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2003年12月28日 日曜礼拝メッセージ

「神の和解を受け入れなさい」



 新約聖書 第2コリント5章17節〜21節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 クリスマスのメッセージをずっとさせて頂いたので、12月の目標「素直に愛を受け入れる」のメッセージをなかなか出来ませんでした。私達は子供のように神様の約束を受け止めていくこれが出来る時に、信仰が深められ、強められていく訳です。ところが現実にはそれが出来ず、その力を味わうことも出来ない面があるかと思います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17節)

「そういう所も全くない訳ではないけれども、『すべてが新しくなった』とは言えない。反対だな。全てはもとのままだ」となってしまう。そうではなくて神様の恵みをしっかりと受けとめる。今日は「神の和解を受け入れなさい」というテーマでお話をさせて頂きたいと思います。

和解を阻む罪

 私達は御言葉をそのまま受けとめるということが難しい面があります。まして「和解」といいますと非常に難しいように思います。実は神様が私達を受け入れ愛してくれている。神様と私達は和解できているのですが、心底そのことを受けとめているかと言いますと、あまり受けとめていない可能性があると思います。もし受けとめているならば、

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10章19節)

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)

 あなたは神様に大胆に近づくことが出来ますか?「私は神様の恵み、祝福に大胆にあずかりうる者です。」と心から言えますか? それとも「私はそんな大それた期待はしない」と一見謙遜そうですが、これは神様に対して不信仰ですね。もし私達が本当に神様と和解ができているならば、大胆に「神様」と言って近づくことが出来ます。神様との和解をしっかりと受け入れ、近い関係に歩ませて頂きたいと思うのです。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(20節)

 更に『私たちはキリストの使節なのです。』とあるように、私達を通して1人1人の和解が広がっていくのです。しかし「どうも和解が上手くいかない。すっきりしない」のにはいくつかの理由があるように思います。"和解"とは以前は良かったのが一旦悪くなり、そこから回復するのが"和解"です。ところが「前からそんなに親しいとは思ってない」「別に今もそんなに悪いとは思っていない」こうなると和解はありえません。自分が今どういう状況にあるのかを認識し、神の和解を受け入れていくことが大事ではないでしょうか。私達は和解の恵みの中にあれば喜びがあふれてくる。しかしまず私達が知るべきことは、神様と私達の関係は元々は非常に良かったのです。しかしアダムとエバが罪を犯したその時から人間は全てが悪に傾き神様から離れていく姿を見る訳です。

「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、」(コロサイ1章21節)

 「私は神様の敵となった覚えはありません。」と言われる方もあるかもしれません。実は私達はアダムとエバ以来、神と敵対する者となっているのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章7節)

 問題のない時には「敵対心はない」と思っていますが、私達の中には神様に対して反抗する思い、敵対する思いがあるのです。皆さんは敵対する人と仲良く出来るはずありませんね。私達はそういう気持を神様に持っている。何もなければ表面には出てきませんが、何かことが起きると「何で神様こんなことをするの!」とか「神様に従いたくない」と反抗心や敵対心が出てくる。ですから神様と一致出来ない違和感があるので真っ直ぐ顔を見られないし神様の前に出られない。でもこれだけではないのです。神の怒りもまた私達の内にあるのです。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1章18節)

 「神様は優しい方だからそんなことはない。」と思うかもしれません。神様は正しく聖く愛の方ではありますが、罪をそのまま見逃すことは出来ないのです。罪ある者に対しては怒りを持って臨まざるをえないのです。  

「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2章5節)

 『御怒りを自分のために積み上げているのです。』毎日毎日やっていることです。Aさんを妬み、Cさんを裁き、Dさんを恨み、こうやって神様の前に積み上げている訳です。怒りの対象となることを毎日しているではありませんか。ですから本来は神に敵対するものであったのです。更に

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2章1〜3節)

 私達はこの世の悪しき霊に支配されていた。喜んでこの世の霊に従って歩んでいたのです。それは神の霊に敵対する生き方であった。私達は知らずにこの生き方をして神の前に怒りを受けるべき子らであったのです。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59章1〜2節)

 私達は自然に神様と良い関係が持てるとは思わないで下さい。神様は聖い方ですから私達の罪に対してそのままにする訳にはいかない。罪の上には当然神の怒りがある。ここには和解や平和は有り得ないのです。ですからきちんと和解が出来ていない人は、どことない不安があるはずです。しかし和解があるならば「いつでも神様が守って下さっている。支えて下さっている。神は悪いことをなさらない」という安心感がある。しかし和解がなされていなければ怒りの対象がある訳ですから、上手くいくはずはありません。「神様はいざとなったら自分を捨てるのではないか、酷い目に会わせるのではないか、懲らしめるのではないか」といろいろな悪い思いが出て来てしまう。でも神様はそういう私達だからこそ、そこに和解をもたらして下さったことを知って下さい。

和解の仲介者キリスト

「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」(コロサイ1章21〜22節)

 私達は敵対関係ですから、本来は受け入れられない者です。しかし御子の十字架によって和解した。神様の怒りは全部あの十字架に置かれたのです。そして私達にあっては神への敵対心もまた一刀両断して立ち切って下さった。そして神様と私達との和解された関係になったのです。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8章15〜16節)

