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2004年9月12日 日曜礼拝メッセージ

「永遠の命への水」



 新約聖書 ヨハネ4章1節〜15節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 「人生は出会いで決まる」という言葉を聞いた方は多いと思いますが、私達はどういう人と会うかによりその後の人生がガラッと変わることがあると思います。今日はイエス様との出会いで人生が変えられた"サマリヤの女"と言われる女性を通して、永遠のいのちの泉が湧き出るという素晴らしい恵みの生涯に変えられて行く秘訣を学んでみたいと思います。

イエス様はあなたに会いに来られる

「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。」(1〜3節)

 前回からの流れですが、イエス様はヨルダン川のほとりで神様のことを宣べ伝え始めました。人々はイエス様のところに次々とやって来てバプテスマを受けるようになった。それまではバプテスマのヨハネの方が崇められ誉められていたのですが、今は多くの人が「イエス様」となってヨハネの弟子達は少し面白くない気持ちがありました。ところがヨハネ自身は「これでよいのです。これが神の御心です。」とへりくだった姿を学ばせて頂いたわけです。バプテスマのヨハネよりもイエス様の方が多くの人に洗礼を授けていることがパリサイ人に伝わった時、争いになることを避けるため、イエス様はガリラヤへ向います。

 宣教を始めたのはユダ地方。その上がサマリヤ地方。サマリヤの上がガリラヤです。普通ならユダからサマリヤを通ってガリラヤへ行けばいいのですが、ユダヤ人はわざわざ遠回りをしてユダとガリラヤを行き来していたのです。それはサマリヤ人と接触したくないと考えていたからです。それには理由があります。ユダヤ人もサマリヤ人も同じイスラエル民族でした。ところが紀元前772年にアッシリヤがサマリヤにいたイスラエル民族を自国に連れて行ってしまった。そしてサマリヤ地方にアッシリヤ人が入って来て雑婚が起こり、彼等は純粋なユダヤ人ではなくなってしまった。ユダ地方にいたイスラエル民族もバビロンに捕囚されたのですが、雑婚はせずに民族性を純粋に保っていた。ですのでユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑して「サマリヤ人はユダヤ民族ではなく、異邦人である。」と言っていたのです。ユダヤ人達が神殿を作ろうとした時、サマリヤ人が「一緒にやらせて下さい。」と頼むと「お前達には参加させない」と携わせなかった。それでますます仲が悪くなり、イエス様の時代には話もしなくなっていた。

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」(4節)

 2つの意味が含まれていると思います。1つは早くガリラヤに着きたかった。遠回りすると2倍の距離がかかります。でもそれだけではないと思います。もう1つ。イエス様はサマリヤでどうしても会いたい人がいた。"サマリヤの女"と言われている彼女です。どちらかと言えば罪深く神様から遠く離れていると思われている女性です。この人に会わなければならなかった。皆さんが今ここにいるのもイエス様があなたに会わなければならなかった。地球上に何人の人間がいるか分かりませんが、"私"に"あなた"に「どうしても会わなければならない。」と言って来て下さったのだと思います。サマリヤにも多くの人がいたでしょう。イエス様はこの女性に会いたかったように皆さんにも会いたかった。このことを第1に心に留めておいて頂きたいと思います。

「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――」(5〜9節)

 時間からしますと真昼12時頃です。夏の暑い時に乾燥地帯を歩いていれば誰だって疲れるでしょう。イエス様も疲れ果てているのです。この姿の中にイエス様も私達と同じだということを見て下さい。「イエス様は神様だから私の苦しみや悲しみは分からないでしょう。」そんなことはないのです。イエス様も疲れるし弱さも持っている。だから私達の疲れや悲しみも分かって下さるのです。

