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2004年10月10日 日曜礼拝メッセージ

「よくなりたいか」



 新約聖書 ヨハネ5章1節〜9節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 昨日は台風が来ると覚悟したのではないかと思います。礼拝の時間は皆さんが来られないかと心配したのですが、守られて本当に良かったと思います。人生の中には突然の暴風に見舞われる状況、またそういう様々な苦しみの中でどうやっていけばよいのか。苦しみが長引きますと辛くて期待することも出来なくなってくるかと思います。今日は38年もの長い時間苦しみの中に置かれた人を通して、イエス様はどういうふうに触れて下さっているのかをご一緒に見させて頂きたいと思います。

本当は良くなりたいのです

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(1〜6節)

 エルサレムの町には敵が侵入して攻撃されないように城壁が作られていました。そこにいくつかの門がありました。その羊の門の近くにベテスダと呼ばれる池があった。横100m縦70mで2つに分けられ対のようになっていた。池の周りには5つの回廊が作られており、そこには大勢の病人、盲人、足なえがいた。この池には間欠泉があったようです。間欠泉が吹き上げる時の様子を「天使が来て水を掻き回す」と人々は考えた。その時に最初に池に入った人は誰でもどんな病気でも癒されるという言い伝えがあったのです。ですから自分が最初に入るのだと池の周りにいろいろな人がいた。

 その中に38年もの間病気の人がいた。イエス様はこの人に目を留められた。『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。』どのように知ったのか分かりません。聖霊によって特別に教えられていたのか、またその風貌を見て分かったのか分かりませんが、彼の病が長いことはイエス様は知っておられた。その上で言われた言葉が『「よくなりたいか。」』皆さんならこの言葉をどのように受け取りますか。複雑な気持ちがそこにはあったのではないかと思います。この問いに彼は

「病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)

 「よくなりたいか。」の答えは「はい」「いいえ」「どちらでも」この3つ位しかないでしょうね。でもこの人が言ったのは『「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。』要するに愚痴です。でもその心の中にあるのは「私だっていやされたい。でも実際にはだめなのだ。誰も私のことを池に入れてくれない。水が掻き回された時は他の人が池に入ってしまっている。だから私はいやされたことがない。こんなことを38年もしている。」それでも38年間期待しているというのがすごいですね。私達ならとうの昔に諦めていると思いませんか。しかし本音は「どうせだめに決まっているけれど」という気持ちになっていたのではないかと思います。ところがイエス様は真正面から「よくなりたいか。」と心の奥底にあった「本当は良くなりたい」という気持ちを引き出させようとしたのではないかと思います。

 38年も同じ病に患っていたならば、いやされようとしても無理という思いの方がはるかに強い。期待する方が野暮だと思ってしまう。実は私達の心の中にも同じ思いがあるのではないかと思うのです。「いくら神様でも無理だ。出来っこない。」マイナスの教えや考えが擦り込まれていると思いませんか。「期待して後で傷つきたくないから」とかいろいろなことを理由にして神様に求めることを止めてしまっている事柄が沢山あるのではないでしょうか。聖書の言葉は「求めよ。さらば与えられん」有名な言葉です。でもヤコブ書には『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。ヤコブ4章2節』と書いてあります。確かに私達が悪い動機で求める時に応えられないことはあり得ます。例えば「あの人はひどい人だから苦しい目に会いますように。」とか「あの人をいじめて下さい。」というのはだめでしょうね。でも本当に良い動機で願うならば与えられないのはあなた方が求めないからだ。期待しないからだというのです。

「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)

 期待しても応えられないと心が病んでしまう。神様に向わなくなってしまうのです。それに対して彼は38年です。ここにいた病人の中でもとりわけ長く困難だったのではないかと思います。この人に期待させ神様は御業を成させた。間欠泉で水が動くのをずっと見ている。そんな頼りにならないものを待ってじっとそこに座っているのではなくて、本当に頼りに出来る方を頼らせることをさせたかったのではないかと思います。その時に彼は真正面から「はい」とは言えませんでした。愚痴る形ではありましたが本当はいやされたいと言っていたのではないかと思います。それに対してのイエス様の言葉は

「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)

神様の言葉を受け取り従う

 「いつまでぐずぐずと呟いているのだ。」と言うのではなく「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と御言葉がくるのです。「あなたの内にはいろいろな不平不満や呟きもあるでしょうが、でも起きて床を取り上げて歩け。」と言うのです。その言葉の勢いに押されたのか分かりませんが、彼はその言葉に応答した。もし彼がその言葉に全く応答せずに「そんなことを言ってもだめだよ。」という気持ちだったならば、多分まだそこに横たわったままでしょう。いやされたいとの思いから出来ることならば、その言葉に従っていきたいという気持ちがあったのでしょう。彼は立ち上がり床を取り上げて歩き始めたのです。3番目の奇蹟です。

