉を消し去り主の言葉を蓄え、御言葉を割引きしないでそのまま素直に信じることを共にさせて頂きましょう。

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