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2004年9月19日 日曜礼拝メッセージ

「まことの礼拝者」



 新約聖書 ヨハネ4章15節〜26節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今日もご一緒に礼拝出来ることを感謝します。毎週礼拝をしていますと、礼拝することが当たり前と考えてしまいますが、毎週教会に来ることは非常に不思議なことだとお気づきになっていますか。折角の日曜日この日だけはゆっくりと寝ていられる日に教会に行くのはもったいないと思っていた方もいるかもしれません。でも神様は礼拝に行くのが当然と思える心を私達に与えて下さっている。だから礼拝することが出来るのです。今日は「まことの礼拝者」とならせて頂くために何が必要かを学ばせて頂きたいと思います。

主を信じた者は生まれ変わる

「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』イエスは彼女に言われた。『』行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」(15〜21節)

 前回「サマリヤの女」と呼ばれる女性が、太陽が降り注ぐ日中に井戸に水汲みに来た。それは誰にも会いたくなかったからです。しかしそこに男の人がいた。更に男女が話す風習がないの中で、その男が話しかけてきた。なおかつ彼はユダヤ人です。当時ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけることはありませんでした。三度驚きましたが、いろいろとやりとりしている内に「あなたはわたしが誰であるのか知ったなら、あなたの方がわたしに『その水をください』と言うでしょう。そしたらわたしはあなたに生ける水を与えましょう。」とその男性は言う。彼女は自分が楽になるために「ここに来なくていいようにその水を下さい。」と願ったのです。

 そのようにして心を開いてきた彼女に言った言葉が「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」です。水と夫と何の関係がありますか。聞き間違えたのかなと思います。なおかつ「夫」という言葉に彼女は心に痛いものを感じたと思うのです。彼女は5回結婚してて、今一緒にいるのは同棲の男。その男を連れてくる訳にもいかないし、あまり関わりたくないとでも思ったのでしょう。「私には夫はありません。」と上手に逃れます。ここで話しが終わるかと思ったらイエス様は「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫は5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたの言ったことは本当です。」と答える。誰にもそのことを知られたくないから昼に水汲みにやって来ているのに何もかも見抜かれている。彼女はこう答えます。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝するべき場所はエルサレムだと言われます。」

 ユダヤ人達はエルサレムに神殿を作り礼拝していました。サマリヤ人はエルサレムには行かずゲリジム山で礼拝をしていました。ここはアブラハムがイサクを捧げようとした場所です。ユダヤ人は礼拝する場所はエルサレムだと言うが、本当はどうなのか。彼女は神様から遠い所を歩んでいるように思えましたが、深い所では神を求めていたことをイエス様は見抜いておられたのです。

「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」(21節)

 ゲリジム山とかエルサレムとかは関係なく、どこででも神を礼拝出来る時代がやってくる。さらに

「『救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」(22〜24節)

 サマリヤ人はモーセ5書と言われる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを聖書と考え、残りは受け入れていません。ユダヤ人は預言書や詩篇なども聖書として受け入れています。それでユダヤ人は正しい神の知識を伝えているが、サマリヤ人は知らないで礼拝している。でもこのように誰でも、何処でも礼拝出来る時代が来る。それは今ですと言うのです。これは「あなたは一見神から遠い所を歩んでいるように見えるかもしれないが、あなたも霊とまことをもって神を礼拝するために召されているのです。今その時が来ているのだよ。」と語られているのです。

 本当の礼拝は"霊"と"まこと"を持って礼拝する。イエス・キリストを信じる時に私達は生まれ変わる。この生まれ変わった新しい霊。聖霊が与えられないと私達は心から礼拝出来ないのです。私達は感動した時に涙が出ることがあります。それは「イエス様が私の罪を責めないで本当に赦して下さった。」と心底思って礼拝しているからです。そのことを受けとめることが出来るから、賛美の中に涙し、心から感謝しますと祈ることが出来る。これは私達が霊とまことを既に受けているからそう出来る。私達は神様により探し出されて礼拝者として今ここにいるとのです。では本当に霊とまことを持って礼拝しているかと言いますと、もしかしたら"少しだけ"かもしれませんね。

あなたの痛みを主の元に持っていく

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」(25〜26節)

 サマリヤ人はモーセ5書しか知りませんから、十分な知識がある訳ではありません。しかしその中にも書かれていることがあります。

「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」(申命記18章18節)

 モーセのような素晴らしい預言者を与えようということです。それを知っていた彼女は「あなたは預言者だと思います。」とぐっと神様に近づきました。さらにキリストが来ると聞いているし、それを信じていると言っています。神様から遠く離れていると思われていた彼女は神様を待ち望んでいた。そしてイエス様が「わたしがそれだ」と言った時に文字通りに信じ受け入れたと思います。それで

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』」(28〜29節)

 人々に会うのが嫌でこっそりと水汲みに来た彼女が人の中に出て行き「キリストが来たみたいだよ。」と語らざるをえなくなってしまった。これが本当に礼拝することが出来るようにされた者の心ということが出来ると思います。今日私達も霊とまことを持って礼拝する者とならせて頂きたい。

 そうなるために第1は、イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言いました。彼女にとってこの言葉は一番ぎくっとする言葉ではなかったでしょうか。隠しておきたかったことです。だから昼に水汲みに来ていた訳です。でもイエス様との会話の中で彼女は自分が願っていたものをもらえると思い「その水を私にも下さい」と求めました。


