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2005年2月6日 日曜礼拝メッセージ

「つまずきの原因」



 新約聖書 ヨハネ6章60節〜71節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 以前聞いた笑えない例え話ですが、ある日曜日の朝に教会に来たところが礼拝の時間になってもだれも集まって来ない。その人は「何と不謹慎な人たちだ。」と怒っていたのです。聖書に世の終わりの時、イエス様が再び来られて、クリスチャンはその場で栄光の体に変えられ、天に引き上げられると教えられています。彼はまだイエス様をきちんと信じていなかった。ですからいつも通りに日曜日に教会に来たけれども他の人はだれもいなかった。私達はその時が近づいて来ているという聖書のメッセージやイエス様が何度も語られている警告をきちんと受けとめなければならないと思います。

 今日はあまり嬉しくない箇所と言いますか、ユダヤ人がつまずいた箇所です。それはユダヤ人というよりも、私達自身も陥りやすいと言った方がいいと思います。私達はご一緒に学ばせて頂き、そこから守られるように教えられていきたいと思います。前回5千人の給食を通して、色々なやりとりが成されたわけです。6章の53節から読ませていただきます。

自分の考えがつまずきを招く

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6章53〜56節)

 今日は聖餐式ですがこの通りのことです。肉を食べ血を飲むとはイエス様を信じるということです。その時に永遠のいのちの中に私達は生きることが出来ると言ったわけです。この時にユダヤ人達はどう考えたかといいますと、

「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(60節)

 ユダヤ人は決して血は飲んではならない、また肉を生で食べてはならないとも言われていました。この「食べる」はムシャムシャと食べるという意味の言葉が使われています。ですから「何というひどい言い方か。もう少し別の言い方があるでしょう」と言いたくなるのも分からないではありません。しかしイエス様から厳しい言葉が出てきます。  

「しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」―イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。―」(61節)

 「こんなことでつまずいていてどうするのですか。これからもっとあなた方が考えられないようなことを色々と話すのだ。それを受けとめていくことが大切なのだ。」ということです。これと似たようなことがヨハネの3章でも語られています。ニコデモに対して人は生まれ変わらなければならないと言った時のことですが、

「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(ヨハネ3章12節)

 「生まれ変わりはこの地上で現実に起きることです。あなたはそれを信じられないし受けとめられない。ならば天国で人がどうなるのかを話しても到底受け取ることが出来ないでしょう」と言ったわけです。そしてここでも「『わたしの血を飲み、肉を食べ』という言葉につまずいているようではどうしてわたしの真意を理解することが出来ようか」ということです。前回も話しましたがユダヤ人達がつまずいた理由をもう一度お話したいと思います。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」(第1ペテロ2章6〜8節)

 これはイエス様を預言した言葉ですが、イエス様は家を建てる者たちが見捨てた石です。土台石になるものは少し大きいかもしれません。それを後でどこかに組み込もうとしても組みこめないわけです。それでこれは不要だと捨ててしまったわけです。でもこの石が礎石となり、その上に本当の家が建つ。ですから人々にとりイエス様の存在はある意味つまずきだというのです。それはイエス様を本気になって土台に据えようとする人でなければ、つまずきだということ。自分の都合の良いようにイエス様を利用しようと思っている時には、イエス様は大きすぎるのです。私達はイエス様の存在を人生の土台にさせていただく必要がある。そうでなければこの石につまずいてしまう。ユダヤ人達は自分達の考えた理想のキリスト像がありました。その理想にあっていないイエス様のことは捨ててしまった訳です。聖書に明確にキリストについての預言が書かれてあったにも関わらず自分の考えが土台にあった訳です。そのことの故につまずいた。しかし考えてみますと私達も同じ様な弱さがあるかと思います。私達も自分の考え、思い、経験を優先していないでしょうか。そして都合のいい所だけ利用することがあるのではないかと思います。正直にいいますと、イエス様は「それをだめ」とも言っていないのです。最初は皆なそういう状態で信仰に入ってきたのではないでしょうか。

 『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11章28節)』とか、私の場合には『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第2コリント5章17節)』「そこだけは欲しい。」と思ったのです。そのように良い所取りだけをする。最初は神様はそのことについては何も言いません。でも私達は段々と気付かされていくべきです。このお方はそのようなところに留まるべきお方ではなく、もっともっと偉大で大いなる方であり、私達はその方を人生の土台に据えなければならないことに気付かされていく必要がある。でもユダヤ人達はそのことを考えることが出来なかった。『いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。』とこう言っていますが、彼らは自分の肉の考えにこだわった。しかしイエス様は霊的なことを話していた。本気になってイエス様に聞かない限り、イエス様の言わんとすることを理解できません。受け取ることが出来ません。それで彼らはキリストを除外してしまったのです。そしてその中でイエス様はあなたがたの中に信じない者がいますと言われていますが、具体的にはユダのことを示していた可能性はあります。ユダもこのように退けたユダヤ人達も同じであるということです。

