このページについて
2005年3月13日 日曜礼拝メッセージ

「生ける水の川」



 新約聖書 ヨハネ7章37節〜39節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 私が学んだ神学校のそばに、善福寺川が流れています。そこには鯉が放流されています。本当かどうか分かりませんが、鮎もいるという話を聞いたことがあります。今は浄化されていますが、当時は汚い川です。しかしそこに鯉や鮎が住むことができた。善福寺川には泉があり、水がこんこんと湧き出ているので、周りから生活排水が入ってきても魚が住める。部分的にきれいな川になっている。アメリカの西海岸からロッキー山脈に向うと、あちらこちらに湖が見えるそうです。春先には雪解け水で水が満々とたたえられているのですが、夏になると、ある湖は水があるけれども、別の湖はカラカラだそうです。泉を持っている湖は夏でも水が湧き出ますからいつでも水が満杯になっている。

 今日ご一緒に学ばせて頂きたいのは、私達もそのような泉が湧く者になることが出来るということです。そして是非ともそのように生かされたていきたいと思います。

あなたは渇いていますか

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37〜39節)

 聖霊が働いて下さる時に、私達の心から"生ける水の川"、喜びが溢れるようになると言っているのです。あなたの心からはそのような命が湧き出ていますか。それはちょろちょろではなくて、大河のように流れる。「私は例外でしょう。」という方、そんなことはありません。聖書はこう言っているのですから、聖書の言う通りに味わっていきたい。ではそれを受けるためにはどうしたらよいのでしょうか。

 イエス様は『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と言われました。唯一の条件『だれでも渇いているなら』です。問題は渇いているかどうか。「私は満ちているので大丈夫。」これではだめなのです。渇いているなら人はぐっと飲みます。夏の暑い日に喉がカラカラの時に飲む冷たい水は一番美味しいと思いませんか。その時はジュースやコーラよりも冷たい水こそが「美味しい」と感じるのではないかと思います。でも寒い日に十分飲んでいて渇いていない時に水を出されても、何の魅力もなく飲みたいとは思いません。飢え渇いているならば、水は素晴らしいご馳走であり、ゴクゴクと飲むでしょう。しかし渇いていないなら何の役にも立ちません。私達に大切なのは"心に渇きを持っているか"ということです。私達の心は「大丈夫、間にあっています。」という状態になっていることがありうるのです。黙示録にラオデキヤ教会のことが書かれています。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3章17〜19節)

 私達は「自分は渇いている。」と感じることが大事なのです。ラオデキヤの人々は「神様を知っている。神様の恵みも知っている。だから大丈夫」と安心していた。自己満足が危険なのです。

 アフリカでの大リバイバル集会で一番満たされなかったのは主催をしたロイ・ルストンでした。他の人が皆満たされて「今日は何と素晴らしい日だ。」と喜んでいたのですが、彼だけは満たされなかった。「他の人は恵まれなければならない。私はそれを助ける側だ。」と思っていますから、その人自身は満たされない。私達は自分自身の足りなさを知り、飢え渇くことが大切です。私達が自分を正直に見るならば、愛のなさ、力のなさ、喜びのなさ、空しさや色々な物に渇いているのではないでしょうか。そして「そんなことを言っても仕方がない。この程度で我慢しよう。」と飢え渇こうとせず諦めてしまっている。キーワードは『渇いているなら』です。「私は本当に足りない者だ。渇いているのだ。」と導かれる者は幸いです。

渇く人は飲みましょう

 さて、次に、そういう人は『わたしのもとに来て飲みなさい。』です。これはどういうことでしょうか。次の言葉で言い代えています。『わたしを信じる者は』イエス様を信じる者、イエス様を信頼する者、イエス様にお任せする者、イエス様に期待する者ということです。私達はイエス様に期待しないで適当に違うのもので紛らわせたりしていませんか。「ちょっと空しいし孤独だけどテレビでも見よう。」とか。適当にそれをごまかし紛らわそうとしていることが多くはないでしょうか。だから私達は満たされない。本当に満たして下さる方はイエス様です。「イエス様、空しいのです。悲しいのです。寂しいのです。辛いです。」とイエス様の所に行くべきなのに、違うところでごまかしてしまう。だから私達は本当の満たしを体験できないことがあるのではないかと思います。しかし今や私達はイエス様により、神の新しい命に与ることが出来るのです。神の霊は「聖霊」又は「御霊」と言います。これは全く同じことです。神の御霊にあずかるメカニズムをきちんととらえておくことが大事です。

