このページについて
2005年1月30日 日曜礼拝メッセージ

「つぶやきはどこから」



 新約聖書 ヨハネ6章41節〜59節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 イエス様が宣べ伝えられてすでに2000年になります。このおおもとになったイスラエルでは本当にごくわずかな人しかクリスチャンになっていないのです。長い間アブラハムから受けた信仰を育て守ってきたイスラエルの民が一番最初にイエス様をお迎えして喜ぶはずが、イエス様を追いやってしまった理由が今日の聖書箇所の中にその出来事の1つとして記されています。それまでは喜んで従っていた人達がこのことをきっかけに従わなくなってしまった。私達は何が原因であるのかを探らせて頂く必要がある。そしてまた私達自身もそのつまずきに陥らないようにしたい。イスラエルの中にある特性を見ていく必要があり、また戒めとして聞く必要があるのではないかと思います。

神様の引き寄せに抵抗する私たち

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。」(41節)

 イエス様の言葉を喜んで聞いている人達がたくさんいました。後半では『弟子たち』と書いてありますので、少なくとも見せかけにおいてはイエス様に従っていた人達でありましょう。その彼らが離れつまずいたわけです。ここに『つぶやいた』とあります。結構つぶやきがあると思いませんか。だれでもやっている、みんなやっているから大したことではないと思うかもしれませんが気をつけた方がいいですよ。

「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(第1コリント10章10〜12節)

 エジプトから出て来たイスラエル民族が、40年間荒野をさまよい、約束の地カナンに入れなかった。それは彼らがつぶやいたからです。私達の中にもつぶやきが出てきます。やはり気をつけた方がいいですね。それにはどうしたら良いのかを考えてみたいと思います。

「彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」(42節)

 この人達はイエス様のこと、ヨセフやマリヤのことも知っているので恐らくガリラヤの人達のようです。それが急に「わたしは天から下って来たパンです」と言われても「何を言っているの」と思いますね。権威もあったと思うのですが、イエス様を"神の子"として認識することが出来なかった。自分の考えを捨て去ることが出来なかったということです。表から見える姿だけで見てしまい、イエス様がどういうお方であるのかを見ることが出来なかった。だから彼らはつぶやいたのです。

「イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」(43〜45節)

 ここに大切な真理があります。「つぶやくな」という理由ですが、彼らがどうしてつぶやいているのかと言いますと、それは父が引き寄せて下さらなければ分からないということです。「では私は引き寄せられていないのかしら」と思う方がいますか。それは反対です。神様は私達を引き寄せているのに、私達が「いやだ。いやだ。」と言って引き寄せられてこない。私達がイエス様を信じるようになったのは、引き寄せられたからなのです。それに対して彼らは全く引き寄せられなかった。さらに「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」とは、もし本当に神様を求め、神様から聞いているならば、その人は「イエス様」と言って来るようになると語って下さっているのです。

「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(46〜51節)

 わたしがどういう者であるのかあなた方は分かっていないかもしれないが、わたしはこういう者だというイエス様の自己紹介です。いのちのパンである、わたしのところに来る者は永遠のいのちを持つ。キリスト教は色々なことを教えているという感覚があると思います。もし敢えて1つだけというならば、イエス様のところに来るかどうかだけなのです。「イエス様、大好き。」とイエス様のところに来るのがクリスチャンである。

 「いのちのパン」は前回学びましたが、モーセは40年間天からマナを降らせたでしょう。あなたがキリストならばもっとすごいことを見せてくれるのでしょうねと人々は高飛車な言い方をしていたように思いますが、マナを食べた人は死にました。でもイエス様を信じた人はもう死ぬことがなく永遠のいのちが与えられる。私達はイエス様に対して正しい権威をはらっているでしょうか。

 イエス様は家畜小屋に生まれて下さり『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われた、あるいは鞭打たれ、いばらの冠を被らされて、本当に酷いことをされましたから、このお方がどんなにすごい方であるのかが消えて薄くなっていることがあるのではないでしょうか。本当ならば私達は近づくことも出来ない存在。本来はイエス様に近づくことが出来ないほどすごいお方であることを薄く軽く考えてしまっている。このことをもっと認識する必要があるのではないでしょうか。

 イエス様はそのことを『わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」』とご自分のことを紹介するのです。すると人々は、

「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」(52〜59節)

 ヨハネの福音書には最後の晩餐の記事がのっていません。この出来事を通してパンを食し、血を飲む意味を悟らせようとしたと思うのです。皆さんはこれを聞いて「血がぶどう酒。肉がパンだ」と思ったかもしれませんが、ユダヤ人がこれを聞くとどう思うか。彼らにとって血はいのちです。どんなことがあっても血は飲んではならないのです。ところが「血を飲み」と言いますから、彼らにとってはひどい言葉です。あるいは「肉を食べなければ」という、この"食べる"もムシャムシャと食べるという意味です。そういう風に食べて血を飲まなければいのちがないというのですから、彼らは「こんな言葉は聞いていられない。」となってしまったのです。少し気になるのは、イエス様はユダヤ人達をフォローしていないのです。ここでイエス様はとても大切なことを扱っていたように思います。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」(第1ペテロ2章6〜8節)

 『彼らがつまずくのは、みことばに従わないから』という言葉です。神様に従えない、そういうものが私達の中にある。ですからこの問題が扱われなければ私達は御言葉に従うことが出来ないのです。神様が私達を引き寄せて下さらなければ御言葉を聞くことが出来ないのです。私達は御言葉にどう直面しているのかが非常に大切だということです。御言葉の前に自分が砕かれるか、あるいは反対に御言葉を砕いてしまうかのどちらかなのです。私達には大きな岩のような"自我"がある。これが砕かれていかないと私達は御言葉に従っていくことが出来ないのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章7節)

