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2005年1月2日 日曜礼拝メッセージ

「五千人の給食」



 新約聖書 ヨハネ6章1節〜15節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

神が私達を造り変えてくださる

「明けましておめでとうございます」

 久し振りにヨハネの福音書に戻ってまいりました。今日の箇所は私が初めて聖書に触れた箇所です。聖書は「世界のベストセラー」として有名ですから、常識として知っておいた方がいいかかなと思い、高校時代に聖書を買いました。私はちょっとひねくれている者ですから、前から読まずにパッと開けた箇所が5つのパンと2匹の魚で5千人が満腹したという話でした。次に一番最初のページを開くと『初めに、神が天と地を創造された。』と書かれている。買ったばかりの聖書はそれきり閉じられて、何年間も読まれることはありませんでした。その後、宣教師を通して聖書を聞く機会が与えられて、聖書の言っている意味が段々と響いてくるようになった訳です。  今日はご一緒に、ここで語っている意味はどういうことであるのかを聞く耳と聞く心を持たせて頂きたいと思います。

神にはできるという信仰

 前回は、ベテスダの池で38年間も寝たきりの病人がいました。彼がイエス様の「立って床をとって歩きなさい」と言われた言葉によって歩き出したという驚くべき神様の奇蹟を人々が見た。「何と素晴らしいことを神はなさるのか。」とほめたたえるのかと思えば、人々は「今日は安息日なのに、何をするのか」とイエス様を非難した。字面は読んでいても、正しくその意味を理解出来ない彼らに対してイエス様は5章19節からその真意を語っていったのです。

「しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ5章47節)

 彼らは「私達はモーセを信じている。モーセの語る言葉を信じている。」と言って自分達を誇っていたのです。このことが起こって後のことが本日の箇所です。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。」(1〜2節)

 「テべリヤ湖」とはガリラヤ湖のことです。紀元22年にローマ皇帝ティベリヤスに因んでガリラヤ湖付近に町が作られた。その町に因んでテベリヤ湖とも呼んでいたようです。 イエス様は向岸に弟子を連れて渡っていこうとしていた。そこに大勢の人がつきしたがっていった。正確な数字ではないのですが、男性だけで5千人と書かれています。女性子供も含めると大体2万人位と予測されています。ついてきた理由が『それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たから』であると書かれています。寝たきりの人が歩き出した。そういうことを見たなら「わっ」となるでしょう。ですからイエス様がいるならと我も我もとついて来たのです。イエス様から引き離されたくないという思いでついていった。その時イエス様は

「イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」(3〜6節)

 山の上にいますから、下からどんどん人が来るのが見えます。2万人といえば大変な数です。イエス様はピリポに個人的に「どこからパンを買ってきて、この人達に食べさせようか。」と言います。こういう時には"ピリポ"にと理解するのは良いのですが、御言葉を自分に当てはめるにはその部分を自分に置きかえるといいですね。皆さんがイエス様に「どこからパンを買ってきて、この人達に食べさせようか」と言われたら何と答えますか。ピリポは

「ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」(7節)

 当時1デナリは労働者1日の賃金です。分かりやすく1デナリを1万円としましょう。200デナリは200万円。2万人とすると1人100円です。2万人の食料にいくら掛かるかと言われたら頭がパニックになりませんか。でもピリポは200デナリでは足りないと言えるほど正確な計算の出来る人物だったかもしれません。でもここに注意が一つ入っています。『もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。』この出来事の背後にはピリポを試すということが含まれていた。ピリポの中に直さなければならない問題があったのではないかと思います。

「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」(ヨハネ12章20〜22節)

 ギリシャ人がピリポのところに来てイエス様にお目にかかりたいと言ってきた。皆さんなら「どうぞついて来て下さい」とその人をイエス様のところに連れて行くのではないですか。でも彼はアンデレに聞いている。直接自分で連れて行くのに少し躊躇する。イエス様に少し素直ではない何かがあったのかもしれませんね。もう1箇所見てみたいのですが、

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14章6〜9節)