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒2章33節)

 これは「ペンテコステの出来事」と言い、聖霊がこの世に下った。それも私達の中に来て下さるという形においての初めての出来事です。旧約時代の人も聖霊を味わったことがありましたが、これは外からの力と言った方が言いでしょうか。でも今は内側で神の力を頂くことが出来るようにされた。

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1章27節)

 『あなたがたの中におられるキリスト』とはイエス・キリストがあなたの中に住むために来て下さるということです。これは大切な真理です。これが分かった時に孤独感や恐れや不安がすっと消えていきます。イエス様が十字架で死んで、父なる神の右の座に着かれなければ、この聖霊は注ぎ出されなかったのです。イエス様が高く上げられた結果、イエス様が父からこの聖霊を受けてペンテコステ以来、私達の中に聖霊が注がれるようになった。それは何故でしょうか。イエス・キリストを信じた人の罪は全部赦されていますから、そこに神の御霊が宿ることが出来るわけです。汚れた所に神の御霊が宿ることは出来ません。ですからイエス様の身代わりの十字架を受け取った人の心には神の霊が宿る。私達の中に来て下さるための全ての備えを既に成して下さったということです。では今度は私達の方ですがどうしたら聖霊を受けられるのか。

イエス様を信じると与えられるもの

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2章37〜39節)

「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ30章18節)

 私達が整えられたなら、いつでも神の恵み、最大の賜物も注ぎこんでくださる。必要なことはまず『悔い改めなさい』です。これは"神を神とする"ことです。今まで私達は己を神としてきた。自分の願うこと、自分が良いとすることを1番にしてきた。そうではなく、神の知恵、神ご自身を第1にする。私達の人生の土台を神とする。これが悔い改めということです。私達の基準で罪と思うことではなく、聖書が罪だと言っていることを告白し、それを捨てる決断をしていく。今まで罪と思わなかったことも聖書によると罪だった。それでは改めよう。その度に神様に従っていく決断が出てくると思います。"神を神とする"とはこういうことです。
 ところが、そうする時に「出来ない」のです。『隣人をあなた自身のように愛しなさい。』『あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』とここで出来ない自分に出会う。すると「イエス様、助けて下さい。」とイエス様への信仰が必要になってくる。 『そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』聖霊を受けるためには、イエス様を受け入れなければなりません。これは私達が「イエス様、助けて下さい。イエス様はきっとこの罪を赦し、私を救い出すことができる。」とイエス・キリストを自分の救い主として信じていく時に私達の内に聖霊の祝福が注がれていくと言っているのです。

「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」(使徒20章21節)

 聖霊を受ける条件は悔い改めと信仰です。「今までは神を神としてこなかった。これからは神様を神としていきます。でもそれが出来ませんからイエス様が助けて下さい。導いて下さい。そして私の罪のために十字架で死んで下さり私の救い主となってくれて感謝します。」と信じ受け入れますと、私達の内に神の御霊が宿る。これは皆さんが心からするならば1度すればずっと続くものです。その心は神様しか知りません。本当に心からであるならば1度限りで大丈夫です。

 新約はギリシヤ語で書かれていますが「エオリストケ」ずっと続くということが分かるのです。しかしその1度がずっと続いていつも神様の御霊の中に歩めるのか。そうではないのですね。そのためには、聖めの中にいつも歩み続けていくことが必要です。それには自分の罪を告白していかなければなりません。そうでないと直ぐに汚れてしまいます。そうなると聖い神の御霊が自由に働けなくなってしまいます。ですから私達はいつも罪の告白をしていくことが必要です。イエス・キリストを信じ信頼するなら難しいことではないのです。「イエス様は私の中に来て下さった。私の罪は赦されている。」と信じる。パウロは『このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1:29)』と書いています。「イエス様助けて下さい。イエス様それを成し遂げてください」とイエス様の力によって強められていくことが大切です。そしていつもこの方に委ねて任せしていくことが大事です。私達はキリストの力によって奮闘していく。パウロは「私は喜びに溢れています。」といいます。あるいは「患難は取るに足りないものだ。」とも言います。でも彼の受けた患難は大変なものでした。

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(第2コリント11章23〜27節)

 聖書は、クリスチャンになり神の御霊が宿っているなら、不幸はない、苦しみはないとは言っていません。パウロほど神様に熱心に仕えながら、しかし多くの苦しみを通ったのです。でもパウロは私の通った苦しみは取るにたらないものだと言う。それは私の内から流れるこの喜びの泉を知っている限りそれら苦難は取るに足らないものだと感じる。そんなすごい力を神様は私達に与えて下さる。私達はこの命を本当に知り味わっていると言えるでしょうか。私達はこの命にもっと飢え渇いて、満たして下さいと言える者になっていきたいと思います。

