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2003年11月23日 日曜礼拝メッセージ

「調和と一致の秘訣」



 新約聖書 第1コリント12章12節〜31節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 人間が本当の喜び、力に満ちる時はどんな時かと言いますと、目的や意味を持って自分の人生を踏みしめている時ではないかと思います。何度か聞いていると思いますが具体的に言いますと、聖書では「神の栄光を現わすこと」が私達の正しい生き方であるのです。しかし「神の栄光のために生きる」と言っても漠然としていて分からないという面があると思うのです。10月と11月は御霊の賜物について学んでおります。実は御霊の賜物が神の栄光のために生きることと関係があるのです。だから私達は本気になって考えていく必要があるります。先月賜物調査表をお渡ししました。調査表の結果は参考程度でしかないのですが、知って頂きたいのは自分の中にそういう賜物が与えられていることを真剣に考えて欲しいという事なのです。

御霊の賜物が与えられていることを知る

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(12章1節)

 パウロも御霊の賜物のことについて真剣に考えて欲しい、知って欲しいということを言っています。まず

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(12章3節)

 『主』はギリシア語で「キュリオス」と言います。ローマ人がローマ皇帝に対して用いた言葉です。イエス様が私の罪の救い主であり、この方が、私が従っていくべき方であるという信仰が与えられ、そう思えるのであるなら、あなたの内には間違いなく聖霊が宿っている事実をしっかりと踏まえておきなさいというのです。イエス様を信じることが出来たの皆さんの中には聖霊様が宿って下さったのです。これを軽く考えないで下さい。聖書によれば『人の心は何よりも欺きやすく、芯まで腐っている。それがどんなに悪質なものであるかは、だれにもわからない。(リビングバイブル エレミヤ17章9節)』と書かれています。見せかけを綺麗にしても中は汚い状態にあるです。ですから新しい神の霊を頂く者こそが本当に変えられていく。どこまで変えられていくのでしょうか? 真剣に真実に求めていくならば『キリストの満ち満ちた身丈にまで』私達はそこまで変えられていくのです。しかし多くの場合その前にあきらめるよりも前に、期待することすらしないのです。ですからその恵みになかなか与れないのです。もっと大胆に求め、変えられて神の栄光のために用いられる者となっていきたいと思います。

 「御霊が与えられていること」がまだよく分からないという方はもう1度「イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主と信じます。」と祈り告白してみて欲しいと思います。イエス様こそ私達の人生をか賭けるべきお方であり、私の罪にために死んで下さったことを「ありがとうございます。」と受けとっていくことが大切です。次に

「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」(12章7節)

 信じている全ての人に神様は『御霊の現われが与えられている。』と言っています。ですから皆さんの内にも間違いなく与えられているのです。このことを是非ともしっかりと受けとって頂きたいのです。これは生まれながらの才能や能力とは違います。それとは別でイエス・キリストを信じて新しい霊が与えられてそれ故に与えられる"賜物"です。たまたまそれが生まれもった才能に近いこともあるでしょう。もし元々持っているものですと、結果として高慢になったり、妬んだり、嫉妬したりしてしまう。しかし新しい霊によって与えられたものは喜んで主に仕えていくことが出来るのです。この賜物により各人がキリストの体を建て上げるために用いられようとしているのです。ですから「私1人だけ」と考える方はその分だけ教会が教会として機能しなくなってしまっていることを知って下さい。ですから自分に与えられている賜物が「何か」を認識していく必要があるのです。何故ならそれにより神様にお仕えしていくことが出来るからです。

 賜物はみな内容が違い千差万別です。1人1人違いますから神様に教えられていって欲しいと思います。大雑把に言うならば語る人と奉仕をする人。もう少し具体的に言った方が分かり易いかもしれません。例えば人の前に立ってお話をしたり、司会をしたり、祈ったりする人。あるいは手芸やお料理で楽しませて下さる方。あるいは、隠れた所で奉仕をするのが大好きという方もいます。縁の下の力持ちですね。あるいは何かを作ったり修繕したり。人が何かを求めて困っているとそれにすぐに気がついて助けようとする賜物。人の心の痛みや悲しみを理解して慰める賜物。その他もろもろの教会を助ける賜物が与えられています。これはその事を通して神様の業を進めるために与えられているのです。しかし賜物を理解しないと、妬みや嫉妬、傲慢が出て来て、かえってお互いの足をひっぱり合うことにもなってしまいます。

