このページについて
2005年1月23日 日曜礼拝メッセージ

「いのちを与えるパン」



 新約聖書 ヨハネ6章30節〜40節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 「成せば成さねばならぬ何事も。成らぬは人の成さぬなりけり」ということわざを聞いたことがありますか。私の母がこの言葉を始終言っておりました。「出来ない。出来ない」と言っていると「出来ないのではないでしょう。やろうとしていないのでしょう。」この言葉は、一見聖書の教えとは裏腹なように思えるかもしれませんが、必ずしもそうではないことをご存知でしょうか。

 聖書の中にも私達がどのような心でいるのかを非常に重要視している。例えば『信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20章27節)』『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2章13節)』などです。あるいはベテスダの池にいた38年間伏せっていた彼にイエス様が言った言葉は「よくなりたいか」でしょう。38年間も寝ているのですから「もういまさら」となりそうですが、イエス様は敢えて彼の「良くなりたい」という願いを求められた。私達は神様の業により、させて頂くのですが、それに際して志を持たせていただく。その心構え、心の姿勢がとても大事であること。イエス様が多くの恵みを与えようとして下さっている、そのことに心を配るべきであることを教えられたいと思います。

 前回のところを少しだけ繰り返しますが、男だけで5千人が集まっていました。恐らく全員では2万人以上の人であったと思うのですが、5つのパンと2匹の魚から、どんどん増えて多くの人が食事を食べ満腹した。そして余った物を籠に集めた。その時に人々は「これこそ王様だ。イスラエルを世界の冠とするために来てくれた。」とイエス様を王にしようとした。するとイエス様はすっと逃げた。群集を解散させ、弟子達を舟に乗せて湖の向う岸に渡らせたという出来事です。舟は1隻しかなく弟子達だけが乗って行き、イエス様は岸に残っていた。ところがイエス様を探してみてもどこにもいない。どこに行ったのか分からないけれども、もしかしたらという思いでカペナウムに行ってみるとそこにいたのです。それで人々は「先生。いつここにおいでになりましたか。」と聞くのです。その答えが『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。(ヨハネ6章26節)』と言われる。

 要するに「あなた方が来たのは、神を求めてとか、真理を求めてではないでしょう。あそこであんなにパンを食べられた。この人について行けばいつでも大丈夫だ。いつでもパンが食べられるからでしょう。」ということですね。さらに『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(ヨハネ6章27節)』「この方についていけば大丈夫。」という心でついて来ているかもしれないが、本当に求めなければいけないのは、なくならない食物、永遠の命、魂を養うお方がこの方である。そういう魂の飢え渇きを満たす方として、このお方を私達は求めるべきですと語って下さっている訳です。「ではそのためにどうしたら良いのですか。」との問いにイエス様はあなた方が神の遣わした者を信じることが神の業である。要するにイエス様を信じなさい、イエス様を頼りなさい、イエス様に任せないということ。ここまで言ったイエス様に「そうまで言うならば、その証拠を見せて下さい。」というのが本日の箇所です。

天からのまことのパン

「そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」(30〜31節)

 あなたがそこまで自分を「キリストだ。神だ。」と言うならばそれなりの証拠を見せて下さるのでしょうねと、どちらが上か分からない態度です。ここでは、モーセという人物がエジプトからイスラエルの民を脱出させた時に恐らく200万人ほどいたのではないかと思います。彼はこんなにも大勢の人数にどうやって食事をさせるのか悩んだのです。民達は文句を言いました。そして神様は40年間間、地上に"マナ"というものを降らせて民を養った。そうでなければ彼らは生きていかれませんでした。キリストとしてモーセのような預言者が現われると申命記18章に書かれています。もしあなたがその人だというのなら、モーセ以上のことをして下さるのでしょうね。ここでは2万人以上の人が5つのパンと2匹の魚を食べた。でもモーセはもっとすごいことをしたのですから、あなたがそれ以上のことを見せてくれなければ信じませんという調子だったかもしれません。その時にイエス様は

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。」(32節)

 ここで2つのあやまちを訂正しているように思います。1つ目はモーセがマナを降らせたと思っていますがそうではなく、降らせたのは父なる神です。第2にあなた方はそれが天からのパンだと思っている。しかしわたしの父は天からのまことのパンをお与えになる。あれは本当の天からのパンではありません。聖書のあちらこちらにこれが天からのパンであると書かれているのですが、本当の天からのパンはこのことではなく別にあるのです。

「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」(33節)

 彼らは今の肉の命を生かさせるためにマナを食べて生きていたのですが、本当のパンは決して滅びることのない永遠の命、豊かな命を与えるために来て下さった。それこそがまことのパンである。

「そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(34節)