 イエス様はご自身の言葉や歩みによって本当に自分が父から遣わされてのであることを教えてきました。ですから「わたしを見たのなら、父を見たのだ。」と言ってもピリポは「まだ見てません。もっとちゃんと見せてください。そうでなければ分かりません。」と言うのです。彼はイエス様を見てはいたのですが、イエス様が父によって遣わされたこと、イエス様が父の姿そのものであるということが素直に受けとめることが出来なかった。そういう信仰であったのではないかと思います。

 そのピリポにイエス様は個人的に語りかけたのです。これからなさろうとしている奇蹟で彼らを食べさせることを知っていましたけれども、そのことがもう1歩深く心に残るようにと質問をしたのではないかと思います。私達の中にもこの"ピリポの姿"があると思いませんか。「そんなことを言ったって。こんな2万人の人達に食べさせるのなんて出来っこない。」という言葉が先にたってしまい、そこを越える方を見ることが出来ない。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」。」(ヨハネ19章23〜26節)

 これは立派な富める青年がイエス様に「永遠の命を得るためにはどうしたらいいのか」と聞きに来た時に「持ち物を全部売り払い、それでわたしについて来なさい」と答えた。彼は「そんなことは出来ない」と悲しみながら帰って行った。その後に語られた言葉です。私達はお金とか、何か違う物を頼りにしてしまうと、神様だけに頼るということが出来ない。ですから金持ちが天国にはいるのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい、要するに不可能であると言っているわけです。しかし同時に人には出来ないが神様にはどんなことでも出来る、すなわち神様によってどんな人でも天国に入ることが出来るようにすることが出来るということです。

 私達は「出来ない。無理だ。」というところに留まってしまい、神にはどんなことでも出来るというところに立てなくなってしまっているのではないでしょうか。それに対してイエス様がピリポに個人的に語られたように、私達にも、もう1歩「神を見上げなさい」とおっしゃっていることを覚えたいのです。私達は人には出来ないが神には出来るという信仰を是非とも持たせて頂きたい。困難や苦しみばかりを見てしまう時に、それを乗り越える神様を見ることが出来ない。自分が落ち込んだり暗くなったりしている時のことを思い出して下さい。その時は全然神様を見上げていないと思いませんか。困難や苦しみや嫌な状況ばかりしか見えなくて、神様がいることすら忘れている。困難や苦しみを覆すことが出来る、よみがえった主を見上げることが出来たならと思います。

小さな思いが大きな結果を生み出した

 ここにもう1人の人物が出てきます。あのペテロをイエス様の元に導いたアンデレです。

「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(8〜9節)

 恥ずかしそうに2匹の魚と5つのパンを「こんなもの持って来ても何にもなりませんよね。」と思いながら持って来た。けれどもその心の中に、ある心が潜んでいることに気が付きませんか。本当にどうにもならないと思っているならば持ってくるはずがないでしょう。「もしかしたらイエス様だったら何とかしてくれるかもしれない。何かが起こるかもしれない」という位の淡い気持ちをアンデレは持っていた。「これだけではこんなに大勢の人にとって何になりましょう」と不信仰ではあるのだけれども、ピリポとは少しは違います。アンデレはイエス様の元に持ってくる信仰は持っていたと思います。すると、

「イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(10〜15節)

 「どうにもならないですよね。」と言いながら持って来た2匹の魚と5つのパン。それをイエス様は感謝し祝福されたのです。どのようにしてこの食物が人々の手に渡ったのか聖書には書かれていません。どのように想像して下さってもいいです。事実は天国に行けば分かることですから。裂いても裂いてもパンはどこまでも増え続けていった。全部合わせれば2万人の人が満腹し、そして余った。余りを集めて12の籠がいっぱいになった。ちょうど満たされただけではなくて余るほどに与えられたのです。この出来事は4福音書全部に記されています。それくらいこのことは重大な意味を持っているということです。14節に『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。』とありますが、モーセのような預言者が遣わされるということが申命記に記されています。それがキリストを指し示していた。この方こそキリストであるということを示す有力な手がかりが、この5千人の給食にあった。そういうわけで皆が「キリストが来た。王が来た。」と思い、自分達の王になってもらおうとイエス様を連れていこうとしましたが、ご自分の意図とは違うのでイエス様は1人山の方に退かれたのです。今日私達はこの中から3つのことを学びたいと思います。

