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2004年8月1日 日曜礼拝メッセージ

「新しく生まれ変わる」



 新約聖書 ヨハネ3章1節〜15節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 1ヶ月振りにヨハネの福音書に戻りました。マタイ、マルコ、ルカの3福音書が書かれていましたが、ヨハネはもう一歩必要なことがあると書いたのがこの福音書です。ですからどうしても私達が知るべきことが描かれているのです。そういう訳で注意深く読ませて頂きたいと思います。今日はニコデモというパリサイ人であり、サンヘドリン(ユダヤ評議会)の議員の1人として活躍していた彼は、後の日にイエス様の忠実な弟子になっているのです。その中に私達が本当に知るべきことを学ばせて頂きたいと思います。

新しい生まれ変わり

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、だれも行なうことができません。」(1〜2節)

 今の日本に置きかえれば、東大卒で、衆議院で、裁判の陪審員の肩書きを持つ立派な人ですから、堂々とイエス様の所に行けばいいのに、なぜ夜に行ったのか。彼は人々から尊敬されています。サンヘドリンは70人議会とも言われ大祭司が議長を務め、その他は国中から選ばれた非常に優れた人物達です。ですから「いまさら私がキリストのもとに来た」と思われたくないというプライドがあったのかと思います。けれども同時に彼は「自分はユダヤ教のリーダーとしてトップにいるが、何か満たされない。この方ならもっと奥義を教えてくれるのではないか」と期待を持ってやって来たのかと思います。  当時パリサイ人は約6000人であったと言われています。聖書の戒めを守ろうとしているので、堅物で頑固で非常に真面目です。彼等は戒めを守ろうと一生懸命です。613の細かい規定があるそうです。それを1つも破らないようにしている。真面目に生きてきた人なのに満たされないと感じているのです。ニコデモもパリサイ人として聖書の教えを一生懸命に守っていた。けれども何か満たされない、確信がない、不安があった。そこでイエス様の所に来た訳です。彼はイエス様に対して「先生」と言っています。まだこの時にはイエス様に対する信仰はありません。「素晴らしい先生」という感じでしょう。ところが、イエス様はニコデモに対して

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)

 ニコデモはエルサレムで様々な奇蹟を見たので、この人はただ者ではない。教師としても特別な人だと思ったと思うのです。それで2節の言葉を言ったのですが、イエス様はそんなことには構わずに「あなたは新しく生まれ変わってはいないでしょう。新しく生まれ変わらなければ神様のことは分からない。」という不思議な言葉を返します。するとニコデモは

「ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(4節)

 生まれ変わるとはもう1度母親のお腹の中に入るということですか。これは一般人を代表す質問ではないかと思います。

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(5〜7節)

 私達の神様は全知全能の神様ですから、どんなことでも出来るのですが、ニコデモは生まれ変わっていないので全然見えていないのです。ニコデモは律法を知ってはいますが、本当の意味で神様を知ってはいません。だから生まれ変わることが出来るとは考えられないのです。それで母親の中にもう1度入ってなどと言う訳です。  しかしイエス様は『人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』と答えます。これにはいろいろな解釈があります。1つは水による洗礼を受けて、さらに聖霊のバプテスマの両方によって生まれ変わるという考え方。もう1つは、人間は羊水の中から生まれます。実際に水から生まれ、後に神の御霊によって生まれる。  それにしても肉で生まれた者は、霊的な新しい命を頂かなければ神の国を見ることも入ることも出来ないということです。天国に入るには新しく生まれ変わることが条件です。ここが大事です。これがヨハネが言いたかったことだと思います。

 自分を磨いて良い人間になって天国に入ろうと考えている方はいませんか。あるいは悪いこともしているけれども、良いこともしているからプラスが少し多いから天国に行けるかもしれない。こういうことでは確信を持てないのです。生まれ変わりが必要だというのです。ルターは「私の教えは何を成すか、何を成さないかについてではなく、自分が何であるか。何になるかである。これは新しい業が成されるべきだというのではなく、新しく創造されることである。今までと違った生き方よりも新しく生まれることである。」と言っています。「新しく生まれる」これが聖書で言っていることなのです。それで、イエス様は

