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2005年2月20日 日曜礼拝メッセージ

「あなたの時と神の時」



 新約聖書 ヨハネ7章1節〜13節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「女心と秋の空」とは移ろいゆく人間の心の動きを言った言葉ですが、確かに私達は色々なことであっという間に心が移り変わっていくことがあると思います。「イエス様」と群がる黒山の人だかり。多くの人がそのように仕えていったと思ったら、あっという間にイエス様から離れて一緒に歩かなかったとヨハネの福音書に書かれています。そして7章に入りますと、当局者と言われる人々はキリストを捕まえ殺すために一心に向っている。彼らも最初は色々な目をもって見ていましたが、遂には殺そうとする。そのきっかけはベテスダの池の側で38年間寝たきりの人がイエス様によって癒された。その日が安息日であった。これがきっかけとなった。彼らは「こんな奴がキリストであるはずがない。こんな奴は殺せ。」という訳です。

 6章と7章は直後の出来事かと思いますが、6章が過越しの祭りの前後なので3月頃と考えていいでしょう。7章は仮庵の祭り。これは収穫の祭りなので、10月か11月。この時には、エルサレムから32Km以内に住む男子はみな、エルサレムに詣でて祭りを祝わなければならなかった。その時にイエス様の兄弟達が「あなたも行った方がいいですよ。あなたがキリストだと言って、そんなことを皆に見せているのだから、ガリラヤではなく、エルサレムの真中に行ってやるべきではないですか。」とこんなことを言っているのです。兄弟達の中に隠された不信仰な思い。ご一緒に私達も注意しなければならないこの弱さを、特にイエス様の兄弟の姿から見させて頂きたいと思います。

神の時に従うイエス様

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。」(1節)

 この約半年後にイエス様は十字架に掛けられるのです。仮庵の祭りの時にユダヤに行けば人々がどうにかして自分を捕まえようとしているので、今は行きたくない。これはただ逃げているという意味ではないのです。十字架に掛かる時には、イエス様は人が何と言おうとも、止めようとしてもエルサレムに行くのです。しかし今はその時ではない。だから今は行かないでガリラヤに残るというのです。

 兄弟達は毎日のようにイエス様を見ています。恐らく奇蹟や色々な不思議なこと、素晴らしい話を聞いたでありましょう。ならば兄弟達が一番弟子となり一番信用する者になったかと言うとそうではなかったのです。彼らは奇蹟を見ていなかったわけではありません。毎日のようにそういったものを経験したでしょう。にも関わらず、ここに記されているように彼らはイエス様を信じなかった。そんな兄弟達も後には信じました。イエス様が復活した後に弟子となったのです。聖書のヤコブ書、ユダ書はイエス様の兄弟が書きました。ここにありますように、信じているふりはありました。でも復活するまでは本当には信じていなかった。

「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(2〜5節)

 心からイエス様をたたえているのではなく「あなたは自分をもっと現したいのでしょう。キリストだと見せたいのでしょう。そう示したいのならユダヤでやりなさい。」と複雑な気持ちが見え隠れするような言葉。その証拠として『兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。』色々な気持ちがあったと思います。突然皆さんの兄弟が「私は神になりました。」と言ったら「やめなさいよ」と言うでしょうね。実際に兄弟達がイエス様が気が狂ったと思って連れ戻しに来たことがありました。家族はなかなか難しいですよ。その中でイエス様はどうしたかと言いますと、

「そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」(6〜9節)

 イエス様は兄弟達のことを分かっていましたからこう言ったのです。まず『わたしの時はまだ来ていません』とはどういう意味かと言いますと、究極的には「わたしが十字架に掛かって人々の救いを成し遂げるその栄光の神の時はまだ来ていません。」ということ。次に『あなたがたの時はいつでも来ているのです。』これが少し分かりにくいと思います。最初私は「あなた方はいつでも神様を信じる時がきています。」という意味だと思ったのですが、よく読んでみますと、イエス様は『わたしの時』と言っていますが、これは"神の時"ということです。それに対してあなた方にそういうものはないので、いつ何をしても変わりませんという意味合いのようです。

 もう1つ付け加えると『世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。』イエス様は人々が気に入らないことを言うのです。あまりにも正しい人が側にいますと、生活しやすくなりますか。正直、堅苦しくなると思いませんか。あまり正しいことばかり言われたら「向う行っていて下さい。」というのなら、まだ良いのですが、ユダヤ人達は「この者はもう要らない。亡き者にしよう。」というところまで進んでいったのです。