 38年間苦しんできた彼に語られたように、同じように苦しむ私達にも語りかけて下さっています。神様は私達がどんなふうに悩んでいるか、苦しんでいるか、悲しんでいるか、痛んでいるか、傷ついているかを全てご存知です。そしてその上で「良くなりたいか。」と語っているのです。この回廊に集まっている人達を見ると私は教会の縮図という感じがします。病気でそこから救われたいと思って来ていた人達です。私達も心で言うならば皆な病人ではないでしょうか。病気の時には「これをしなければならない。」と思っていても出来ない。人に「こうすればいい。」と言われて分かっていても出来ません。私達もまた心の病人とでも言いましょうか。あるいは私達は見えないのではないでしょうか。「私の人生は良いことなど1つもなかった。」といいますが、本当に1つもなかったのならば今ここにはいないと思うのです。誰かが食べさせてくれて、生かしてくれて今ある訳でしょう。良いことがあってもそれが見えていない。まして神が愛であると聖書が言っていてもそのことも全然見えない。心の盲人、霊的盲人になってはいないでしょうか。
 あるいはどうやって自分の人生を歩んでいっていいのか分からないのです。自分の生き様が分からない。何をやっても空しい。あるいは痩せ衰えて何も出来ない。寝ているだけしか出来ない。正直心がそういう状態になることはあるのではないでしょうか。どんなに元気な人でも落ち込んだ時にはそんな元気がなくなってしまうのではないでしょうか。そういう私達にイエス様は「よくなりたいか」と呼びかけるのです。私達の中には「もうだめだ。出来っこない。無理だ。」という思いが何重にも心の中に擦りこまれている。「だめだ。」と思っていると神様が聖書の言葉を言っていても心の中に御言葉が入らないのです。聖書の御言葉は

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 ところが「あの人は変わっても私は無理」とマイナスのイメージが擦りこまれていますから御言葉が消えていってしまうのです。私達の中に擦りこまれた考えを消し去って頂く必要がありますね。それにはどうすれば良いのでしょうか。聖書には  

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

 神様は御霊によって私達を変えることが出来るのです。使用前、使用後ではありませんが、私はそういう方を何人も見てきました。それはその人だから変われたのではないのです。その人の内に御言葉が実現したからなのです。「立って床を取って歩きなさい。」と言われたら歩きだしたと同じことが、その人の内に起きた。その人が御言葉を受け取っただけのことなのです。私達に必要なのはそのように御言葉を受けとっていくことではないでしょうか。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11章6節)

 もし私達が本当に信仰を持って近づくなら、神様がそのことをなさることが出来る。

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」(エペソ1章18節)

 私達に必要なのは、この信仰"神様に期待する心"です。「だめに決まっている。」という考え方を一掃してもらうことが必要なのです。私達の心を自分で取ろうとしても取れません。「神様、この心を取って下さい。不信仰を私から消し去って下さい。そして本当にあなたを信頼する者にして下さい。そしてあながた報いて下さる方であることを信じるようにして下さい。」と神様に近づく。神様は人間の道を超えた不思議な方法を持っておられるのです。

 らい病になった方がおりました。らい病だけでも悲しかったのですが、手術をして一旦見えるようになった目がまた見えなくなったしまった。神様にそのことをいろいろと訴えかけました。そして祈っている時に一つの言葉「いつも喜んでいなさい。」と、この言葉が来た時に、彼女は受け取った。するとその言葉が段々と広がって力を持ち始めたのです。そうしたら今まで苦しくて辛くて仕方のなかった自分の心が、嬉しくて仕方がなくなり自分の部屋を歩きまわっていた。そういう方法によって神様は彼女を祝福されたのです。彼女はらい病になったこと、その後に起こったことも感謝していると言います。神様は神様のやり方を持っていらっしゃる。私達はその神様の言葉を素直に受けとめて従うことです。

「神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。」(ヘブル4章7節)

 神の言葉を受け取り従い始めると、私達の内には神の力が働き始めて、神の勝利が私達を支配するようになっていくのです。今まで悲しくて仕方のなかった人が喜びでいっぱいになった。「神様の御業は必ず成る。神様の言われた命令は起こる。」という信仰を持っていきたいものです。神に求めるなら神は報いて下さる。神様はその時にその業を確かに私達の内にも成して下さるのではないかと思います。  

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)

 「今までの常識では出来ない。今まではだめであった。」それは事実でしょう。でも神には出来るという信仰を持つことをお勧めしたいと思います。以前もお話しましたウイルマー・ルドルフさんは生まれながら小児麻痺で歩くことも出来ませんでした。10歳くらいまで歩けませんでしたが訓練をしていた。このピリピの御言葉を受けとり、練習を重ねた時に歩くだけではなく走れるようになった。お姉さんがバスケットをしていたのですが、父親がそのチームにウイルマーさんも一緒に入れるようにお願いしてバスケットをするようになった。ある日彼女の姿を見た陸上の専門家が素晴らしい走り手になることを見抜き、彼女はオリンピックで世界記録を作り優勝したのです。

 私達はもっと神様に期待して信じて神様の御言葉に従っていく生き方。神の御言葉が私達にきたならばそれを素直に受け取りましょう。神様の約束は聖書には、いくらでもあります。その御言葉を自分への約束の言葉と受けとめて御言葉によって求めていきたいと思います。そして神様の業をもっと味わっていくお互いにされていきたいと思います。



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