 「アバ」とは「お父ちゃん」です。敵対関係であった私達が親しい関係に変えられたことを是非知って頂きたいと思います。

「また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(ローマ4章24節〜5章2節)

 神の和解を受けとめると私達は喜ぶことが出来るのです。「こういう者でも神様に受けとめられている」という安心感が私達の内にやってくるのです。「神様と私は平和を持っているのだ。神様と親しい関係になることが出来るのだ」このことをしっかりと覚えて頂きたいと思います。正直に言いますと、なかなかそれが出来ない部分があると思います。それは私達の心の中で神の怒りが解決されたことを十分に受け取っていないのです。私達は人に対する怒りがありますが、究極的にはその人を造った神に怒りを持っているのです。もし心配な方は神様に文句を言ってみるといいでしょう。「分かっているよ。あなたの気持ちは分かるよ。」とその怒りを受け取って下さる。イエス・キリストの故に。

「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者。主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。主は私の肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、苦味と苦難で私を取り囲んだ。ずっと前に死んだ者のように、私を暗い所に住まわせた。主は私を囲いに入れて、出られないようにし、私の青銅の足かせを重くした。私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、私の道を切り石で囲み、私の通り道をふさいだ。」(哀歌3章1〜9節)

 哀歌の著者は神様に文句を言っているのです。「何故こんなことをしたのか」と。「私の道を閉ざしたではないか。」「これをしてくれなかった。」「あれをしてくれなかった。何故か!」と神様に言っているのです。結果として  

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3章22〜24節)

 神様に文句を言っているのに、この人は憐れみを受けているのです。「神様がこんな私を慰めてくれている、励ましてくれている」と感じているのです。「今私がここにあるのは、神の恵み。神様とはただ怒るだけではなく、恐い方ではなく、本当に私を支え、慰め守って下さるお方であるのだな。神様は私と本当に和解して下さったのだ」私達はこのことを知る必要があると思います。では何故嫌なことが起こるのかと思う方は、

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12章5〜6節)

 神様は私達が本当に正しい相応しい者となるために訓練されます。でも決してお見捨てになった訳ではありません。『聖く、傷なく、非難されるところのない者に立たせようとして』導いて下さる。ですから神様はこの十字架により和解を成り立たせて下さった。あなたのどんな小さな罪や汚れや過ちも本当に赦して下さっている。これを文字通り受けとめていって欲しいと思います。でも皆さんの中に怒りや憤り反抗心がありますと「こんな私は受けとめてくれないかもしれない」という思いになってしまうかもしれません。そのためにイエス様の十字架があったのですから、素直に神の和解を受け止めていきたいと思うのです。『神の和解を受け入れなさい』この時に私達はどのように変えられるでしょうか?

「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34篇17〜18節)

 先程の哀歌の著者も神様に祈ったように、神様に大胆に近づいて叫んで神様から答えを頂く。それが出来る者にされているのです。しかし私達は自分の固定観念から抜けないために、神様の真理を受けとめることが出来ない面があると思います。神様に本当に受け入れられていることをもっともっと知っていく必要があると思います。

 1人の方のお話をして終わりにしたいと思います。その方は罪を告白し祈りました。あまりすっきりした顔をしていなので「心はすっきりとしましたか?」と私は聞きました。それでその方に「もう1度きちんと主の前に告白しましょう。」神様の前に「この罪を犯していました。赦して下さい。この罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。」という祈りを一緒にしました。そして祈り終わった後に「本当に赦されるとは思っていませんでした。」と言いました。私達は罪を告白したつもり、赦されたつもりでも本当に深いところからその罪が赦されたという確信に立てていない。神の和解がなされたという所に立てていないことが結構あると思うのです。あなたの罪が本当に赦されて、神様と和解したことを本気になって受けとめて欲しいと思います。

 そして『私が叫ぶと主は答えて下さる』のですから「アバ父よ。」と言える関係になっていって欲しいと思います。神様に自分の気持ちを正直に申し上げましょう。自分の中にある怒り、あるいは失望感。「どうせ神様は私が祈ったって答えてくれないのでしょう。」と口に出してみたらいいですよ。答えられたこともあるけれども、答えられなかったことの方が多いという人も結構いると思います。「どうせ私には答えてくれないでしょう。」と神様に向かって言って見て下さい。その時にその祈りが聞き入れられている、受け入れられている。そしてかえって、たてついている自分が慰めを受けていることを体験していくのではないかと思います。神様の和解の中に歩んでいきたいと思います。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5章6〜10節)

 神様は私達が神に敵対している時に十字架に架かって罪の身代わりになって下さった。そうであるならば、私達がどんなに弱くなっても私達を救ってくださらないはずがありましょうか? 神様は怒りから救い、和解させて下さった。この恵みに歩んでいきましょう。神の和解をしっかりと受けとめられた時に他の人との間にも和解が起こってきます。あの罪深い女が赦されたときに、イエス様に愛の行為をしたように、和解されていることを知る時に他の人との和解の器とされていくのです。この恵みに共に与らせていただきたいと思います。
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