「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15章18〜19節)

 実は人々が憎むのは、イエス様が神からのものであって、人々のものではないからだというのです。あなた方が仮庵の祭りに行くのは何の問題もありません。あなた方がこの世に属しているから、あなた方は捕まることもないし、酷い扱いを受けることもないでしょう。でもわたしが今行けば苦しい目に会うのです。わたしの場合には"行くべき時"がある。神の時に行かなければ、どんどん難しい問題も起きてきます。でもあなた方にはそういうことはないので、いつでもやりたいことをしてもよい。それは神に属していないからだというようです。そしてイエス様は「わたしの時はまだ満ちていないから行かないと。」ここまでは分かるのですが、10節から

「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」(10節)

 まだ時が来てないと言ったのに、兄弟達が行ってしまった後にユダヤに上るのです。しばらくそこで過ごしたようです。7章38節を見ますと『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』と公に言っています。これは、今は兄弟達と一緒に行く時ではない。でもここにも神様の時、神様の方法があるのだと語りたかったようです。旧約聖書に伝道者の書には『空の空。すべては空。』と書かれていて、一見仏教の本かと思うほどで、日本人にとっては、非常に納得しやすい箇所でもあります。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」(伝道者3章1〜8節)

 全てのことに時があるということ。それでイエス様はこの神の時に従って生きなければならない。でもあなた方はそうではない。私達は全時間が自分の時間だと思っています。自分の思うままに、気のままに歩むのです。それでは本来の生き方ではないということをイエス様は言いたかったようです。

自分の時に従ってしまう私達

「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章15〜17節)

 私達はそれぞれ自分の思うこと、願う時に、自分の願った所で事を行ってきました。ところが聖書はそれが違っている、神の時に神の道に神の御力で生きるのが本来の人間の生き方であると語るのです。ここでは兄弟達はまだ分からなかった。仮庵の祭りでばっとやる。しかしそれが神の方法ではないことをイエス様は伝えようとした。そして人々が神の時に、神の方法で生きるようになることを願っておられたのをこの箇所から読み取れるのではないかと思います。私達は自分自身のためではなく、私達のために死んでよみがえって下さった方のために生きる。そのためにキリストは十字架に掛かって下さった。自分の計画、自分の考え、自分のやり方ではなく、神様のご計画が成されていく時に、人間は本当の意味で生き生きとした命に生きることが出来るのです。正直に言いまして私達は神様の時をあまり意識していないのではないでしょうか。たまに大きな出来事があると「ああ、これだ。」と思うことはありますけれども。イエス様はいつでも神の時を生きていたと言えると思います。

 先日の協議会総会で、宣教師の松村先生にお会いしました。ウイクリフからインドネシアに行かれています。ビザが切れてしまい、ビザを取得するためにスポンサーを探さなければならなくなった。当時松村先生はアメリカにおりました。ある日の礼拝でビザを出すことの出来る人がたまたまインドネシアから来ていたのです。普通なら礼拝に出ているだけでは分からないのですが、2人を礼拝の中で紹介した。そして松村先生のビザのことを知った。考えてみたら何千キロも離れた距離です。それもたった1時間。そこをぴたっと合わせて下さって、自分達のビザの道を備えて下さった。その時に背筋がぞくぞくするような気持ちがしたと言っていました。考えようによれば、それは普通の何でもないことかもしれない。でももし"神の時"を意識しているとそれはすごいことです。神様はそういった出会いを私達の中にあちこちにおいて下さっている。私達がそういう目でそれらを見る時に毎日は驚きの連続かもしれません。しかし私達はそういう意識があまりないのでモノトーンのように、昨日あったように今日があり、今日があったように明日があるとマンネリ化した毎日しか過ごせない。『あなたがたの時はいつでもある』とはそういう意味合いなのです。そうではなく "神の時"というものがある。松村先生は自分1人のためにそんな何千キロものプランがあるとは恐れおののいてしまったと言っていました。考えてみればそんなことが皆さんのうちにもあったと思います。私達はこういう意識で生きる。神の基準、神の世界で生きることが大切です。先ほどの『だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく造られたものです。古いもの過ぎ去った。見よ。全てが新しくなった。』とは私達はそういう生き方が可能にされている。マンネリ化した毎日ではなく、ここにも、あそこにも神が関わって下さっていた。そんなことを味わえるような中に置かれているのです。