 さてそこにサマリヤの女がやって来ました。イエス様は彼女に「水を下さい。」と語りかけます。本当に水が欲しかったのだと思います。でもそれ以上に「水をくれ」というのと「水をあげる」では「あげる」人の方が優位です。イエス様は心の機微を知っておられる。彼女は神様から遠く離れていた。神様のことは心のどこかにしまい込んで生きていた。でも彼女の心の奥底には神を求める心があったのをイエス様は見抜いておられたのだと思います。それを静かに1つ1つピンセットで取り出すように思いを引き出して、まず彼女が上位に立つように「水をください。」とお願いしたのだと思います。

 彼女は話しかけてきたのがユダヤ人であることに大変驚きます。また普通、真昼の暑い中、水汲みに行くことはしないでしょう。普通は早朝か夕方に行きます。そんな暑い日中に水を汲みに行く気持ちが分かりますか。次回学びますが彼女は5回結婚していて、今一緒に暮しているのは夫ではなく同棲でした。人から後ろ指を指されている。だから誰にも会いたくないので真昼に水汲みに行ったのだと思います。ところがそこに人がいる訳です。 もう1つは男性が女性に話しかける。当時ユダヤ社会では男女が話をするのはいけないこと。あるパリサイ人は女性から話しかけられると逃げてしまうそうです。それは汚れると考えていたからです。ところが「ラビ(先生)」とも思えるような人が女に話しかけるとはと驚いたのです。

「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(10節)

 彼女は誰とも話したくないと思っていたでしょうから知らん振りをすることも出来たでしょう。しかしイエス様は心の小さな思いにも目が届くような接し方をするのです。暑い時に冷たい水を飲むのは本当に美味しいものです。「生ける水を与えたことでしょう。」と言われれば「これは知らなければ損をする。」と思いますね。それで女性は

「彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」(11〜12節)

 砂漠地帯で井戸があるかないかは重要です。ある地域では砂漠でも水を撒けば土地が肥沃になり沢山の作物が取れるのですが、水がないと何も出来ない。先祖ヤコブがこの井戸を作ったというのは彼等の誇りでもあったのでしょう。しかしそれよりももっとすごい井戸でもあなたは作ったのですかと彼女は聞いたのです。

いのちの水を湧き出させるには

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(13〜15節)

 彼女はいても立ってもいられず「私のその水を下さい」と言います。しかし彼女はこの世の水のことを言っています。しかしイエス様が言われたのは"霊的な水"、心の問題を語り始めたのです。この世のことにしか関心のなかった彼女に少しづつ神様の真理を語り始めたのです。次回詳しくいいますが、最終的には  

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4章28〜29節)

 彼女は誰にも会いたくなかったので真昼に水汲みに来たのです。その人が水瓶をそこに置いて、人の中に行き「皆さん、私が何をしたのか知っているでしょう。その私のしたことを全部言った人がいるんです。」と言い広める。何時も人の目から隠れていた彼女が、堂々と人々の前に行きイエス様を伝える人になっているのです。たった数時間。もしかしたら1時間位かもしれません。彼女はガラっと変わったのです。イエス様の言葉が『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』が成就し始めたと言えるかもしれません。彼女は真に神を知るようになり、本当の満たしを受け始めるようになっていくのです。

 学びたいのはこのことです。あなたの内にはこの約束の"永遠のいのちの水"が湧き出ているでしょうか。だれでもこの命を受けることが出来るのです。もし受けていないなら是非今日その命を受けて欲しいと思います。また「私は受けているかどうか分からない。」とか「ある時にはそういうのが出てくる時もあるけれど」とか「間欠泉です。」「ちょろちょろです。」とか。泉とはこんこんと湧き出ているものでしょう。もし湧き出ていないのであれば、湧き出るようにさせて頂こうではありませんか。『だれでも』と聖書は言っているのです。問題はその方法をきちんと学びそこに従うならば、泉が湧き出るようになる。

 まず第1に『「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。」』私達はこの世の方法であの手、この手で自分を満たそうとします。しかしそれで満ち足りたということがなかったでしょう。それで次に『わたしが与える水を飲む者』ポイントはこれです。イエス様が与える水を飲むこと。同じヨハネ福音書から見てみましょう。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7章37〜39節)

