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2005年3月6日 日曜礼拝メッセージ

「主の時」



 新約聖書 ヨハネ7章25節〜36節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 昨日は「啓蟄」でした。気温が暖かくなってきて虫が土から出てくる季節ということですが、でも昨日は地上に出てきたら真っ白で冷たいものがどっさりあって再び下がって行ってしまったかなと思いますが。私達の信仰も穴から出て、神様をしっかりと見上げて立ち、飛び立っていくような信仰でありたいと思うのですが、様々なものが足をひっぱる。その中のいくつかが今日の中にも記されていると思います。ユダヤ人の中に潜んでいる弱さは、同じく私達の弱さでもあります。それを教えられ、主の恵みに豊かにされていきたいと思います。

人間の考えが神のことばに勝るのか?

「そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」(25〜27節)

 「仮庵の祭り」はユダヤ人達にとり、もっとも大きい祭りの1つで、多くの人がエルサレムに集まっていた。イエス様の兄弟達も「あなたは自分がキリストであると現わそうとしているのだから、こんな田舎ではなくもっと街中に行って奇蹟や色々なものを見せたらいいでではないですか。」と言っているのです。聖書には兄弟達も本当にはイエス様を信じてはいなかったと書かれています。その時にイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。あなた方だけで行きなさい。」と言われた。

 しかしその後にイエス様は密かにエルサレムに来た。それで終わりかと思うと、堂々と宮に立って人々に教えている。兄弟達と一緒には行きませんでしたが、神様によって行き、堂々とメッセージを語った。それを聞いた人々はびっくりしたのです。この人はどこからこんな知識を得たのか。その権威と力は他と比べることが出来ない。人々は、噂では"キリスト"という奴を捕らえて殺すと聞いている。でも現にイエス様は皆の前で堂々と語っているのに、長老達は何もしない。これはもしかするとユダヤの最高議会の議員達はイエスを"キリスト"と認めたということなのかと思いました。が彼らは慌てて「そんなはずはない。」と思いなおす。ここに彼らの考え方が『けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」』が出ています。

 当時の人々の間に広がっていたのは「キリストは突然やって来る。それはどこから来たのか分からない。超自然的にやって来る」と考えていた。キリストとは突然現われるはずだ。でもあのイエスはナザレから来たのではないか。だからあれがキリストであるはずがないという結論を出したのです。聖書の言葉を、自分達の考え、あるいは間違った考えに基づいて判断して、イエスはキリストではないと結論したのです。それに対してイエス様は

「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」(28〜29節)

 大声でというのですから、強調したのでしょう。イエス様は神様から遣わされたことをあなた方は本当には分かってはいない。マラキ書3章1節に『「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。』と書かれています。仮庵の祭りに密かに来たのに、突然宮でメッセージをし始める。恐らくこのことを語っていた預言の言葉でありましょう。でも人々はこれを受け取ることが出来なかった。イエスはキリストではないという結論が先にあったからです。さらに「わたしは神から来ているが、あなた方はその神を知らないから、わたしの言葉も分からない。」これはユダヤ人にとっては侮辱です。彼らは自分達こそ神の知識を知っている者だと思っていました。それが「あなた方は神を知らない。」と言われるのですから、カチンときます。そんな中である人々は、

「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。」(30〜32節)

 以前は安息日を破ったという理由で捕らえようとしていました。この時はイエス様が神様をご自分の父のように、そして自分はそこから来ている、これは神を冒涜する言葉であるとして捕えようとした。しかしその時は捕まる時ではなかった。このことを心に覚えておくべきです。神の時でなければ何も起こりません。私達はあまりにも心配しすぎです。明日はどうなるか、明後日はどうなるかとお腹を痛くしたりして。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5章7節)

 こんな素晴らしい約束があるのですから、もっと神様にお任せするべきではないでしょうか。このような時にイエス様は

「そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(33〜34節)

 「もうしばらくはあなた方と共います。しかし今は時ではないから捕まらない。でもその時には十字架にかかって、死んで、神の領域に行くのだ。天の領域に行くがあなた方はそこに来ることが出来ない。」と指し示していたのですが、彼らには何のことか分からなかった。

「そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」(35〜36節)

 分からなければ聞けばいいのに、彼らは呟いているだけ。そこから1歩神様の所に近づこうとはしなかったのです。そして考えたのは「ディアスポラ(離散したユダヤ人)」のところに行って伝道しようと思っているのかと考えたのです。今日私達はこの中から3つのことを学ばせて頂きたいと思います。