 クリスチャンでも"肉"があります。この肉は神に従いたくないという思いがあるのです。私達の中には自己中心があり、これが砕かれないと本当の意味で御言葉に従っていくことが出来ないのです。そういう意味で御言葉の前に砕かれていく。例え話に、家を建てる話が出てきます。家を建てるために土台を据えます。その土台の上に石やれんがを積み重ねていくのですが、イエス様は土台にしかなりません。それを土台にせずに違う場所に置けばそれはどこにも入らないので捨てるしかないのです。ユダヤ人達は自分の考えを持っていた。それに土台であるイエス様が合わなくなってしまったので「この設計には必要ない。」と捨ててしまった。私達はこの方を土台に据えなければならない。「私の人生の土台にイエス様が入って下さい。」あるいは「この自我を砕いて下さい。」と、これらは自分では出来ないことです。ですから「砕かれることが出来ますように。イエス様を土台に据えることが出来ますように。イエス様の方に方向を向くことが出来ますように。こんな私を憐れんで下さい。」と私達が心を開くなら、イエス様は引き寄せて下さるのです。でも私達はそこに引き寄せられないようにと頑張っている。

 私達の中にある従いたくない気持ち。「それはやめて。ちょっと待って。」と言ってイエス様に引き寄せられないようにしているのです。だから御言葉が素直に受けとめられなくなったりする訳です。私達は「こんな御言葉に従っていられない。」という時に「私にはの御言葉を受けとめられません。助けて下さい。理解出来るようにして下さい。」と神様に祈ったらいいのです。そうしたらこの肉を食べるとか、血を飲むというのがどういう意味かを教えて下さるのです。ところが彼らは表面的にしか受け取らなかった。だから理解することもそこから悟ることも出来なかった。私達には神の言葉を素直に受け取らせないようにするものがあるということをしっかりと理解する。そしてそれを砕いて下さいと主に祈っていく。その時に神様が変えていって下さるのです。

格闘しながらでもそこに留まる

 次に『父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。』という言葉からイエス様によって引き寄せられて段々と御言葉が分からなくても「教えて下さい。」と求めていく時に、少しずつ分かってきます。そしてここからが大事なのですが、その聞き方が問題なのです。私達はしっかりと聞く。こうしてメッセージを聞くこともどういう風に聞いているかがとても大切です。批判的に「そんなこと言って、あなたは自分でそうしているの」と聞く。あるいは「何ということを言っているのだ。」と憤慨しながら聞く。こうなると自分の考えが正しいと思いますから、イエス様が何を言っているのか探ることもしない。あるいは高慢な聞き方。良いお話を聞くと「知っている。分かっている。」とそこから学ばない。分かっていると思うとそれ以上入っていきません。あるいは無関心な聞き方など、色々な聞き方があります。そうではなく聞いて学ぶ。これが大事です。イエス様はパンをムシャムシャ食べなさいと言われましたが、私達は日々イエス様に結びついてそのいのちをもらって歩まなければならないということなのです。御言葉にしっかりとつながり、格闘して「もうだめだ。」とあきらめたりしながら、御言葉を自分に結び付けていくことが大切なのです。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)

 格闘して「砕いて結構です。本当に私は出来ません。だめです。私が間違っています。」と差し出していく。その時に御言葉が自分の中に留まり、御言葉の中に生きることが出来るようになっていく。その時に私達の内に豊かな永遠の命がみなぎり始めるのです。 ピリピ書でパウロがこんなことを語っています。

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ヨハネ3章7〜9節)

 どうでしょうか。私達は『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに』と本当に言えるでしょうか。一切のものをちりあくたと思うほどにイエス様を知っているかというと、まだまだ知らない。彼らはヨセフとマリヤの息子というところに留まってしまった。私達もイエス様は十字架にかかって死んでくれた。それを軽くて考えて「本当に自分のために命を捨ててくれた。神のひとり子が命を捨ててくれた。こんなすごいことがあるのか。」と絶大なものとしてこの方のことを受け取っているのか。私達はもっともっとこの方のことを本当に知っていく必要があると思います。

 そのために日々ディボ−ションをしていますか。聖書を読んで祈る。マナは毎日毎日荒野におりたのです。少しものぐさな人が2日分まとめて集めたら、翌日には腐っていて食べられなかった。毎日集めないとだめなのです。私達も毎日聖書の言葉を頂くことが必要です。それを当てはめて、「こんなことは出来ません。この私を変えて下さい。」と祈る必要があるでしょうね。その時に私達はこのキリストを知るゆえに、一切のことを損と思っていますという生涯に導いて下さるでしょう。

 溜め食いせずに、毎日噛んで自分の中に蓄えていく。神様が与えようとしている命をもっと実際に豊かに頂いていきたいと思います。聖餐式の話をここでしたという1つの理由は、彼らの日常生活の中、日々イエス様の交わりの中に生きるということを教えたかったからではないでしょうか。仕事をしている時も、料理を作っている時も、友達と話をしている時も、あらゆる場面において、それは聖餐式同様、イエス様の血を飲み、肉を食べる。こういう中でこそ私達は豊かな命にあずかっていくことが出来る。瞬間瞬間に「主よ」と言って主を食べるその信仰の歩みを共に持たせて頂きたいと思います。
ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