「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

 イエス様は無理矢理に私達の心に入って来る方ではないのです。私達が自分から心を開くのを待っているのです。必要なことは戸を叩くイエス様の声を聞いて開くことが大切でしょう。まだ受け入れていない人に「あなたは本当は心が空しいのではないですか。あなたも本当は寂しくて孤独で悲しくて。あるいは自分の醜さや汚れにおののいているのではないですか。わたしを受け入れなさい。」と叩いている。私達が心の戸を開けるならば、そこにイエス様は入って下さるのです。しかしイエス様の声を聞きながら拒んでいる方がいると思います。どこまでもイエス様は忍耐して待って下さるでしょう。でも遂には終わりの時が来ます。ですからその前に心を開いてこの方をお迎えして頂きたいと思うのです。

 次に既にお迎えした方にお話します。「私はもうお迎えしたからそれでいいのでしょう。」ではないのです。お迎えしても玄関に入れたまま。イエス様は次の扉をノックしているのです。「その部屋を開けて下さい。」と言っているのですが「いいえ、この部屋は汚いので入らないで下さい。」もう少し綺麗になってからなら入れてもいいのですが、今の状態では入れられないとなってしまう。これは違うのです。イエス様を迎え入れればその部屋の掃除の仕方も分かるしきちんとなるのです。それぞれの場所に相応しい解決の仕方を神様は持っている。綺麗になってからではなくて、汚い中に来てもらうのです。そうするとそこが変わっていくのです。

 イエス様はまず彼女の心の扉を開かせました。その次に一番開けたくなっかた"夫"というドアをノックしたのです。そしてそこから彼女の本当の苦しみ、悲しみに触れたと思います。イエス様は全部分かって下さいます。醜い汚い物を抱えた私達の只中に来て下さり、私達に救いをもたらそうとして下さる。イエス様は彼女に「夫を連れて来なさい」と言っています。これは霊とまことを持って礼拝する者となるために必要なワンステップだったのです。本当に痛い所、苦しい所、辛い所に癒しや御業が起きなければ心から神をほめたたえることが出来ません。過去の心の悲しみ、傷、罪を1つ1つ神様の前に出して癒し、赦し、解放を味わうようになる。その時に変わっていくのです。私達はキリストにある時に

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)

 こう書かれているのですが「少し位は新しくなっているかもしれないが全部ではない」というのが本音ではないかと思います。それは傷が癒されていないのです。本当の痛みが解決していないのです。だからそこに触れて頂く必要があるのです。あなたの本当の問題を私達は持っていく必要があるのです。

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62章8節)

 私達がどうしようもなくて諦めているそこに神様をお迎えするべきなのです。「主よ来て下さい。私は本当に悲しい、寂しい、惨め、辛いです。こんな私を憐れんで下さい。」と大胆に求めて欲しいと思います。神様は避け所。私達を癒し慰めて下さるお方、立たせて下さるお方なのです。

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」(詩篇84編5〜7節)

 全ての解決、全ての癒し、全ての慰め、励ましが主にあると知る者は幸いです。そしてこの主に叫ぶことが出来る者は幸いだと言っているのです。

 学生時代の私は心の中の正直なことを何でも話せる友人を求めていました。でも一人もいませんでした。それは絶対に本心を見せなかったからです。本心を見せたなら必ず嫌われると思っていました。こんなことをしていれば本当の友達など出来るはずがありません。私達もこういったことを神様にもしていないでしょうか。問題がないのではなく、蓋をしてカバーをしている。そうすると心から神様をほめたたえることが出来なくなってしまいます。問題を抱えていると礼拝になるのです。何も問題がない時は「またこの話ね、知っている。」と真剣に聞かない。ところが問題を抱えている時には「主よ、語って下さい。」という気持ちで聞きますから同じメッセージでも心に響くのです。私達が痛み苦しみを主に持っていくかどうかが本当に礼拝出来るかどうかの境目なのです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなた裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3章17〜19節)

 私達は蓋を開けようとしないと何も問題がないと思ってしまうのです。自分を見る時に「色いろいろな蓋がしてあった。」と気がつくでしょう。そして蓋をしているだけでは本当の解決にはなりません。蓋を開けたなら臭いものが出て来るのです。私達は神様に「主よ、ここを癒して欲しいのです。聖めて欲しいのです。救って欲しいのです。」と出していくことが必要なのです。そのように自分を見始めるならば「主よ、私は惨めな者です。あれも出来ない、これも出来ない。惨めなんです。」こういう心を持って主の前に出て来ることが出来る。これが霊とまことを持って礼拝する備えです。自分の汚さや醜さを正直に神様の前に持っていきましょう。その時にあなたの内には本当に溢れる命が与えられる。来た時にはカラカラの砂漠地帯が、そこに水が溢れ花が咲く所に変わると言っているのです。私達はまことの礼拝者となるためにイエス様を信じ、蓋をしていた部分を正直に開けて持っていく。神様はそこに一致と解放を与えて下さるのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章1〜2節)

 『一新』リフレッシュされる。神様によって新しくしてもらうのです。自分で変えるのではありません。そのために私達は一切をお任せする。すると人目から隠れていた彼女が、人前に出て「キリストが来ましたよ」と伝える人になったのです。私達も「あなたの夫を連れて来なさい。」このことを覚えましょう。自分の弱さ、醜さ、悲しみ、痛みをイエス様に持っていきましょう。そこに癒しを成して下さいと祈りましょう。私達の心を変えて下さいと祈りましょう。主の備えて下さった豊かな道に霊とまことを持って礼拝する者に日々変えられていきたいと思います。
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