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(8節)

 風は見えませんが音は聞こえます。台風が来るとヒューと音がします。私達は感じるのです。「木が倒れるではないか」と言う人もいるかもしれませんが、風の結果や影響を見ているだけで風を見ているのではありません。神の御霊によって生まれ変わる者も同じです。方法は分からないけれど、それを感じる。他の人がいろいろと言うかもしれませんが、あなた自身はそれを感じるのです。こういう力が働くというのです。そうするとニコデモは聞きます。

「ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(9〜12節)

 ニコデモはユダヤ教のリーダーですから本来ならば神様の真理を解き明かしする立場にある人です。ところが霊的なことに関しては分かっていない。「一番基本的なことをあなたは分からないのですか。もう一度目を開けてよく考えなさい。よく聞きなさい。」と言うのです。

 先程も言いましたが、この分からなかったニコデモは最終的には目が見えるようになっているのです。イエス様が十字架に掛かった時には、誰よりも先にイエス様を取り下ろし、墓に入れるために犠牲を払っています。誰でも目が見えるようになるのです。  そしてさらにイエス様は「生まれ変わるとはこの地上で起こることです。あなた方が実際に体験出来ることなのです。あなたは深いところを教えてもらいたいと思い来たのでしょう。でも今この地上で起こることさえ、あなたは真剣に信じていないでしょう。今のあなたの状態で神様の国でどんなことがあるかを話しても、受け入れることは出来ないでしょう。」と言いつつ、少しづつお話をして下さる訳です。

イエス様を見上げる

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(13〜15節)

 私は天から下った神の子だと言うのです。そしてその子は『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。』これは、民数記21章に書かれています。イスラエル民族がエジプトで奴隷であった時に「助けてくれ」と神様に叫んだ。神様は指導者モーセを起こし、彼によってイスラエル民族をエジプトから救い出しました。その時に喜んでエジプトから逃げ出したかと言いますと「水がない。食べ物がない。肉が食べたい。にんにくが食べたい。」といろいろな不平や呟きを言うのです。彼等が文句を言うので、"マナ"という食べ物を天から降らしたり、岩から水を噴出させたり不思議な経験を味あわせたのに、彼等はそのことを真剣に受けとらず信じない。

「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」(民数記21章5〜9節)

 ある人は顔を蛇の方に向けた。でも信じなかった人は何もしなかった。信じた人は癒され元気になり、信じなかった人は毒がまわり死んでいきました。木の上で蛇が毒を消したように、私達の罪が赦され聖められるために、イエス様も十字架に掛けられなければならないということです。そしてそれを信じた者は『人の子によって永遠のいのちを持つ。』と言うのです。  『永遠のいのち』とは今のような命が永遠に続くのではありません。『御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』とありますが、皆さんの内に絶えざる喜びと歓喜の中に生きる。地上でこの恵みを体験した人が「神様、もうこれ以上私にあなたの愛を注がないで下さい。これ以上注がれたら私の心は張り裂けてしまいます。」と言うのです。また日本に来ていたある宣教師は「この地上でこんな天国を味わうことが出来るとは思っていなかった。」と記しています。  私達はこの地上にいてこのような経験を味わうことが出来る。まして天国ではどれほどの祝福を味わうことが出来るでしょうか。私達はイエス様を見上げるならば罪が消えるのです。そしてその人の内に新しい霊が与えられる。十字架による罪の赦しがなければ霊による新しい生まれ変わりは起きません。イエス様が十字架に掛かって下さったので新しい生まれ変わりが起こるのです。今日知って頂きたいのはこのことです。もしあなたがイエス・キリストを見上げ十字架に掛かったイエスを信じるならば『信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』と、このことが起こるのです。

