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2004年11月7日 日曜礼拝メッセージ

「祝福への道」



 新約聖書 マルコ10章46節〜52節 より
メッセンジャー
 森・ラリー師

 誰でも神様の助けや祝福を頂くことが出来るように願っていると思います。特に私たちクリスチャンの場合は祈りによって神様にいつでも願うことが出来ます。それは何という恵みでしょう。けれども私達は本当にいつでも神様の助けと祝福をいただけているでしょうか。実はそうではないことの方が多いですね。例えば、あるクリスチャンは「神様、私を助けてください。祝福してください。特に忍耐を下さい。今、すぐに忍耐を下さい。」とこのような態度で祈るなら、神様は私達を助けてくれないでしょう。では私達はどのようにして神様の助けや祝福を頂くことが出来るのでしょうか。今日マルコ10章に書いてある盲人の態度からそれを学びたいと思います。彼が神様の助け、祝福を頂くために三つの大切な段階がありました。それが何かを一緒に見てみましょう。

神様の助けを心から願う

「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。」(46〜47節)

 この男の名前はバルテマイです。彼は目が見えないためにエリコ町で乞食をしていました。彼は社会にとって役に立たない人間と考えらていたので、人々に白い目で見られていたと思います。それだけではなくて、当時の人々は、バルテマイの目が見えないのは彼の両親が罪を犯したせいだと考えていました。彼は物乞いをするために毎日エリコの町で人がよく通る道端に座っていた。この日彼は群衆からイエス様がエリコの町に来ていることを聞きました。そして、彼はイエス様に「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫びました。バルテマイがイエス様にそんなに大きな声で叫んだのは一時の感情にかられてのことでしょうか。そうではないと思います。なぜなら、彼はイエス様に「ダビデの子」と呼びかけたからです。彼はイエス様がどなたであるかを知っていた。イエス様がユダヤ人の王であるダビデの子孫であることを知っています。又彼は神様がダビデの子孫からメシヤを与えて下さることを信じていた。ですから彼はイエス様に「私をあわれんでください。」と頼みました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7章7節)

 この「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」に注意してください。もし神様の祝福を頂きたいなら、私達は神様に心から頼むことが大切です。バルテマイは神様を求める心を持っていたので、イエス様が通り過ぎようとしている時に「私をあわれんでください」と大声で話しかけることが出来たわけです。私達が神様を求めるなら、神様は必ず助ける機会を与えて下さいます。私達はバルテマイのように神様が助けてくださる機会を見出すべきです。

 次に神様の祝福を頂くための第2番目の段階は反対の声に抵抗することです。この段階では霊的な戦いに会います。そのため、この段階が一番辛いかもしれません。ですから多くの人々はこの段階であきらめってしまい、神様から祝福を頂くことが出来ないことが多いのです。

周りからの抵抗に屈しない

「そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」(48〜50節)

 バルテマイがイエス様に呼びかけた時、周りの人々はバルテマイに「黙りなさい」と言いました。多分イエス様は彼を助ける時間がない、イエス様はこんな人を気にかけないだろうと思っていたかもしれません。彼は人に侮辱されるのは初めてのことではなかったと思います。それで彼は皆に言われた通りに黙ったでしょうか。彼は絶対に助けてもらうためにイエス様にますます大声で叫び立てました。彼は人々が言ったことを気にせず、ただイエス様が助けて下さるまで呼びかけ続けました。彼は貧乏な乞食でしたが、彼は神様に対する揺るがない信仰と勇気を持っていたのです。

 旧約聖書の中にも揺るがない信仰を持っている人物のことが書いてあります。その人物とはネヘミヤです。ネヘミヤは神様のためにエルサレムの崩れた城壁を立て直す時に抵抗にあいました。ネヘミヤに反対していた人達はその仕事を止めさせるために、何度もネヘミヤとイスラエル人を脅し邪魔をしました。けれどもネヘミヤは抵抗にあってもあきらめませんでした。彼は神様の助けと守りが与えられるように祈り続けました。その結果、ネヘミヤとイスラエル人は神様のためにエルサレムの崩れた城壁を立て直す仕事を完成させることができました。どんな時代でも神様のために仕えるなら抵抗にあうと聖書は教えています。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ3章12節)

 けれども迫害を恐れる必要はありません。歴史を見てみると迫害がある時のクリスチャンの信仰はもっと強くなります。

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」(使徒8章1節)

 この迫害の結果としてクリスチャン達が成長し、他の地域に伝道しました。今日も中国の教会は迫害を受けていますが、信仰は強くなり、彼らは熱心に伝道をしています。

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6章9節)