 そんな素晴らしいものがあるのなら、私も欲しいという具合です。サマリヤの女を覚えていますか。イエス様に「水を下さい。」と言われて変な顔をしていたら、イエス様は『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(ヨハネ4章10節)』と聞いて彼女は「それを下さい」と求めるとイエス様は『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(ヨハネ4章16節)』というのです。これは弱さをイエス様の元に持ってきなさいという意味だとその時に学びました。同じようにイエス様にここまで言われましたから、それなら「私も欲しいです。」という訳です。心にイエス様を求める心、いのちのパンを求める心が芽生え始めたのでしょう。この時にイエス様は、

まことのパンを食べる

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(35〜37節)

 イエス様は「わたしがそのいのちのパン、天からのパンである。マナとか、2匹の魚や5つのパンではなく、このわたしだよ。」というのです。私達はイエス様から愛を欲しいとか、あれをして欲しい、これをして欲しいと思います。でもここで言っているのは"わたし"を求めなさいということです。私達は、もらういろいろな物ではなく、その人自身を求める。イエス様自身を喜ぶこと。そのことを「わたし自身がいのちのパンである。」と言った訳です。同時に「わたしの所に来る者は、決して渇くことがない、飢えることがない。」これは私達1人1人が感じていることではないでしょうか。

 私は神様を信じる前は心の中に大きな風穴が開いているような感じがしていました。そこに寂しく悲しい風が行き交っていた感じがしました。何をしていても空しい。私は劣等感の固まりでしたので、私だけがそんなものを感じていたのかと思っていましたが、クリスチャンになり、いろいろな人の話を聞いてみると、ほとんどの人が同じような空しさ、悲しさを持っているのが分かりました。神様に立ち返って来るまでこの空しさから解放されることはない。そしてそれを満たすためにイエス様は来て下さった。これが満たされるならば私達はもはや苦しむことなく、満足した生き方が出来るようになってくる。イエス様はそのことを教えて下さったのです。

 そして次の言葉が非常に重要です。『しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。』目の前にその素晴らしい方、いのちのパンであり、決して飢えることも渇くこともない方がいるのに、その方を無視している。それは愚かなことではないですかと言っているのです。わたしを求めた方がいいのではないですか。そのことを指摘するのです。ここに深く私達を探られる心の姿勢があると思います。ユダヤ人達は聖書を知り神を求めてきたはずです。ところが彼らの心の中には本当の意味で神を求めようとはしない。目の前にそのお方がいるにも関わらず求めないユダヤ人の姿。実はこれは私達の姿でもあると思うのです。

 ヨハネの手紙の中に『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(第1ヨハネ2:19)』とあります。そういった物は求めますが、私達の心を豊かに満たす方を求めているかといいますと、求めていない。神を求めないで私達は自己満足しようとするところがあるように思います。別の言い方をしますと、私達の中には神を求めたくないという反抗心があることを知る必要があるのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8章4〜8節)

 私達の中には神に逆らう、神に従わない、神を求める気にさえもならない"肉"なるものが私達の内にあることを知る必要があるのです。生まれながらの私達には神様を求める心もあるのですが、同時に求めない心もある。この実体を知り、そこから何とかして神様を求める道に進むことが必要である。ユダヤ人達も目の前にイエス様を見ながら、イエス様の所に来ない。私達も神に逆らう心、神様に従いたくないという心をきちんと受け止めてそれを変えられていかなければ同じ道を歩んでしまう危険性があるということなのです。私達は自分の"肉"を知らされて1歩、また1歩と神様に従う道を歩ませて頂くことが大切だということです。なぜならその人達には

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(38〜40節)

 イエス様は私達を神様に従う者、神様により頼む者に整えようとして下さっているのです。ヨハネ17章にはイエス様が父なる神様に祈った祈りが書かれています。そこに書いてあるのは、「何とかしてこの民1人1人を滅びないで守られるようにわたしはやり続けてきました。そのように1人1人を守り通しました。そうして神様は終わりの日にその人達を確かによみがえらせる」と言われているのです。世の終わりが近づいているのを最近の様々な事の中に、黙示録の状況を見るような気がいたします。私達は世の終わりに至るまで、よみがえりの命に導かれているという尊い命を心に覚えることが必要ではないかと思います。私達が1歩、また1歩と神に従うようになっていくことが、永遠の道に導いて頂く道筋ということなのです。だから私達はこのことをしっかりとわきまえて、自分の中にある従いたくないという心を支配し治めて、神に従う道を選びとっていくことが大切であると覚えたいのです。

 イエス様は私達に『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』と言いました。弟子のトマスは他の弟子達が「イエス様がよみがえった。」と言っても信じなかった。それはトマスがいない所にイエス様が現われたからでした。それで「イエス様の釘の穴の開いた手に指を入れなければ、脇腹の槍の跡に手を入れない限り、イエス様の復活は信じない」と言ったのです。ところが、そう言っている最中にイエス様が現われて下さり、その時に初めて、

「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20章28〜29節)