 前回学びましたのは賜物を愛をもって用いられないなら意味がないということでした。それぞれが助け合い、支え合い、励まし合い、慰め合う。誰か1人が大切なのではなく、お互いがお互いに必要であること。それにより調和と統一が保たれるのです。そしてそれは他から見ても「愛し合っているな。受け入れ合っているな」と麗しい関係が築かれてくるのです。そういう意味で自分に与えられている賜物を理解して頂きたいと思います。ところが現実にはいろいろな失敗もあります。

お互いに必要な働き

「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」(12章12〜14節)

 身体の例えをもって賜物の話をしています。「身体」というと耳のことですか? 違いますね。目も手も足も内臓も全部身体です。各器官が全部合わさって身体です。同じく教会も1人1人が組み合わされて教会となるのです。全てが合わさるのですから、1つでも欠ければ足りなくなってしまいます。「私なんか」と言ってしまう人は気をつけて下さい。

「たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(12章15〜18節)

 多くの方が「"賜物"なんて大それたもの。私は隅の方にいさせてくれれば結構なのです。」と言ってしまいがちですが、あなたが必要なのです。慈善の賜物が働くと愛の働きですから理想的な教会となるのです。この賜物を与えられている人は、「どうしてここまで出来るの?」と思うほどに出来るのです。出来るのならいいのですが、それが"賜物"だと認めていないと「何でみんなはやらないんだ!」となってしまうのです。その人にとってはごく自然なことですも、他の人には出来ないのです。しかし「みんなが出来るべきだ」となってしまう。これが後半の姿になっていきます。

「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。」(12章20〜24節)

 慈善の賜物がある人は他の人のこと見て「こんな愛のない教会ならばなくなった方がいい」と極端に言えば思ってしまう人もいるかもしれません。これはそれ以外はいらないと言っているのと同じです。しかし自分の賜物が分かると自分はそのことにおいて仕えていくべきなのだということに気がついていきます。ですから自分に与えられている賜物に気づくと同時に与えられていない賜物にも気がつくべきです。無いものを知ることも大切なのです。無ければ喜んで他の人にお願いが出来ます。そこでお互いに助け合う関係が出て来るのです。自分の賜物を認めないと他の人がしていないことに不満を感じてしまいますし、自分に無い賜物を持っている人を見て妬ましさや嫉妬を感じてしまう。これは両方とも誤っています。自分に与えられている賜物、与えられていない賜物を知ることによって、お互いに尊敬し受け入れ合うのです。お互いの弱さと強さを知り助け合っていく。これが本当の調和です。そして「キリストの栄光のために」という目標に向っていくのです。私達はそのように召されて用いられるのです。

 賜物の業を成す時に、自分自身に喜びがあります。もしそういう思いでしていることがあるならば、それは賜物であると思いますね。また他の人から「あなたのその働きは感謝である」と言われることがあるならば賜物である可能性があります。賜物は皆の益となり生かされることにより他の人が助けられるのです。だから使わなくてはならないのです。それぞれに賜物を与えられているし、それはそれぞれの使命に関係しています。ですからどうか真剣に考えていっていただきたい。同時に皆さん自身も神様に素晴らしい喜びをもっていて頂きたいと思うのです。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」( エペソ4章11〜15節)

 「教会は本当に素晴らしいな。」「あの教会はイエス様を現わしているな」そういう教会になるためにあなたに与えられている賜物があります。そしてイエス様はマタイの福音書25章の中に「あなたがたに与えた1タラント、5タラント、10タラントを使って大きなことや立派なことをする必要はない。与えられたことを忠実に行なっていけばよい」と語られています。それぞれが与えられている賜物を生かしていく時に神様の不思議な業が進んでいくのです。どうかそのために「私の賜物は必要ない」とは思わないで下さい。また「あの人の賜物ばかり素晴らしい」とも思わないで下さい。賜物に関して過小評価も過大評価もしないで下さい。全てが神様の栄光を現わすために与えられているのです。あなたに与えられている賜物は何でしょうか? 調査表をやってみて下さい。同じ賜物を持っている人同士で話をすると話が合うし、新しいアイディアも出て来て、皆さんの魂の中に喜びが出て来るのではないかと思います。そんな風にお互いが生かされ合っていくものとされていきたいと思います。

 もう1度繰り返しますが、私達は神の栄光のために生きる時に充実した喜びの生き方が出来るのです。しかしそうでないことのために生きてしまうのです。私達も「自分は何のために生きるのか」をもう1度真剣に考える必要があるのではないでしょうか? 与えられた賜物を真剣に考えていくことが大切ではないかと思います。聖書ははっきりと私達は神の栄光のために生きるべきだ。そこに人間の本当の喜び、本当の充実、本当の意味があることを教えて下さっているのです。私達は御霊の賜物を真剣に考え、共に主に仕えていくお互いとされていきたいと思います。
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