私達の考えを遥かに越えた神の御業

 第1に27節の『けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。』この言葉です。これが彼らの確信でした。これは"知られないメシヤ"という考え方があったのです。この考えがイエス様の言葉よりも優先している。神様の教えや戒めよりも、自分の考えの方がもっと素晴らしいと思っている。イエス様が自分は捕えられ殺されるであろうとと弟子達に言われた時ペテロは「そんなことが起こるはずはありません。」と言うと、イエス様から「下がれ。サタン」と言われたのです。私達も気をつけなければ自分の考えやこの世の教えの方が強くなって、イエス様が私達に語って下さっていることや警告して下さっていること、慰めや励ましを全部否定し無視して、その恵みを受けることが出来なくなってしまうことがある。私達は自分の考えが強くて神の言葉を否定してしまうことのないように、気をつけたいと思います。

 ある宣教師夫妻が言葉も分からない地に遣わされました。彼らは熱心に主に仕えました。他の宣教師が諦めて帰ってしまってもそこに留まり、一生懸命に伝えた。でもだれも救われる人が起きない。しかし長い間かかって導かれたのは1人の少年だけ。彼だけは心開いて福音を聞いて信じた。彼らに赤ちゃんが与えられたのですが、奥さんが召されてしまった。男手1人でどうやって赤子を育て、また宣教が出来るでしょうか。彼は失望の内に故郷に帰り「神がいたのなら何故こんなことを許すのか」と神様から遠く離れてしまった。娘は子供を欲しがっている他の宣教師にもらわれ、すくすくと神様を愛する子供として成長していった。

 何十年も経過した時に彼がいた地域のニュースが載っている記事を娘さんが見た。その地に大変なリバイバルがなされていたのです。記事には、多くの宣教師は帰って行ってしまったけれども、たった1組の夫婦は残り、1人の人に福音を伝えた。そこから広がり、今では地域のほとんどの人が信じるようになっていた。その宣教師の名前が書いてありました。それが自分の実の両親。あの少年を通してその地域に驚くべき御業がなされていた。父親は「神様は応えてくれない。何故こんなことが。」と思いましたが、彼らの犠牲が決して無駄ではなかった。でも彼は神様から遠く離れた生活をしていた。しかし娘さんが父親を訪ねその記事を見せた時に、最初はなかなか心が動かなかったそうですが、段々と心がもう1度戻ってきて、最終的には神様に立ち返ることが出来た。

 彼は「なぜ神様はこんなことをするのだ。」と自分の理解を越えた出来事が起きた時に神様を捨ててしまった。その地ですごいことが起きていたのも長い間知らず、自分も神様から離れた悲しい生活を過ごさねばならなかった。私達の中にも自分の思いが強すぎるとこうなってしまう。自分の思いが完全で一番だと思っていますと、どうしても他の考え方や神様のなさっているもっとすごい業を見ることが出来なくなっているということがある。私達は「自分の思いを砕いて下さい。自分の思いだけが正しいという考え方を砕いて下さい。」と祈っていくことが大切ではないでしょうか。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ。−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55章6〜7節)

 私達の目には「どうしてもこれはおかしい。」と思えることがいくつもあると思います。でもその時に私達の理解や思いを越えたもっと大きな高い業をなさる方のことを思い浮かべていきたいと思います。そしてそこに委ねていきましょう。

神様の時でなければ何事も起こらない

 第2に30節の『そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。』

 先ほども言いましたが、神様の許しなしには何事も起きないのです。この地上は直接的にはサタンが支配していますので、様々な災いや悲しみがあるのは事実です。でもそれとても神の許しなしには起きない。先ほどの奥さんが亡くなるなんて考えられないことです。でも彼らの犠牲の大きさがその地域の人に伝わったのでしょう。そしてそれがリバイバルの種となり、その地に福音が宣べ伝えられた。人の思いを越えた業がなされる。私達は余計な心配ばかりをするのです。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5章7節)

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10章13節)

 神様の尊いお約束をしっかりと覚えて頂きたい。そうするならば色々と思い煩うことが少なくなっていくようになるのではないかと思います。神様は耐えられない試練に会わせることはなさらないのです。ですから私達はもっとこの方に信頼していきたいと思います。もし何かが起きたとするならば、それは神様が許された時であり、それは確かにあなたが耐える力があるからなのです。神様は1人1人その歩み方を導いて下さる。ですから余計な心配をしないで『あなたがたの思い煩いをいっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださる』ここに立って歩んで頂きたいと思います。

神の恵みの時はいつか終わる

 第3にイエス様は『まだしばらくの間』と語られました。イエス様は様々な中でこの恵みを私達に伝えて下さっています。イエス・キリストがあなたのために身代わりとなって死んで下さいました。あなたの罪を認め、正直に告白し救いを求めるならば、あなたの罪は赦されて永遠の命を持ち、神の子供とされるのです。しかしこの素晴らしい特権は永遠にあるのではありません。この恵みはいつまでも無限にあるのではないことを心しておく必要があるかと思うのです。時が来る。その時までに私達はこの恵みにあずかる必要がある。

