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2003年12月14日 日曜礼拝メッセージ

「神の知恵の現われ」



 新約聖書 第1コリント1章18節〜31節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 アドベント(待降節)第3週に入りました。前回は「神の愛の現われ」と題してクリスマスの意味をご一緒に学ばせて頂きました。神様はこの私達に現れたのですが"自分"へのものと受けとめずに素通りさせてしまう。他の「誰か」がいなくても「私」をイエス様は大切に思って下さる。しかし正直に言えば、なかなかそれを受けとめきれないことがあるかと思います。今日のテーマは「神の知恵の現れ」です。いわゆる頭の良い人が一生懸命に探って神様を分かるのではなく、自分は弱くてぼろぼろでどうしようもない者で「神様助けて下さい。教えて下さい。」とへりくだる中で、神の真理が分かるようにして下さるのです。これが「神の知恵だ」というのです。でも現実にはこの力を日々味わっているかと言いますと、あまり神様の力を私達は知っていない、味わっていない部分があるのではないでしょうか? ヨブは一番神様に近いと言われていました。神様の訓練を頂いた後に彼は『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。ヨブ記41章5節』私達は、こういう信仰に変えて頂くために何が必要であるのか? ご一緒に教えられていきたいと思います。

ただ信じるだけ

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(18〜25節)

皆さんは「十字架の言葉は、私にとり"神の力"だ。」と言えますか? 「そう言っている人もいるけれど、私にはそうではない。」と、これが私達が神様の力を十分に頂けない理由であるということが出来ると思います。神様は単純にへりくだり求める者達に神様の真理を明らかにして下さるのです。自分に罪があることを認め「こんなどうしようもない者を救って下さい。」とイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じるだけです。あまりにも単純です。だからつまずきだったのです。ユダヤ人達はしるしを求めたのです。時々「すごいしるしを見せてくれたなら私ももっと簡単に信じるのだけれども。」と思いませんか? 実は私達が複雑すぎるのです。単純に聖書の言葉をそのまま受け取るとその通りになっていくのです。自分で複雑に考えてしまうから余計に分からなくなってしまう。ところが私達は素直に受け取ろうとしない。彼らは救い主を見ていながら救いの恵みに与ることが出来なかったのです。

 いつの時代にも本物がある所には偽物もあるのです。キリストの再臨が近づいている中、既に偽物も出てきています。イエス様が初めてこの地上に来た時にも「私が救い主だ。」とか「私はヨルダン川を2つに分ける。しるしを見せてやる。」あるいは別の人はエジプトの方から来て「私が命じればエルサレムの城壁は一網打尽に壊れるのだ。」とか言う偽者がいたのです。これは「しるしを見せてくれたら、信じてやろうではないか」という大げさに言えばそういう態度です。へりくだった態度ではない。「見せてくれれば信じてやる。」これが神の恵みを妨げている心です。この傲慢に私達は気をつける必要があります。

 また当時ギリシヤ人は理論家で議論をしてどちらの方が勝つかと楽しんでいた訳です。ですからクリスチャン達を「議論が出来ない」と軽蔑したのです。結果として彼らが神様の恵みを知ることはなかった。それに対して聖書は十字架の言葉は愚かしく見えるが、それを信じる者には本当に力となると言うのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)

 命を捨てることは簡単なことではありません。でもキリストは友である"あなた"のために命を捨てて下さったのです。

 アメリカワシントンDCのポットマック川にはアーランド・ウィリアム・Jrブリッジという橋が架けられています。人の名前がつけられた非常に珍しい橋です。その理由は1982年1月13日冬の寒い時ですが、普通ならば飛行機が離陸して橋の上を通過していくのですが、雪の重みのために十分な高度を伸ばすことが出来ず、橋げたに車輪がぶつかってしまいました。ほとんどの人は飛行機と共に亡くなったのですが、外に投げ出され川に落ちた人が6名いました。緊急救助のヘリコプターが彼らの救出に向かいました。ロープに浮き輪をくくりつけ、川の中にいる人達の前に投げた。1人の紳士の前に浮き輪を投げますと、彼は隣にいる女性に浮き輪を渡したのです。その女性はヘリコプターに引き上げられ助かりました。もう1度ヘリコプターは引き返して来て、また彼の前に浮き輪を投げた。今度もまた別の人に渡し、その人も引き上げられた。同じ事を5回繰り返した。5名の人は助けあげられましたが、6回目にヘリコプターが救助に戻って来た時には彼の姿はもうありませんでした。その惨事を見ていた人は「私は何度も惨事を見ているが、この報告をする時には涙が出て仕方がなかった。」と言いました。彼はクリスチャンでした。実は彼はこの旅行が終わったらすぐに結婚する予定でした。彼の婚約者は「これは彼の内に生きているイエス様の愛が、彼にそのようにさせたのだと思います。私は彼を誇りに思います。」 後に彼の行為を覚えて橋に彼の名前をつけたのです。正しく『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』このことを彼は実践したのです。生前彼がこう言えた人であるかどうかは分かりません。でも彼は本当に単純に信じ、キリストの愛を単純に受けとめておられた。そして彼の内にはその命があふれていた。私達ももっと単純に神の御言葉を受けとめていく必要があるのではないでしょうか?