 第1の条件は『だれでも渇いているなら』です。正直に自分の心を見るならば「自分は渇いている。満たされてない。足りない。本当に欲しい。」と感じるのではないでしょうか。そして私達は渇いている所をそのままイエス様に持って行けば良いのです。イエス様はその人の本当の弱さや必要な所に来て下さるのです。具体的な私達の生活の只中に来て下さるのです。孤独の問題、寂しさの問題、人間関係の問題、お金の問題。私達は「言っても仕方がない」と諦めてしまうのではなく、渇いて後イエス様の元に来る。イエス様の元に行くには「イエス様」と叫ぶこと、また祈ることです。「何とか自分で解決してからイエス様に報告します」と律儀な方はするのですが、それでは苦しいばかりです。そうではなく正直に問題をイエス様に持っていくのです。イエス様は

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

 私達が持っている痛み、悲しみ、苦しさをイエス様の元に持って来ればいいのです。しかし思っていてもイエス様の所に持ってこない方がいます。道端にいた盲目の人がイエス様の通る時に叫び出します。

「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20章30〜34節)

 分かりきっているのにわざわざ「何をして欲しいのか」と聞くのです。彼等は「目が見えることです。」と言います。「イエス様なら分かってくれているでしょう。」ではなく、私達が正直に自分の必要を言うことを待っているのです。その時に『わたしがあなたがたを休ませてあげる』と言うのです。どうぞ皆さん持って来てください。持ってくるとは祈ることです。持って来ていけないものはありません。汚い事の只中にイエス様は来て下さった。イエス様の系図には多くの素晴らしい人もいましたが、問題のあった女性の名前だけが含まれています。ダビデ王の家系でしたが王族時代に生まれたのではありません。落ちぶれて平民となっていた時に生まれて来たのです。同様に私達が弱りきってどろどろになっている只中に来て下さった。自分のどうしようもない弱さの中で「イエス様」と叫ぶことが大切なのです。そういうことで、第2にはイエス様に祈ることです。

 第3には『飲みなさい』です。「信じる」とある意味同じであると言えます。「信じる」とは信頼すること。細かく言うならばイエス様が救い主であると信じる。自分のいろいろな苦しみや困難の中から救い出すことが出来る方として信じる。一番肝心なのは自分の罪の救い主として信じることであります。けれどもこの信じるが案外弱いのではないかと思います。本当に頼り信じ任せると、私達の内から命の泉が湧き出るのです。

 私達は様々な集会に出たり、様々な方法で恵みを求めます。それで神様の恵みや祝福がもらえるならば悪いことではありませんが、それはあくまでも、もらい水です。もっと素晴らしいことは、皆さんの内からその泉が湧き出るようになることです。そして湧き出るだけではなく溢れて周りに流れ出ていく。この恵みが周りに広がっていく。私達はこんこんと湧き出る泉に変えて頂こうではありませんか。これは日々主に信頼する、この方に任せていく、頼っていくことから起きるのだと心に留めて頂きたいと思います。

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」(詩篇84章5〜7節)

 私達の持っている悲しみ弱さ痛み苦しみが、泉の湧き出る所となるというのです。その問題をイエス様に持っていくかどうかです。「いくらイエス様でもこんなことは出来ないよね」と思って諦めてしまう。あなたの神様はその苦しみや悲しみの只中に来て下さり、あなたを立たせて下さるのです。私達がこの方に心を開き信頼して歩むかどうかです。泉が湧き続けるかどうかは神様の問題ではなく、私達の問題なのです。いつも信頼して歩んでいるならば泉がいつも湧き出ているでしょう。でも信頼をやめるならば泉が止まるのです。「泉が溢れて周りの方に豊かに注ぐことが出来る者」となりたいですね。喜びに溢れていのちの水を流すようになるために、この主への信頼の道をしっかり歩みたいと思います。
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