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2003年11月16日 日曜礼拝メッセージ

「祈りを聞いてくださる神様」



 新約聖書 ルカ18章1節〜8節 より
メッセンジャー
 森・ラリー師

祈りの原則

 神様が創造された生き物の中で、人間だけが神様に祈れるということを考えたことがありますか。私達は祈りを通して、神様と会話する特権を頂きました。私達は祈りを通して、救い主イエス様を受け入れることが出来るのです。更に私達は、祈りを通して自分の喜びや悲しみも語ることが出来るのです。それは人間が神様から頂いた素晴らしい恵みであると思います。またイエス様は「主の祈り」の中で、御心が天で行われるように地でも行われるように、私達に毎日必要な物のため、神様が私達を赦して下さったように私達も他の人を赦すように、私達を悪と誘惑から守って下さるための祈りを具体的に教えて下さいました。イエス様は何を祈るかだけではなく、どのように祈るかも教えて下さいました。何のために祈るか、どのように祈るか、これは両方とも重要なことです。

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」(ルカ18章1〜5節)

 イエス様は祈りの重要原則を教えて下さいました。第1に『いつでも祈るべきである』。ここで一番大切なのは、このやもめが、あきらめずに裁判官に願い求め続けるということです。この裁判官は神を恐れず、人を人とも思わないような人物なのに、なぜ、このやもめは熱心に何度も裁判官の所に行くことが出来たのでしょうか。それには三つの理由があると思います。

 まず、やもめは自分の弱さを認めていて、どうしても助けて欲しいからです。やもめは主人がいないので、一人で家族を養う必要がありました。今日と違い当時は女性は外で働きませんでした。ですからやもめが家族を養うのはとても大変です。彼女が必死で裁判官にお願いするのは当然のことでしょう。このやもめと同様に私達は弱い人間ですから、神様に頼らなければなりません。私達は自分の無力さが分かれば分かるほど、神様に頼らなければならないと思います。だから生きているものの中で、人間だけが神様に祈れるのです。私達にはこの世で自分ではどうすることも出来ない問題がたくさんあります。病気になった時、誰が私達に平安を与えてくれるでしょうか。地震の時、誰が私達を守ってくれるでしょうか。不景気の時、リストラされた時、私達の仕事を守ることの出来る人がいるでしょうか。人間にはどうすることも出来ない時は多いのです。だから私達には神様の助けが必要なのです。

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19章26節)

 彼女が訴え続ける第2の理由は、彼女の願いに答えることが出来る人は裁判官しかいないからです。やもめは相手を裁いて欲しいのです。裁判が出来るのは裁判官しかいないと分かっているので、あきらめずに裁判官の所に行くのです。神様以外に希望がないので、私達も神様に頼らなければならなりません。もし子供が問題に直面しているなら、子供を育てるための知恵を神様に願い求めます。もし友達が重い病気にかかっているなら、いやされるように神様に願います。私達はいつでも神様の助けが必要です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15章5節)

 私達の力だけでは十分でないと分かったなら、神様に頼るべきです。人間に頼ると人間だけの小さな結果が出ます。けれども、神様に頼ると神様の大きな力を体験することが出来ます。

 第3番目の理由は自分が国民としての「裁判官に正しい裁きを頼む」特権を持っていたからです。私達も神の国民として、この特権も与えられています。

「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2章18〜19節)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章16節)

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7章25節)

 イエス様は私達のためにとりなしの祈りをしています。私達は神の子供として祈り、神様に助けてもらえるのです。私達もこのやもめのようにどんな時でも神様の前に求め続けましょう。

期待を持ち続けて祈る

 イエス様が語られた、祈りの第2の重要原則は、失望せずに祈ることです。神様は私達の祈りに答えてくださるという希望を持つことです。1節に、『失望してはならないことを教えるために』と書かれています。私達の祈りを神様が聞いてくださると信じなければならないのです。やもめが裁判官に何度も何度も頼むのと同じように私達も祈りが答えられるまで何度も何度も祈るべきなのです。

 何故私達は何度も何度も祈り続けることが必要なのでしょうか。それは神様に祈り続けることは神様に対して希望を表しているからです。つまり神様が私達の祈りに答えてくださることを本当に期待しているということです。もしこのやもめが自分の願いが裁判官に断わられた時にあきらめていたとしたら、彼女は「裁判官は助けてくれないだろう」と思い希望もなくなってしまいます。もし私達が祈りをあきらめ「神様は私の祈りに答えてくださらないだろう」と思うと神様への希望もなくなってしまうのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11章1節)

 私達は神様が助けを与えて下さるという希望を持つことが大切です。

 私達が祈り続けるもう1つの理由は、神様が私達の祈りに答えてくださることを望む熱心さを表します。やもめは裁判官が助けてくれることを切に願っていました。これは彼女の熱心さを表しています。私達が神様に何度も何度も祈るのは、神様が祈りに答えて下さることを望む熱心さの表れです。その時に神様は1つ1つの祈りを大切に聞いてくださるのです。神様がどのように行動されるかは私達の祈りの熱心さと関係があると思います。