 トマスの中にも信じる心と信じない心があるのです。その時には信じない心が打ち勝っていたのです。以前イエス様は復活のことを何度も言っていました。でもトマスは信じない心の方に身を任せてしまっていたのです。私達は信じる心に従っていくことが大切だということなのです。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4章7〜8節)

 私達は神に従うことが大事なのです。私達の肉には従いたくないという気持ちがある、神の道と違うことをしたいという気持ちがあるのです。私達はそこで1歩神様に従う。祈りたくない時「祈れないのです。」と祈ったらいいのです。「聖書を読みたくない。」と祈ることや、読みたくなくても聖書を読む。「教会に行きたくない。」と思う時にでも行ってみる。自分の中には"肉"があって、何とか神様から引き離そうとする働きがあると認めるなら、これを振り捨てて神に従う所に立っていけると思います。それが永遠の祝福、終わりの日によみがえらせる命の道筋なのです。1歩、また1歩と私達はその道を歩んでいければよいですね。その時にイエス様はあなたがたは1歩進んだということは、父なる神があなたがたを導いているということ、

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6章37節)

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6章44節)

 このように教会に来ることも神様が私達を導いてい下さっているのです。ですからその道に1歩、また1歩と従っていきなさい。そうする時にあなたの内に神の業が豊かに現わされるようになる。私達はいのちのパンとして来た方にちゃんとつながっているでしょうか。先日洗礼を受けた姉妹の証しを紹介したいと思います。

『牧師さんがお話をして下さったのですが、なるほどと分かったのだけれども、その際にうなずいている自分を見ることが出来ましたが、心のドアを開けることは出来ませんでした。この時私は姉と一緒に話しを聞いていましたが、何と姉は牧師の祈りの後で、すっかりドアを開き、生けるパンに噛みついていたのです。それを目の前に見てかなりぎょっとしてしまいました。1度日本を出て3ヶ月後、今度は3ヶ月の長期帰国でした。神のご計画とは知らずノコノコと帰って来た私の肩を叩くので、振り返ってみるとそこにはニコニコ顔の姉が「“ヤベツの祈り”すごくいいから読んで。」と1冊の本を差し出しました。』

 パンに噛みついた、お姉さんの全く変わっている姿をそこに見た訳です。同じ場所にいて片方は噛みついて、片方は噛みつかなかった。

『とうとう2年半前帰国した時に神様のご計画通り、神様の子として、イエス様の妹として、恵みにより新しく生まれることが出来ました。ドアを開けた時には本当に長い間お待たせしたにも関わらず、イエス様は、ほほえましくゆっくりと私側の空間に入って下さいました。すると薄暗かった空間が一気に明るくなり、いつの間にか食事が用意されていました。神様の用意された食事は私を満たし、喉の渇きもいやして下さるのだとやっと気付き始められる記念すべき日でした。2年半前に新生を経験したこの日には初めてショック泣きを経験しました。この感動的経験は冷静になって考えてみても、やっぱりものすごくでっかいものであって、神の存在を受け入れざるえないものでした。』

 私達は単純にイエス様を食べる。食べるとは信じる。信じるとはポッコンと任せてしまうのです。先程ありました「二心」とは神様も適当に、そしてこちらも手は離さないでおくということ。これでは神様の恵みにあずかることは難しいのです。すっぽりと神様の側に入ってしまう。少し怖いかもしれませんが、お任せしてしまう。お任せする時に、神様が確かに命のパンであることを教えてくださるのです。

 ある方が死んだらどうなるのかとずっと考えていた。でもイエス様を信じた後に死の恐怖がいつの間にか消え去っていた。消え去っていたばかりか、昔が懐かしいと思って元に戻りたいと思っても戻れない自分に気付いた。本当に神様がそういう命を私達に用意して下さっている。目の前にイエス様がいて下さっている。それは食べるか食べないか。でも信じない心が勝ってしまった時に信じなかったのです。私達は信じる者にならせて頂くのが大切ではないかと思います。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4章2節)

 ユダヤ人達は福音を聞いていまました。しかしそれが彼らには益にならなかった。なぜならば御言葉を自分に結びつけなかったから。自分へのメッセージとして受けとらなかったから。それでは力にならないのです。私達は御言葉を聞いて自分に結びつけていく。そしてしっかりと命のパンに噛みついていく。皆さんの心から空しさは消えましたか。寂しさや悲しさ、孤独は消えましたか。もしかしたらパンを噛んだつもりで、この世をしっかりと握って神様に頼ることが出来ていないからではないですか。神様半分、この世半分が一番苦しい状態なのです。それよりも思いきって飛び込んで下さい。信じるとはイエス様の中に飛び込む。そうするとそこに神様が働きはじめるとお話しました。どうぞこの神様に今出来る小さな問題から始めて頂ければと思います。

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章6節)

 本当にお任せして、そこに働かれる神様、生けるパンとして働いて下さる神様をもっともっと共に豊かに味わっていく者となっていきたいと思います。

ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