 しかし正直に言いまして、真剣に見上げているというよりは、チラチラと見る程度ではないでしょうか。ですからその命に生きることが出来ないです。いつでもこの十字架をしっかりと見上げて「私には確かに罪がある。」と認める。そして「イエス・キリストの十字架を見上げるならば、私の罪は赦して頂ける。」と信じるのです。すると心に平安や喜びが溢れるようになる。真剣に見上げているのか、それともいい加減に見上げているのか。 蛇に噛まれた彼等は蛇を見たら毒が消えたのです。  私達も方向を転換する必要があります。悔い改めとは方向転換です。ギリシヤ語でメタノイヤと言います。行進の際の「回れ右」と同じです。今までは自分に良かれと思うこと、自分に得になること、自分中心でした。それに対して方向転換をする。「私には罪があるけれども、十字架に掛かったイエス様は罪を赦してくれる。イエス様は力を与えて下さる。新しい命、よみがえりの命を、霊的な生まれ変わりを与えて下さる。」このことをしっかりと見上げて歩む時に私達は新しい人生が始るのです。このことを体験していくことが大切です。

 好地由太郎は親から捨てられ惨めな生活をしていました。彼は、1人の呉服屋の奥さんに救われそこで働くことになりました。ある日恩人であるこの奥さんを殺しそれを隠すために家に火をつけた。当時放火と殺人は即死刑でしたが、未成年であった彼は無期懲役刑となり独房に入れられていました。そこには同じく福音を伝えたために捕まっていた伝道者がいました。人格が立派で気品のある人でした。彼は「何故あなたはそんなにも素敵な人なのですか。」と聞くと「聖書を読んで下さい。聖書には全てが書いてありますから。」と言う言葉を聞いて聖書を読み始めたが全然分かりませんでした。彼は「この本を取って読め。この中にあなたの救いがある。」という同じ夢を3度も見ました。聖書をまた読み始めたら、少しづつ分かった。そして自分がどんなにとんでもない生き方をしてきたことが分かり、それを赦すためにイエス・キリストが来てくれたことを知り「イエス様ごめんなさい。」と祈った時に、誰からも導かれることなく聖書を読んで救いを体験した。  もっと聖書を勉強したいと牧師を呼んで彼の信仰は成長していきました。生活態度も変わり模範囚になった。ある日、病人が出て医者を呼びましたが機械が上手く動かずに膿を出すことが出来なくなった。医者は機械が動かないからもうだめだと諦めたのですが、好地由太郎はそんなことは出来ないと自分の口で膿を吸出し、その人は命拾いをした。そんな彼の歩みが認められ23年後仮出所することが出来ました。その間に100人位の人がイエス様を信じています。刑務所を出てからも牧師と一緒に「私はこんなにもひどい者でしたが、イエス様に変えられました。」と証しをして歩いた。

 私達は本当に生まれ変わる。新しい命が与えられるのです。これが聖書の言っていることです。では生まれ変わるためにどうしたらよいのでしょう。十字架にかかったイエス様を見上げるのです。イエス様を見る者は信じて永遠のいのちを持つ。見ると私達の罪も蛇の毒が消えたように赦され聖められ、変えられていくことが出来る。第一に皆さんがこのイエス様の生まれ変わりを体験していないならば、イエス様を見上げて下さい。自分には確かに罪があることを認めてください。次にその罪のためにイエス・キリストが死んで下さったことを認める。私のために救いを成し遂げて感謝して受けとって頂ければと思います。同じヨハネの福音書に

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1章12節)

 イエス・キリストを救い主として受け入れるだけで、変化が現われるのです。私達がよみがりの命に生きるには、この十字架をしっかりと見上げているか、イエス様により本当に赦されて、新しい命をもらうことが出来ることを信じるかどうかです。このお方に「全てをお捧げします。」と自らを捧げるそこに豊かな祝福を与えて下さる。私達にも同じ恵みを注いで下さっています。ヨハネもこのことを是非知って欲しいと書いたのです。心を開いてイエス様を素直に受けとめこの命を味わう者とされていきたいと思います。
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