 何と励まされる約束の御言葉でしょう。もし私達があきらめないなら神様からの祝福を頂くことが出来るのです。私の妻は仏教の影響が強い家庭で育ちました。20年前父親に「家ではイエス様のことを話してはいけない」と言われました。それはとても厳しい状態でした。けれども妻はあきらめないで、父の救いのために祈り続けました。彼女は20年間電話や会う時には、いつも一言だけ「お父さん、どんな大変な時でもイエス様に助けて下さいと祈ったら、イエス様が絶対助けてくれますよ」と言いました。そして神様の恵みで、今年の夏に父はイエス様を信じる決心をしました。父がイエス様を信じるまでに、彼女は20年以上の忍耐と勇気が必要でした。でも本当に神様の御言葉の約束に失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることになります。

 私達は今バルテマイのように厳しい霊的な戦いに直面しているかもしれません。又周りの人々の反対する声を聞いているかもしれません。けれどもその戦いの中で神様からの使命や希望を失わないで、どんな試練に会っても失望せずにいれば、時期が来て祝福を頂くことが出来ます。神様の祝福を頂くための第1段階は「神様に心からお願いすること」第2段階は「反対する声に抵抗すること」です。そして最後は信仰によって「神様の祝福を受けること」です。

信仰によって祝福を受ける

「すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」(49〜52節)

 何故イエス様はバルテマイをいやしたのでしょうか。それは「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われている通り、バルテマイはイエス様が自分の目をいやすことが出来ると信じたからです。バルテマイはどうしてそんなに強い信仰を持つことが出来たのでしょうか。彼の信仰には二つの特徴があります。

 それは彼が強い忍耐を持っていたことです。バルテマイは長い間、目が見えず物乞いをして暮らしてきました。けれども、彼は自分の境遇に対してあきらめませんでした。神様に対する希望も失いませんでした。バルテマイは以前、イエス様のことを聞いたことがあったと思います。それで、イエス様に会うことをずっと待ち望んでいたのだと思います。しかし、彼はイエス様の所に行くことが出来なかった。ただイエス様が自分の所に来てくださる日を待つしかありませんでした。彼はどの位イエス様が来るのを待っていたのでしょうか。ここには書いてありませんが、とても長かったと思います。長い間苦しい生活を送っていたけれどもバルテマイは神様に対する信仰を失いませんでした。そしてやっとイエス様が彼の所に来られました。ですから彼は大胆にイエス様に大声で助けを叫び求めたのです。  

「まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。」(詩篇25篇3節a)

有名な中国への宣教師ハドソン・テーラーは、中国への宣教師になりたい者が持たなければならない3つの特性は1番目に忍耐、2番目も忍耐、3番目も忍耐であると言いました。忍耐は宣教師にとって重要です。もし忍耐がなければ、実を結ぶことが見えない時、すぐにあきらめてしまうかもしれません。

 私達の信仰生活は農夫の働きと似ていると思います。農夫は種を蒔いてもすぐに収穫出来ないことをよく知っています。何日も大地から何も出て来なくても、その芽がいつか出てくると信じています。そして作物を収穫するまで、毎日水をやり、草を取り、薬剤散布をするなど苦労します。農夫は作物が必ず実を結ぶことを期待しているので、続けて世話をします。 農夫が作物の収穫を待つように、私達も希望を持って待ち望むことが大切です。

 次にバルテマイが強い信仰を持った要因の1つに、目が見えないことがあると思います。目が見えないととても不便です。しかし信仰面で言えば、私達も目が見えていないかもしれません。信仰を持っていない人は「目で見ないと信じない」とよく言います。信仰を持っている人でさえも、知らないうちにその考えを持ってしまいます。12弟子のトマスもそうでした。トマスはイエス様が復活したことを信せず「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20章25節)と言いました。これは「自分の目で見ないと信じません。」ということです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。。」(ヘブル11章1節)

 バルテマイは目が見えないので、イエス様を知るためには聞くしか方法がなかったのです。恐らくイエス様が行った奇跡を聞いたことはあったけれども、見ることは出来なかった。バルテマイは肉眼で見ることが出来なかったけれども、霊的な目で見ることが出来たのです。そのため、彼はイエス様が行ったわざを見ていなくても、イエス様が自分をいやすことが出来ると信じました。ですからイエス様は彼に「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。是非私達もバルテマイのようにいつでも神様の助けを心から願って、反対の声に抵抗して、そして信仰によって神様の祝福を受け取りましょう。
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