信じる者に働く神の力

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(26〜31節)

 当時ローマには約6千万の奴隷がいたそうです。クリスチャンになったのは上流階級と言われる人達もいましたが、多数の人は奴隷と言われる人達でした。そして彼らに何か力があったからではない。プライドや誇りを捨て、ただ単純に自分を「イエス様、助けて下さい。」と叫んだその時に救いにあずかった。そればかりか、『キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。』要するに全ての全てとなられたというのです。私達がもっと単純に神様により頼むものとなっていく時に、その御力を現わすものとなって下さる。私達はまだまだこの世の知恵や、この世のものに頼っていこうとするのではないでしょうか? そこには神の力はないのです。単純に素直にこの神の言葉を受けとめていく時に、神の力は私達に注がれ、神の命に生きる者とされていくのです。  クリスマスの時期に「神がその1人子を与えて下さった。それ程にこの"私"を愛して下さった。価値あると見て下さっている。」あなたはこのことを真剣に受けとっていたでしょうか? 単純に素直にその御言葉を受けとるならば、確かに私達の心は喜ぶことが出来るのではないでしょうか? 私達は「主よ、そうして下さい。」と求めていけば良いのです。そうすれば神様は私達の内にその御業を成して下さるということなのです。まず第1に神の御言葉を素直に信じて受けとめていきたいと思います。  

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1章45節)

 これはバプテスマのヨハネの母エリサベツがイエス様の母マリヤに言った言葉です。皆さんは神の言葉は必ずなると信じ切っていますか? あなたの内にそうなると信じ切っていますか?

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1章5〜7節)

 単純に素直に疑わないで、神の言葉を信ずることです。ここに神の力が現われるのです。シンガポールとマレーシアに宣教師として行かれた横内澄江先生という方がおられました。実は既に天に帰って行かれたのですが、彼女は中国語もほとんど現地人と間違えられる位話せるのです。英語もマレー語も話せます。ある時に「語学の賜物があるのですね。」と申し上げたら「私はダメだったのよ。みんな神様とお相撲して頂いたものなの。」と言われました。彼女は定時制高校に行きながら神学校で学んでいました。なかなか思うように勉強が出来なかった。でも宣教師になるためにどうしても必要だから真剣に神様に願った。「ないから」と言ってあきらめずに祈り、それを神様がくださった。後に彼女はアメリカの大学院を卒業もしました。信じて疑わずに神の言葉をそのまま受け取るということです。

 私達は「まさか」と思って祈っていることはないでしょうか? 「だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」マルコ11章23節』という御言葉があるのですが、ある年配の女性は自分の家の前に目障りなビルがあるからこれが動くようにと祈ったのです。「神様どうぞ動かして下さい。」と祈って目を開けたら「やっぱりだめか。」と言ったそうです。「やっぱり」とは元々応えられっこないと思って祈っているのです。だから応えられないのです。

 クリスマスには素敵なお話がたくさんあります。その中の1つをお話したいと思います。雑貨屋を営むハーマーさんという方と少年の話です。クリスマス用のプレゼントは全部売れて、1つだけ売れ残りがありましたが、もう遅くなるので店を閉めた。次の日はクリスマスでした。しかし神様から「店に行きなさい。」と言われているような気がするのです。クリスマスの日に店を開ける人はいないし、行かないでいると「行け。」と心の中が圧倒される思いになる。でも言うのも恥ずかしいので、ご主人に「ちょっと出掛けて来ます。」と言って店に行った。そこに6歳と10歳位の男の子達が立っていた。すると「ほら、来た。」と言ったのです。「弟にクリスマスプレゼントがないから今日買いに来たんだ。」と男の子が3ドルをくれたのです。「もうプレゼントはない」と言いかけて、1つだけ残っていたのがあったのを思い出し「もしかしたら?」と思った。彼らの着ている物を見ると手袋も帽子もなく貧しさが現われ出ている。残ったプレゼントを開けるとスケート靴でした。それがぴったりだったのです。帰りがけに子供達に「どうして君達は待っていたの?」と聞くと「だって僕、おばさんが来るように祈ったんだ。」と答えた。このように単純に信じる。それに神様は答えて下さる。余計な知恵や考えが神様に単純に頼ることを結構失わせいるのではないでしょうか? イエス様は『子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。マルコ10章15節』と言いました。余計なことを捨てて、ただ単純に主を信ずる。そういう信仰に導かれていきたいと思います。2番目ですが、

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4章7節)

 もし私達が神の御言葉を信じるならば当然その神に従おうとするでしょう。私達が神の御言葉を本当に信じるのであれば、その御言葉に素直に従うではありませんか。私達は御言葉を聞くだけではなく、御言葉に素直に従っていく。単純に求め従っていく時に神様の御力は現わされていくと思います。更にもう1つ

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5〜6節)

 私達は自分の考えが正しいと思うとそれに頼るのです。そうではなく主の御言葉に頼ることが大切です。神様にあらゆることを頼っていくことが大事なのです。『あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。』「ここにもあそこに主がおられる。主がこのことをなさる。主が悪いことをなさるはずがない。」

 「主を愛する」とは私達が「主は私を愛して下さる。主は悪いことをなさるはずがない。脱出の道を備えられないはずはない。どんなマイナスも必ずプラスとなり益となる。」と信じれば必ず私達の内に力となっていくことでしょう。そしてその時にあなた方の道は主によって真っ直ぐにされるのです。余計な横道にそれていたものが段々と真っ直ぐな道に導かれていくのです。私達はこの道に歩みゆく者となっていきたいと思います。「この私が神様によって愛されている。私はなくてならない大切な高価で尊い存在なのだ。」と受けとめられて、その人の内で確かに力となっていく。疑って神様の恵みを失ってしまうのではなく、共に信じて神様の恵みにあずかっていくお互いにされていきたいと思います。
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