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2003年12月21日 日曜礼拝メッセージ

「闇に打ち勝ついのち」



 新約聖書 ヨハネ1章1節〜5節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(1〜5節)

光である神

 2003年クリスマス。皆さんおめでとうございます。私達は2000回以上この挨拶をしてきた訳ですが、何故そんなにまで何度も祝う必要があるのでしょうか? 「クリスマスの意味は何ですか?」とお聞きしたなら何とお答えになりますか? 「それはイエス・キリストの誕生を祝う日です。」「イエス・キリストが生まれた日です。」いろいろな答えがあるかもしれません。でも本当に皆さんの心の中に「クリスマスおめでとう。クリスマスありがとう」という心があるでしょうか? 今日ご一緒にクリスマスの祝福を、恵みを味合わせて頂きたいと願ってやみません。

 今読ませて頂いた御言葉『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』と記されています。闇は一生懸命吹いても出ていくものではありません。どんなに戦っても勝てませんが、もし光が入ってくるならば一瞬にして闇が消えるのです。そればかりか光の中に闇を持っていくことは出来ますか? 闇は光に打ち勝たないのです。イエス・キリストはひとり子としてこの世にお生まれになったのは、このような光を私達の心にも持ってきて下さるためです。私達の心は様々な闇を持っています。人との葛藤や人生の悩み、孤独、悲しさ、苦しさ、失望、落胆、絶望していることもあるかもしれません。でも闇は光に打ち勝たなかった。もし私達が心の内にこの光を持つ事が出来たならば、私達は負けることがないと神様は聖書を通して約束して下さっているのです。「でも私の場合はそうではない。私は例外なの?」と思われる方は、その力をもう一歩受け取り切れていないことが原因です。

 ボブ・ディーランドという名前を聞いたことがあるでしょうか? ある人は彼を「元気の人」と言います。「勇気を与える人」という方もいます。1986年アメリカ西海岸から東海岸ワシントンDCまでこぶしで歩いた人物です。彼は大学野球の名手であり、大リーグに入ることもほぼ決まっていました。学生時代には3度ノーヒット、ノーランを記録しています。ところが徴兵によりベトナムに赴きます。ある日友人が地雷を踏み「助けて」という声を聞いたボブは同じく地雷源に踏み込み両足を奪われたのです。でも生き残ったのは不思議なことでした。その地雷は戦車を破壊するほどの威力を持つ物だったのです。大学生の時に彼はクリスチャンとなっていました。彼は「神様がいれば出来ないことはない。何か自分にも出来ることがあるはずだ。」とアメリカに戻り、パワーリフティングを始めました。

 ある時のコンテストで137kgを持ち上げた。これは世界新記録でした。健常者を含めた世界新記録で「優勝」と思った瞬間に、数分後審判員が彼の元に来て「あなたは靴を履いていないので、この資格がありません。」と告げた。靴を履いていることというのがルールにあったのです。彼の優勝も世界新記録も消されてしまった。彼は「分かりました。ここまでこれただけで満足です。」と言い、神はこの道を閉じられたが別の道を開くに違いないと、彼は自分のこぶしで歩み始めた。1日1マイル(約1.6km)歩くのに2時間。彼の心の中に「これで神様を証ししたい。神様がいれば何かが出来るはず。信仰を伝えたいのだ。」と周りからの「きっと出来る」という励ましも受けてトレーニングを続け、1982年西海岸を出発し、真横を大型トレーラが走るハイウェイを490万回(恐らくこれ位の回数であろうと思われる)こぶしで歩き続けたのです。彼はその途中で証しをしたり、学校などで講演をし、勇気や励ましを与え「スピリット・オブ・アメリカ」という募金も募り、東海岸に着くまでに31万ドルの募金が集められ、350人以上の人がイエス・キリストを信じるようになったのです。

 聖書には『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。第2コリント5章17節』という御言葉があります。神様は私達を本当に造り変えることが出来るのです。でも私達はそのことを十分に素直に受け取らないために、なかなか現実のものにならないことが多いかと思うのです。

光を受け入れる

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1章9〜11節)

 多くのユダヤ人がキリストについての知識を持っていました。「メシヤ(救い主)はどこに生まれるのですか?」と聞けば「ユダヤのベツレヘムです。」と簡単に答えられるほどに、聖書をよく知っていましたが、このキリストという方が分からなかった。彼らは神様もその力も体験することは出来なかった。でも知って下さい。『だれでもキリストのうちにあるなら』です。昨今の日本は交通事故で亡くなる方の約4倍の方が自らの命を絶たれています。私達は表面的には何もないかのような姿をとっています。でも私達の中には闇というもの、あるいは悲しみ、苦しみを抱え、それを見ないようにしている。もし素直に心を開くならば、私達の内側は問題だらけで悲しみ、失望、落胆、いろいろなことでいっぱいである。もし私達が「このお方は私に本当に必要な方であり、この方こそ私を助けて下さる方である。」と思えるならば素直に心を開くことが出来るのではないでしょうか? しかし私達はこの方に十分心を開いていると言い難い面があるのではないでしょうか? 1人でも多くの方に、その光の方がいることを知って欲しいと思っています。でもそれだけではなく、クリスチャン自身が「この方は本当に闇を光に変えて下さる。私の闇を光に変えて下さったお方である。」と言い得るならば、もっと多くの人がキリストに目を開くことが出来たのではないかなと思うのです。