 ある時、モーセがシナイ山で神様から十戒を頂いている間に、イスラエル人は子牛の偶像を作って拝みました。イスラエル人がその罪を犯した後、神様はモーセに、イスラエル人を皆滅ぼし、モーセの子孫から新しい国を造ると伝えました。モーセは神様に「イスラエル人を滅ぼさないで下さい。」と願いました。モーセは、「エジプト人は神様がイスラエル人を滅ぼすためにエジプトから連れ出したと言うだろうからイスラエル人を滅ぼさないように」と神様に願いました。又、神様はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫がたくさん増えるという約束もしました。もし神様が今ここでイスラエル人を滅ぼすなら、その約束も破ってしまうことになります。モーセはイスラエル人のために一所懸命神様に願いしました。そして神様はモーセのその願いをかなえてくださいました。

「すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」( 出エジプト記32章14節)

 祈りがどのくらい重要であるかという聖書の箇所をもう一つ見てみましょう。ユダの王ヒゼキヤは病気で死にかけていました。預言者イザヤが彼の所に行った時、神様からヒゼキヤの病気は直らないという預言がありました。ヒゼキヤはそれを聞くと悲しみ神様に祈りました。

「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。」(第2列王記20章3節)

 神様はヒゼキヤの心からの祈りを聞き、ヒゼキヤは病気をいやされて、寿命を15年延ばしてもらいました。神様はこうして私達の祈りを1つ1つ大事にして答えて下さるのです。いつも希望を持って祈ることは大切です。しかし私達はなかなか祈りが答えらず失望する時もあると思います。そのような時にどのように祈り続けて、神様に信頼することが出来るでしょうか。

 私達が失望しないために3つのことがあります。第1は、神様がどういうお方であるかもう一度心に留めることです。  

「主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(6〜8節)

 不正な裁判官と神様を比べています。神様は公平で、私達の願いを無視しません。もし不正な裁判官でもあきらめないやもめを助けるならば、神様は必ず私達を助けて下さるのです。ですから、やもめが不正な裁判官にそんなにも希望をもっているなら、私達はいつも約束を守られる神様にもっと希望を持つことが出来るはずです。なぜならば神様は真実なお方だからです。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(第2テモテ2章13節)

 神様が信頼出来るお方であるから祈り続けることが出来るのです。

 今日電子メールはよく使われています。しかし時々送ったメ−ルが無事に着いたかどうか心配します。同じように「神様は私の祈りを聞いて下さるだろうか。私の祈りに答えてくださるだろうか」という心配があります。しかし両者には大きな違いがあります。電子メールは、機械操作を誤ったり、機械が故障していると相手に届きませんが、神様はいつも私達の祈りを聞いて下さいます。もし相手がメールを受信しないと、私達のメールは何日間も読まれずに放っておかれることもあります。しかし祈りはメールとは違い、神様はいつも聞いてくださいます。返事がない電子メールはありますが、神様はいつも私達の祈りに答えて下さいます。

「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」(詩篇91編15節)

 私達は神様が私達の祈りを聞いてくださり、答えが来るまで待ち望むことが大切です。

 第2に、神様が必ずしも私達の希望通りに答えてくださるとは限らないことを認めることです。神様が私達の祈りに答えてくださるのは信号機に例えることが出来るでしょう。ある時は「青」信号のように答えてくださり、ある時は「赤」信号のように止められます。ある時は「黄色」信号のように待たされることもあります。でもどんな「信号」の答えでも、私達は神様に信頼し続けなければなりません。

「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10章11節)

 第3に、私達が霊的な戦いを戦っていると自覚することです。私達がこの世にいる間は、霊的な戦いの中にいます。 もし私達が神様に祈っているなら、悪霊はそれに反対し、私達が「神様は私たちの祈りを聞いていない」と思って失望することを願っています。もし私達がそう思うなら、段々祈りたくないという気持ちになってしまいます。ですから私達は霊的な戦いを戦っていることを覚えて、祈りを通してサタンの策略から守らなければなりません。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6章11節)

 私達の大切な武具の1つは祈りです。私達の祈りは農夫の働きに似ていると思います。農夫は種を蒔いても、すぐに収穫は出来ないとよく分かっています。何日間も大地から何も出て来なくても、いつかは芽が出て来ると信じています。作物を収穫するまで、農夫は水をやり、草を取り、薬剤散布など多くの苦労をします。しかし農夫は作物が必ず実を結ぶことを期待しているので、続けて作物の世話をします。そして農夫が作物の収穫のために時を待つように、私達は祈りが答えられるまで待つ必要があります。すぐ答えが来ないからといって失望してはいけません。私達は神様に祈り続けて、答えが来る時まで待ち望みましょう。
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