 イエス様を土台に据えているならば、もし自分の考えや思いと違うことがあっても「それはどういうことですか。どういう意味ですか。」と聞いて学ぼうとするでしょう。しかしイエス様をそのように受けとめていないと「そんなものはおかしい。」とすぐに切り捨ててしまうでしょう。私達は聞く耳を持っているか、知ろうとしているかということです。イエス様はユダのことを知っていたと書いてあります。自分のことを裏切ると分かっている人が側にいたなら、どういう態度を取るでしょうか。少しは知らないふりをしていたとしても、2、3日経てば「見るもの見せてやれ」とそんな気持ちになっていくのではないでしょうか。でも3年半もイエス様は他の弟子達と全く同じ愛をユダにも持ち続けてきた。だから弟子達は最後までだれが裏切るのかを分からなかったのです。イエス様は差別はせず最後までユダが立ち返ってくることを待っていた。

 神の御心は1人も滅びることを望んでいません。是非このことを知って下さい。ある人は救いに、ある人は救われないように選ばれていると考える方がおりますが、そうではありません。最後の最後までイエス様は私達を救いだそうと導いておられる。因みに「もう選ばれているのだから、どうしようもない」と宿命論的に考える方がたまにいます。それに対しての御言葉を開いておきたいのですが、

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(第1ペテロ1章2節)

 神様がどのように選ばれたのかがここに書かれています。すなわち『父なる神の予知に従い』それは私達がどういう決断をし、どのように歩むかを知っておられるということ。それにより自由と平安があるように私達を選んで下さった。神様は私達がどういう決断をするかを見てそれに基づいて選んでおられるということです。イエス様が好き勝手にやっているようなことではありません。1人でも多くの人が悔い改めることを待っておられると聖書の中に書かれているわけで、そのことを忘れないでいて頂きたいのです。

イエス様をしっかりと土台に据える

「そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」(65節)

 しかしこれを見ると「ほら、やっぱりじゃないか。」とこう言われるかもしれません。私達は神様の守り、助けがなければ恐らくここにいる人数は10分の1以下であると思うのです。自分の力で神様に従い続けることなど出来なかった。ペテロもそうでした。イエス様に死んでも従いますと言った数時間後にイエス様を知らないと言ってしまう。これが私達です。神様が守り支えて引き寄せて下さった。だから今こうしてここにいられるということです。元に戻りますが、イエス様の言葉につまずいた人、本当の意味でイエス様を神として大いなる方として受けとめていない人はどうであったのかと言いますと、

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(66〜67節)

 この時までは「イエス様」と言っていた人達が、もう一緒には歩かなくなった。一時的には喜んでいても、あっという間に変わってしまうのです。67節は読み方によって「イエス様も不安だったのだ」と読めないこともありませんが、そうではありません。「あなた方は神が引き寄せて下った者だからあなた方は去ることはないでしょう。」と言っている訳です。

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(68〜69節)

 イエス様につまずいた弟子達と、生涯従った弟子達との違いは何かと言いますと、「イエス様の内にこそ永遠の命の言葉がある。この方こそ頼るべき方である。」というころです。教会から離れていこうとする方がいます。その時によく考えて下さい。イエス様以上に頼るべきお方があるでしょうか。イエス様のように忍耐を持って愛をもって、どこまでも私達から離れずに導いて下さる方がどこにいるでしょうか。他にはないことをしっかりと認識するべきです。

 アメリカの大富豪ヒューズは大統領も彼の言葉を無視することは出来ないほどでした。事業も拡張し、すごい働きをしたのですが、晩年彼は大きなホテルを買い取り最高の部屋を自分の部屋として住みました。しかしそこに近づけるのはごく少数の人だけ。だれも信頼できず不安と恐れに取りつかれた彼は麻薬を打ち続けて惨めな寂しい晩年を過ごした。 イエス様を離れてだれが私達を本気になって導いて下さるのか。頼るべきところが他にあるのでしょうか。冷静に考えればイエス様を離れてどこに永遠の命の言葉があるのかと正しくそう言える訳です。私達はこのお方を土台にしないで、だれを土台にするのですか。私達は自分の考えではなく、イエス様自身を土台にすることがどんなに大切かを覚えたいのです。

「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」(70〜71節)