私達の態度は

 1つめはピリポの姿を通して教えられていきたいと思います。私達の信仰もこの"ピリポの信仰"と似てはいないかということです。イエス様の言っていることを素直に受け取れない。父を見たのですと言われても、まだ見てないとか、イエス様のところに連れて行って下さいと言っても自分から行けない。直接の関係というよりも何か入り組んだ関係。ちょっと屈折したところがある。そのピリポに目の前で『神にはどんなことでも出来る。』この業を行なったと言えるかもしれません。神様は第1に、私達もこの『神にはどんなことでも出来る』信仰になりなさいと願っている。人には出来ないが神にはどんなことでも出来る。私達が困難や苦しみに出会う時にそのただ中にイエス様をお迎えする。そこで業を行って下さるお方をもっと素直な気持ちで受けとめたいものです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10章13節)

 ある人はこの言葉を素直に受け取るでしょう。まだ解決していないのに「良かった。感謝」と、心は平安に満たされる。素直に受け取ることにより、それが私達の力となっていく。でもそれを疑っている時には力にならない訳です。

 アジアの島でミッションスクールを開いていたご夫妻がいました。神様を伝えながら学校教育もしていました。毎年クリスマスには一緒に食事をしていた。ある年に子供達が「先生、今年は家族皆でクリスマスパーティーをしませんか」と言い出した。でもそこは孤島で2ヶ月に1回しか舟が来ない。その時に食料を仕入れなければならないので、それは無理だと言うと、子供達が「でも先生、この間5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人が食べた話を聞きました。だからきっと神様は備えてくれます。」と言うのだそうです。

 先生達は聖書の言葉を使われて説得されたら仕方がないですね。それでも応えられなかった時にどうやって慰めようかと一生懸命に考えていたそうです。ところが子供達は信じきって「神様感謝します」とその日を待っていた。3日前になった時に浜に9メートルもある鯨が打ち上げられた。それでその鯨で皆が食事をして、残った肉をお土産にまで持って帰ることが出来て、家族でクリスマスを祝うことが出来た。そのクリスチャンのご夫妻はあまり信じていなかった訳ですよね。でも子供達が素直に信じて「ほらね。」と言ったそうです。神様はこんな風にして応えて下さる。私達も素直に神の言葉を受けとめていきたい。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

 御言葉を本気になって信頼していく時に、神様はそこで驚くことを成して下さる。私達はもっと素直な単純な信仰を持たせていただきたいと思います。

 次にアンデレの姿から学ばせて頂きたいと思います。私達は「だめだ」と思って何もしないことが多いのではないかと思います。でも5つのパンと2匹の魚をアンデレはイエス様のところに持ってくる信仰はあったのです。私達で言えば"祈る"ということでしょうか。祈ることなら出来るかもしれませんね。そのように私達はイエス様のところに持ってくる者でありたいと思うのです。あの問題やこの問題1つ1つを持っていきたい。その時にどうにもならない5つのパンと2匹の魚が源になり用いられた。それにより本当に2万人からの人々がみな満腹するという驚くべきことが起きたわけです。皆さん自身は小さな存在だと思っていませんか。自分なんかどうでもいい存在。でももし皆さん自身をお捧げするのならば、何が起こるでしょう。素晴らしいことがそこに起こるかもしれません。