 今度の世の光宮城市民クリスマスは12月25日です。森本春子さんが来られます。彼女は東京山谷でホームレスの方々の所に遣わされて福音を説教ではなく"絶叫"した。「とにかく聞いて欲しい!。とにかく知って欲しい!。そして生まれ変って欲しい。」細腕の女性ですが、昨年までに4500人以上の人々がイエス・キリストを信じるようになっていった。実は彼女自身が随分と苦しいところを通ったようです。そしてその中で彼女は神様に触れていたのです。

 ご主人が長く病床にあり、看病のため寝る時間は1日2時間という状態。食事は素麺を1日の最後に1杯だけ。彼女は「神様、この素麺で牛肉1kg分の力をお与え下さい。これで本当に私の力を満たして下さい。」と祈ったそうです。彼女自身もお金がない。パンの耳を買って来て人々に与えて。何故そのようなことが出来たのでしょうか? 彼女はご主人の世話をしながら毎晩遅くまで働いて寝ていても自分のウメキ声で目が覚めてしまう。「これで死ぬかもしれない」と何度思ったことでしょう。

 〜それで私は全身全霊を込めて神に呼び求めるのでした。「こんな私をあわれんで下さい。イエス様の復活の命で生かして下さい。」すると主は、私の内に復活の命を注ぎ、即座に新しい力を沸き出させて下さるのです。まるで熱湯のように熱いものが頭のてっぺんから降りて来て両手足の先まで染みていった途端、汗がじわっと出てきて身体中の痛みが一気に取れるのでした。『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2章20節』という聖書の言葉がこのようにして私の上に日々体言されているのを実感し、復活の命に溢れる喜びが私を支えてくれました。〜

 皆さんにはこういう命が提供されているのです。ある特別な人達だけにですか? 聖書は『だれでも』と言っています。そして彼女は何故自分がこんなに苦しい生活を強いられるのかが後に分かりました。ご主人は自分で排便する力もなくなり、下の物を彼女が指で掻き出していた。でもそれは、山谷の人達も手が動かなくなったり、垢まみれで汚れている人達を洗ってあげるための訓練であった。この山谷の人々のために残りの生涯を捧げる決心がそういう中でついたのでした。家族や社会や国からも見捨てられ、生きる事に疲れ果て、凍てつく路上に寝ている人々。彼らの悲しみを私の悲しみ、彼らの苦しみを私の苦しみと受けとめることが出来たのです。
 〜それは私自身が5歳から19歳まで義理の母から信仰上の苦しみを受け続け、孤児のように孤独の中を生きてきたからに他なりません。神であるイエス様はそのような私達を重荷や罪から救い出すために、身代わりに十字架にかかって尊い血潮を流して下さったお方です。その神様に向かって私は魂のどん底から絶叫しました。「どうか今のこの境遇から救って立ち直らせて下さい。この貧しいはしためにあなたの復活の力を注いで、あなたの伝道のために用いて下さい。」その瞬間まるで熱湯をあびせかけられたように、神様の愛が頭のてっぺんから足の先へと火のように走るのを覚えました。それは夫の看病に精魂尽き果て、注がれて来た復活の力の何倍、何百倍もの神様の圧倒されるほどの熱愛でした。その愛が強力な命の流れとなって私の中を流れ出し、山谷の人々を包みこんだのです。『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。ヨハネ7章38節』という言葉通りに、その言葉に押し出されるようにして私は毎晩山谷伝道所で集会を開き聖書の言葉を語り続けました。〜

 皆さん、彼女が立派だったのではなく、神様がこのことをしたのです。ただ心の底から絶叫したのです。「こんな私をあわれんで下さい。助けて下さい。」もう1人の方のお話をしたいと思います。

 小原クミコさん。現在は教会の伝道師をしている方です。一見普通の中流家庭に育ちましたが、家庭内はいつも冷たく、悲しく、虚しくそんな人生を歩んでいた。いつの間にか悪の道に進み、高校を中退し、同級生と結婚して子供を産み、折り合いが悪くなり離れた。「これではいけない。」と思いながらもどんどん悪の道に染まり、マリファナに浸かるようになり、自分もぼろぼろになってしまった。その時に小さい頃の聖書の言葉と神様を思い出し、そしてこう祈ったのです。