 イスカリオテは「イシュ」は「人」という意味で、「カリオテ」は「都会」です。恐らく12弟子の中では唯一の都会人。ですから高慢さがあったかもしれません。「俺はこいつらとは違う。何故イエス様はこいつらばかりをとりたてて、俺のことを分からないのか」と思ったかもしれません。彼は会計係をしていたのですが、ごまかしもしていたようです。彼は肉の世界に生きるものとなってしまっていた。本当に見るべきものを見ることが出来なかった。目の前でイエス様を見て、導かれながらも、この方を土台にすることが出来なかった。

 私達がここから学ばせていただくことは何でしょうか。私達の中にも同じ弱さがあると思います。イエス様を自分の人生の土台にしているかと言いますと、土台にする時もあるし、そうでない時もある。またしようとしても出来ない時もあります。私達は第1に自分のその姿を知るべきです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章7節)

 自分の知恵や知識、考えに生きている限り神様に従うことなどできない。私達は従いたくないという思いの方がはるかに強いのです。イエス様を自分の人生の土台にしようなどとは考えたくないのです。これが生まれながらの肉の考え方です。でも神の御霊が来るときに変わってきます。私達はそれが自然に出来るようになってくるのです。普段は神様に従えないと思っていると思いますが、神の御霊に導かれる時、神に従っていきます。私達は肉の生き方に死に、神の御霊によって生きる生き方を求めていくことが大切なのです。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3章16節)

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第1コリント6章19〜20節)

 イエス様はあなた方のために命を捨てて下さったのです。そしてあなた方の体を神の神殿として買い取って下さった。昔イスラエル民族がエジプトから出て来た時に、幕屋を作りました。その中にモーセが神様と出会うための「会見の天幕」という特別の幕屋がありました。昼はそこに雲が立ち、夜は火の柱が立っている。神がここにおられると思ったら畏れ多い気持ちでうやうやしく近づくのではないでしょうか。後にソロモンによって神殿が建てられます。神殿に近づく時には、汚れた物を持っていったりしますか。聖書はあなた方がその神殿だというのです。私達は自分がそういう者とされている。それは私達の罪の代価をイエス様が払って下さったからなのです。

 では私達の命はだれのものとなりますか。私達の生涯は主のものなのです。文字通り人生をお捧げする時に私達は本来あるべき生き方が出来るようになっていくのです。捧げ切ってこそクリスチャンのスタンダードなのです。ある意味では捧げ切った時に神様が私達を用いようとする生き方になってくる。私達がイエス様を救い主として信じ委ねる。これは書道を書く時のことを思い出してみてください。なかなか上手く書けない時に、上手な人が手を持って字を書いてくれる。でも私はそうされたくないので少し力をいれると、変な方向に筆が運ばれてもっと上手く書けない。どうすれば上手く書けるのか。それはそこに手を添えているだけでいいのです。上の力が働くと上手く書ける。これと同じです。私達が神様に委ねる。色々な出来事の中でそのようにしていく時に、不思議に自分では出来なかった生き方が可能になってくる。私達はそのように自らをお捧げしていくことが必要なのですね。自分の考えにこり固まっていると、なかなかそのように委ねられない。でも「それが間違っていました。委ねられませんけれども委ねられるようにして下さい。」これは口では言えますが、実際には簡単ではないでしょう。葛藤するのです。心から委ねますとなかなか言えない。私達に必要なのは「委ねられませんが、そのことを含めて委ねられるようにして下さい。」これで良いのです。そのようにしていく時に、私達の土台にキリストが入って下さり、キリストによって歩む生涯に変わっていく。その時に御言葉に対しても従うことが出来るようになっていくのです。

 先ほど"つまずく"のは御言葉に従わないからですと書かれています。私達はつまずかされたと言ってしまうこともありますが、結論的には自分が御言葉に従わないから。色々なことがあってつまずきは避けられないものですが、しかしあなた方はそれが起きないように注意しなさいとあります。つまずくかつまずかないかの観点で言うならば御言葉に従っていくならつまずくことはないのです。赦しなさい、愛しなさいとあります。その御言葉に直面した時に嫌だという思いが出てくるでしょう。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」(マタイ21章43〜44節)

 私達はイエス様の上に砕かれなければいけないのです。自分を大事にする考えを捨てなければ神様に従っていくことは出来ないのです。でもここも間違えないで下さい。自分では砕くことは出来ないのです。砕かれるとはそのまま主の御手に委ねることです。取税人の祈りです。こんな弱さを持った自分をそのままお渡しする。その時に神様が働いて、イエス様を土台としたつまずかない生き方に導いて下さるのです。共にそのような生き方を求めて行きたいと思います。私達は様々な自分の考えを持っています。その度ごとに主に委ねていきたい。   心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 このようにしてつまずきのない、いよいよ豊かな神様の道を歩みたいと思います。
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