「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(第2コリント6章1〜2節)

 今はイエス・キリストを信じるならばだれでも救われます。だれにでも提供されている恵みの時ですが、これがいつまでも続くのではないのです。ユダヤ人達はこの恵みの言葉を聞きながら、心をかたくなにして聞こうとはしなかったと記されています。これは警告です。私達も神の恵みの言葉を聞くべき時があるということ。もしそれを失するならば、もはやそれを聞き入れて頂けない時が来るかもしれない。エサウという人物は

「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12章16〜17節)

 神の恵みが開かれていましたが、彼はそれを軽んじ受け取ろうとしなかった。そして後に「しまった」と思ってもそれが開かれなかったと記されているのです。私達は心開いて神様の恵みを受け取っていく者でありたいと思います。イエス様はユダヤ人達にそのことを警告しましたが、彼らは真剣にその言葉に耳を傾けようとはしなかった。神様は私達にも生活の只中で語って下さっている。その語り掛けの言葉を軽く扱ってはいないか。無駄にしてしまってはいないか。それを退けてはいないか。問われてみたいと思います。

 ナポレオンの時代の人でシャロネットという人物がいました。彼は事件に巻き込まれ無期懲役の濡れ衣を着せられた。彼は神様を信じていましたが祈っても聞かれず、遂に無期懲役になってしまった。彼は大きな失望の中で神様を否定し、捕えられた牢獄の壁に「祈りを聞いてくれない神などいらない。すべては偶然の産物。神などいない」と書いた。その日から彼の生涯は呪いと暗さと闇の世界に覆われた。牢獄には1ヶ所だけ光の入る場所があり、そこに種が落ちて芽が出ていることに気が付いた。ここで生きているのは自分とその芽だけだと思うと愛しくなり、枯れないように一生懸命に水を上げて育てた。日も入ってきますからすくすくと成長し葉も出して白と紫の花を咲かせた。彼は喜び、清々しいしい気持ちになった時に1つの聖書の言葉が思い出されてきた。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6章26〜30節)

 この言葉が彼の心に思い出された。すると「こんな小さな花に自分が水をあげているように、神様はきっと自分にも目を掛けて下さる。」という思いが戻ってきた。彼の信仰が小さな花により回復されてきた。壁に書いていた言葉を消して「全てを造り支配しているのは神。主の御名はほむべきかな。」と書き換えた。その後、彼の心ががらっと変わり、今までの暗い呪いに満ちた人生から、喜びや感謝や賛美が出てきて明るくなった。彼の変化に驚いた看守は理由を聞き、彼の話に感動して家に帰り奥さんに話した。あっと言う間にその話が広がり、ナポレオンの妻ジョセフィーヌにまで伝わった。彼女も大変感動して、「牢獄に咲いた花に感動するそんな美しい心をもった人物が悪いことをするはずがない。」ともう1度ナポレオンに再調査をするように言った。その事件が再調査されて濡れ衣であることが分かり、彼は解放されて明るい生活に戻ることが出来た。

 たった1粒の種として牢獄に入り込んできた神様の御手が、大きく花を咲かせた。もし彼がそこに目をとめずに「何だこんなもの」とつぶしてしまったなら、彼の人生は一生闇の中に閉ざされた人生であったでしょう。その1粒の種から「こんな1つの花でさえ目を留めてくださる神様はこの私にも。」という思いはその後の生涯を大きく変えていった。神様は私達にもあのこと、このこと、あの人、この人、時には嫌だと思うことを通しても語っておられ、導いておられる。もし感謝するならば溢れる喜びに変わることが、多くの場合に呟きと不平でつぶしてしまっている。神様が私達に語り掛けて下さり祝福の基にしようとされていることをひねりつぶしてしまっていることが多くあるのではないかと思うのです。

 私達はもう1度主がおられる、主が良きことをして下さる、主がここで何を語っているのか、何をしようとされているのかに目を留めていく者とされていきたいと思います。そして主がして下さっている良きことに感謝を捧げていく。今月のタイトルを「すべてのことについて感謝しなさい。」と1年のまとめは、やはりこれにしましょうと決めました、呪うべき事柄さえも感謝していく時に、それが祝福へと変わる。「神様はこのことも益として下さる」と信じる時に、私達の希望は明るく輝いていくのです。神様の御声を無にしないようにしたいと思います。私達は、神様を知っていると言いながら、神様の恵みを無にしてしまっていることが多い。神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。今は恵みの時、今は救いの日です。神様のなさっておられることの1つ1つを通して「主よ、教えて下さい。あなたに従います。これは何ですか。」と聞きながら恵みの中に歩んでいきましょう。そして主の御声を聞きながら素直に受けとめて、主の愛と慈しみをしっかりと味わっていくお互いとされていきたいと思います。

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