 〜「とことんまで息詰まった私は「神様。本当にあなたがいるならばここに来て、こんな惨めな私を救って下さい。」と叫びました。するとその叫びに答えてイエス様が現われ、私の両手を取り、マリファナで衰弱しきっていた私の身体を立ち上がらせて下さったのです。まさに『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。使徒2章21節』という聖書のお言葉通りです。それから数日間、私の犯してきた数々の罪が目の前に現わされ、イエス様に1つ1つお詫びすると、心がスッと軽くなり、初めて赦された確信を得ました。それはイエス様が私の罪のために既に十字架に架かられ、全て帳消しにして下さっていたからでした。そのようにしてまでイエス様に愛され、赦されていることが分かり、愚かで弱い自分を素直に認めることが出来るようになりました。不満、憎しみ、劣等感なども消え去り、暖かく優しい思いで満たされ、自分のそのような変容が胸が張り裂けそうなくらい嬉しいのです。〜

 彼女はその故に今、このキリストをお伝えする人になっています。皆さん、この朝知って下さい。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 『光』は私達の所に来ているのです。これを受けとっていく事が私達に必要なことです。その時に私達の内には確かに変化が現われるのです。  この前、私は「今あなたはどう自分が感じますか」というアンケートをとっていました。そこにあなたの隠れた闇があるということなのですが、

・自分自身が嫌いです。
・いつも他人よりも劣っていると考えてしまいます。
・自分の過去を変えられたらいいと思っています。
・他人から非難されると落ち込みやすいです。
・時々怒りを抑えきれずに爆発したり、投げやりな言葉を発してしまうことがあります。
・不眠症です。
・心配症(不安症)で、些細なことでもすぐに気にします。


 アンケートの結果は、私の過去は全部◎でしたのに、今はある項目は○、ある項目は△、ある項目は×となりました。1つ1つ調べる時に「何気なく自然に歩んでいる自分」でも神は本当に私を変えて下さっていたのです。神様は私達を本当に作り変えて下さる方なのです。私達が全面的にこの方に明渡していくことが出来るならば、そして自分の闇を正直に告白するならば、神様はその人の内に、森本春子師の上に、また小原師の上に、ボブ・ウィーランドの上に成されたその業を、形や内容は違えども同じようにして下さる。新しく造り変える業を成して下さるのです。この神様の前に正直に素直になってみようではありませんか。

 大森さんはクリスチャンホームに育ちましたが、5歳でカリエスを患いました。治療を重ね小康状態を保っていました。ある日そんな身体であることを知った上で、学校の先生から鉄棒を強制させられた。その時に鉄棒から落ちて小康状態を保っていた身体は病状がどんどんと悪くなった。そして13歳の時に「私はどうなるのか?」と母親に尋ねた。すると母親はじっと彼の顔を見ながら「お父さんのところに行く用意をしましょうね。」と答えた。彼の父親は彼が小さい時に先に天国に行っていたのです。彼は「ああ、僕はもうすぐ死ぬんだ。」と死の覚悟をしようとした時に、自分の中にどうしようもない恐怖心があることに気がついたのです。「どうして僕はこんなにも恐がるのであろう?」と考えていく時に、2つのことが思い出されたそうです。1つは小さい時に近所の家でそこにあったお金を盗んで、美味しいものを買って食べてしまったこと。もう1つは鉄棒を強制したあの教師を赦そうにも赦せない気持ちが彼の心を支配していた。「このままでは私は天国には行けない。」という思いが彼の中にあった。それで母親に「お母さん、僕は神様に謝らなければならなことがあるのです。」と言ったそうです。すると母親は「よくそこまで分かったね」と言って、その盗んだ家に行きお金を返しにいった。それから他のことも神様に告白していく中で心の中もどんどんと軽くなっていった。今まで「神様がいるならば、どうして自分はこんなに酷い目に会うのだ。」と思っていたのが、「神様は私の罪を赦すために、十字架にまで架かって下さった。本当にこの神様は、私を思っていて下さっているのだ。そんなにまで私のことを思って下さる神様がいるならば、1日、1日を委ねていこう。」と思った時に、彼の心が安らかになり、身体も健康になっていき、何十年経った今も元気でおられます。

 神様は私たちを本当に強くしようとして下さっている。私達がこの方に全面的に心を開いたならば、神様はその私の心を満たして下さり、神様の力で歩むことが出来るようにして下さる。もし皆さんの中でまだこの神様の愛を受け取られたことがない方がおられるならば、是非この機会に本当にこの世に来て下さったイエス・キリストを、あなたを愛して、あなたに命を与え、復活の命に満たそうとして下さる神様を受けとめて頂きたい。そして既にこのキリストを信じている方、もう1度この愛に全面的に信頼し、お従いしていこう、この愛に満たされて、本当に神様の愛を現わす程に神様の愛に満たされて歩む者にして下さいと本気になって求めていく者にならせて頂きたい。私達がそのように満たされていく時に、私達の周りにいる方々が神様の力や恵みを知るようになっていくのではないでしょうか? もう1度この神様を心の真中にお迎え出来るように、また「こんな私をあわれんで下さい。クリスチャンになってもまだまだ惨めな生き方です。どうぞ私を本当の愛に満たす生き方に変えて下さい」と祈っていきたいと思います。
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