 あるご婦人が「神様に生涯を捧げます。アフリカであろうと南アメリカであろうとどこでも行きます。」と祈った。その時に「地の果てまで」と示された。では「地の果て」とはどこでしょう。海があっても、山があっても、ここからどこまでもどこまでも地の果てにまで歩き続けたらここに戻るのです。「そうか私の地の果てはここなのだ」と教えられて、パン屋をしていましたが、そこで熱心に仕えた。そうした時にそのパン屋から次々に救われる人達が起こされてきた。さらには献身して神学校に行く人も起きてきた。ご主人に「ここは神学校の予備校ではないぞ。」と言われたそうです。彼女は神様から里子を育てるという使命も与えられた。20数名。それも非常に問題のある子供達ばかりです。その良き証しはいろいろなところに伝わっています。

 小さい私達をお捧げする時に神様自身が私達を通して大いなることをなさって下さる。必要なことは「5つのパンと2匹の魚ですけれども」とお捧げすることです。イエス様はそれを生かし用いて下さることを是非知って頂きたいと思います。ここに余ったパンきれを12の籠に捨てないように集めるように言われています。これは貧しい者や弱い者の物になるのです。落ち穂拾いという絵画ありますが、その落ちたものは拾ってはならない。後から貧しい人達が拾うから。ぶどうも7年目には収穫をしてはならない。それもその方々が自由に取るから。同様に宴会の残り物を貧しい人達に分けてあげる。どういうことかといいますと、ここにいた彼らは満ち足りた。ここに『さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。』とあります。このこと全体がイエス様が"過越のいけにえ"イエス様自身が命のパンとなって下さることを指し示していたように思います。

「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6章50〜51節)

 イエス様を信じる時にその人の内に命が本当に溢れてくる。その命は有り余るほどになると語っている。そしてその恵みは今や全世界に広がっているのです。そのようにこのことまでもこの5千人の給食の中に、大勢の数えられない人が満ちていくことを指し示していたと思います。

 私達はピリポのようなマイナス思考の考え方に陥っていないでしょうか。もっと素直に神様に信頼する歩みにさせて下さいと祈っていく必要があるのではないでしょうか。また「祈っても仕方がない。」と諦めてしまうことも多いのではないでしょうか。でもアンデレのように「こんなものですが」と持っていくことが大切です。「こんな私ですけれどもどうぞお用い下さい。」とお捧げする時に神様がどんなことをして下さるか。もっとこのことを大いに期待していきたいと思うのです。神様は私達を通してもそのようなことをして下さる。そしてその命は少しだけ味わうのではなく、豊かに溢れるように味わい、多くの人を満たすものとなる。私達はこの命に十分に与っているといえるでしょうか。もっともっとこの命を豊かに味合わせて頂きたい。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10章10節)

 私達もこのように豊かな者とさせて頂き、それは与えても与えても尽きずに有り余るほどのものになると宣言して下さっている。私達もこのことを期待して「主よ、私も5つのパンと2匹の魚にすぎません。でもこの私をお捧げします。あなたの栄光のためにこんな私をも用いて下さい。」と祈っていきたいと思います。

 1人のやもめの方が生涯を主にお捧げして、全ての物を捧げていくという習慣の身についている姉妹でした。ある時に不思議にその月は多くの収入があって「こんなに余ってしまった。神様、これは何のためですか」と聞いたそうです。するとある方のことが思い浮かばせられた。「あの方に持っていくべきだ。」と思わされれ、その方の元に向かった。事情を話すとその方が突然泣き出した。「実は今の今、それを下さい。神様、本当に私のことを思っているのならそれを下さい」と祈っていた。するとそれを持った人が目の前に現われた。神様は本当に私を覚えていて下さっていることがはっきりとわかった。

 神様は「こんな私ですが、主にお捧げします。」と従っていく者を通して素晴らしい御業を見させて下さる。私達も小さく愚かな者ですが、こんな者ですがと主にお捧げしたい。 その時に私達を通して主は他の人を豊かにさせ、慰め、励まし、喜ぶことが出来る生涯を与えて下さるのではないかと思います。

 まず第1にはイエス様の命にしっかりと与ることです。永遠の命、わたしのパンを食べる者、食べるとは信じるということ。イエス様にしっかりとつながる。そうすれば私達はその命に与る。この命にしっかりと与り、今度は私達が与える豊かさを持つ者に変えられていきたいと思います。
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