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5章8節)

 心のきよいとは「Single Eye」と言いますが、純粋に神に信頼して歩む人には生活のあちらこちらに神がおられる、神が私を導いてくれるのが分かるという生き方が出来ると言って下さる。私達はこの兄弟達のように、この世の何でもない出来事としてしかものを見てないのではないでしょうか。しかし『わたしの時はまだきていません。』という生き方はあまりしていない。でも私達も少しずつそういう生き方をさせていただくことが出来たらどんなに幸いかと思います。そしてここでイエス様はあなた方もそういう生き方に進みなさいと言っているのではないでしょうか。それを妨げているのは何でしょう。私達は神様の存在を根本から否定する、受け入れない心があるのです。兄弟達ほどイエス様の奇蹟を見ることが出来た人はいないでしょう。12弟子と同じ位知っていたかもしれない。にも関わらず兄弟達はイエス様を信じることが出来なかった。心と目が開いていないならば、どんなに奇蹟を見ても不思議を体験しても、そこに神様を見ることが出来ない。私達は「神様どうぞ私の心の目を開いて下さい。私が本当に神様を見ることが出来るようにして下さい。受け入れることが出来るようにして下さい。」と求めることだけです。神様ご自身が引き寄せて下さらなければそのことは見えない。私達が自分の心を砕いて、そのような心を下さいと祈るならばきっと神様はそのことをして下さるでしょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ー主の御告げ。ー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55章8〜9節)

 私達は神様の道を認められない。「神様、こちらの道の方がもっと良い道ですよ。」と自分の方がもっと博学で正しい道が分かるかのように考えたり行動したりしている。「どうして神様こうなのですか」と文句ばかり言ってしまいます。それは「あなたの道は間違っています。」と言っているのと同じことでしょう。そうではなく「あなたはこの中で何を教えて下さっているのですか。」と神様の道、御教えを受け取っていく姿勢こそが大切なのです。

 月に向ったアポロ13号の事故を知っていますでしょうか。地球から30数万キロ離れた時に酸素タンクが爆発し電気系統に不具合が生じた。温度もどんどん下がってくる。宇宙船に乗っていた3名はクリスチャンであった。その時に3人が思い浮かべた御言葉がありました。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10章13節)

 彼らは「神様、この約束がありますから、この約束にのっとってこのことをして下さることを信じます。」と祈った。彼らが帰還する可能性はほとんどゼロでした。その中で彼らが思いついたことは月面着陸する機体で地球に帰還するのはどうであろうかということでした。大気圏に突入する時には大変な熱が生じます。もし機体が熱に耐えられなければ一瞬で終わりです。色々と計算してみると限りなくゼロに近かったそうですが、神様に祈り委ねてただ信じて進んでいった。そして見事に帰還を果たした。彼らは月面着陸した飛行士よりも有名になりましたね。ジムラベル船長は「どんなことにも決して諦めない。神を信じ、神の内に未来と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の内にあるのだ。だから希望を失ってはならない。神への祈りは必ず聞かれる。だから勇気を持ち続けなさい。希望を持ち続けなさい。」とあちらこちらに行って語り続けていた。

 私達が"神の時"を意識し始めるのならば、こういうことを期待することが出来る。神の御言葉に信頼する生き方に進んでいく者でありたいと思います。私達はこの世の基準「どうせだめに決まっている。」という考え方に従って歩んでしまっている。それは正直モノトーンのように何も変わらない生き方ではないでしょうか。しかし聖書はそうではなく全てに"時"がある。イエス様はそういう生き方をしました。十字架に掛かる"時"もありました。兄弟達とは一緒には行かない。ここにも"時"がある。イエス様はいつも神の時に行動し続けた。私達はそこまでなかなか出来ないと思います。でもせめて1日に1回は神の時を意識してはどうでしょうか。「今日、1回は神の時があったかな」「神様が出会わせて下さった出会いはあったかな」と考え始めると見えてくるかもしれません。「あれは神様がおいてくださった。出会わせて下さった」それはワクワクするような生き方に変わるのではないでしょうか。イエス様と同じように私達も自分の思い、考え方にとらわれるところを砕かれて主の道に進んで行きたいと思います。そのために主の道こそが幸いであると覚えたいと思います。

「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55章7節)

 私達の生活の中に本当にこの主を覚える生き方を共にしていきたいと思います。
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