 中国は今も信仰の故に迫害にあっている人達がいます。労働改造所というところで非常な苦しみを受けるのです。しかし彼らの神への信頼と神への愛は彼らがどれだけ長く苦しい所に置かれたかに比例しているそうです。苦しみが長ければ長いほど、その人は本当に柔和な、親切な神の人に変わっている。「あなたはその中で何を学びましたか」と聞くと彼らは異口同音に「私は本当に神の愛と真実を学びました。」と言うそうです。私達は全てが順調で上手くいくことを願うのですが、そこに神の祝福が流れるのではない。苦しみの中でこそ、困難の中でこそ、神の命は豊かに燃えあがっていく。

 『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』と書かれています。力とは「デュナミス」と言いますが、この言葉からダイナマイトという言葉が出てきました。爆発する力です。キリストの力が私達の内にあるのですから、ものすごい力になるのは当然です。問題は私達がそれを出てくるようにしているかどうかです。この方に本当に信頼して委ねているかどうかです。それによりこの命が豊かに流れ出るかどうかが変わってくるのです。

 イエス様は『だれでも渇いているならわたしのところに来て飲みなさい。その人の心から生ける水の川が流れ出るようになる。』と言いました。クリスチャンになる前も嬉しいことはありましたが、内側から溢れてくる喜びは知りませんでした。信じた後でそういう命の喜びを味わうようになっていきました。その命が川のようになるというのです。そこまで私達は神様に信頼し、お委ねしていく者になっていきたい。その命に溢れる時に私達の愛はさらに周りの人に流れ、溢れていくような流れになっていく。神の御霊に満たされて歩むことを祈っていきたいと思います。

 南アフリカ共和国は白人絶対主義の国でした。ネルソン・マンデラ氏が大統領になり、それが変わりました。彼は27年間刑務所に入れられていました。刑務所から出て大統領に就任したのです。大統領就任演説の時に彼は1人の方を台に乗せたそうです。その人は自分が捕えられていた刑務所所長でした。所長はマンデラに良くしてくれたわけではない。でもマンデラは「これからこの国では赦しと和解だ。戦いや憎しみではない。」と言った。そして彼は赦しと和解の委員会を作ったそうです。それまで白人は黒人に対して酷いことをしてきましたが、もし正直にその当事者の所に行って自分のしたことをきちんと告白するなら、一切罪を問わないと言ったそうです。多くの人が今まで白人は酷いことをしてきたのだから、そんな処置はおかしいと言いましたが、彼は「この国に必要なのは正義ではなく、赦しと和解なのだ」と語った。

 ある聴聞会が開かれた。バンデブロイクという人でした。彼は黒人の18歳の少年を黒人であるという理由で銃で撃ち殺していた。そしてそれを隠すために全然分からないまでに焼いてしまった。そして数年後に少年の父親も捕え、ガソリンをかけて少年の母親の目の前で焼き殺した。母親に「あなたは今言いたいことがありますか」と聞くと「1つお願いしたいことは、丁寧に葬りたいので主人を焼いた場所の灰を持って来て欲しい。それから、これから月に1度私のいるゲットーに来て1日私と過ごすようにして欲しい。そうすれば私はあなたの母親になれるかもしれない。神様が本当に赦してくれていることを知って欲しいし、私もあなたを赦していることを知って欲しい。その証拠として今あなたを抱きしめたいが、いいですか。これからそちらに向います。」と席を立ってバンデブロイクの方に向っていった。その時に何人かの人が「Amazing Grace(驚くばかりの恵み)」を歌い始めた。でもその時バンデブロイク自身は圧倒されるその言葉の前に気絶してしまっていた。そんなことが本当にあるのです。

 神の命はこういう爆発的な力を持っているのです。私達の内からこういう命が流れているでしょうか。「渇いていなかった。そんなことはなくていいと思っていた。神様、本当に愛がない者です。」ともっと渇きましょう。そして「神様もっと変えて下さい。本物の主の僕にして下さい。イエス様、助けて下さい。イエス様が私の内に来て下さって感謝します。私にそのことをさせて下さい。」とそんな歩みに踏み出していきたい。その時に神の命が私を通して周りに流れ出していく。これが本当の伝道ではないでしょうか。共にこの恵みにあずかっていきたいと思います。

ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