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「受難の意味」

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2005年3月20日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書イザヤ53章1節〜12節より
牧師 吉田耕三

今日は「棕櫚の日曜日(パームサンデイ)」と言われています。預言されていた通りにイエス様がロバに乗りエルサレムに入城した日です。皆が「ダビデの子にホサナ」と喜んでお迎えしたのです。「ホサナ」は「主よ、お救い下さい」という意味なのですが「万歳」という意味もあったと思います。しかしその同じ週の金曜日には、同じ民衆によってイエス様は十字架につけられてたという驚くべき変遷があるわけです。何故そんなにも人は変わってしまうのか。十字架とは何であるのかをご一緒にイザヤ書53章から学ばせて頂きたいと思います。

受難の預言

イザヤは紀元前740〜690年位まで活躍した預言者です。この53章を読むと聖書を知っている方は「これはイエス様にそっくり。」と思われたのではないかと思います。イエス様の生涯を見ているかのようにイザヤは預言をしている。しかしこれはイエス様がこの世に来る700年前の言葉です。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53章1〜3節)

こんな話を聞いたことがあるか、こんなことをだれが信じられるか。ひとり子は神の目には本当に麗しい若枝の様に芽生えた。しかし人々の目には『砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』のです。そしてこうも預言されているのです。

「多くの者があなたを見て驚いたように、−その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。−」(イザヤ52章14節)

「パッション」という映画をご覧になった方は多いかと思いますが、イエス様は血まみれであり、その顔は変形してしまうような状況でした。どんなにこれがむごたらしいものであったのかを想像するわけです。人の目には何も麗しくは見えない。それだけではなく馬鹿にされ、鞭打たれ、本当に悲しい辛いところを通ったのです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」(4節)

3節に『悲しみの人で病を知っていた。』とありますが『知っていた』とはイエス様が私達の病を負って下さったという意味です。

「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8章17節)

イエス様が私達の病を背負い、あるいは煩いを身に受けて下さったという意味において『病を知っていた』ということです。『だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』当時の人々はそれがまさか自分達のためだとは思っていないのです。「あいつは神を冒涜したからこんな目にあったのだ。十字架にかけろ。」それが成就したと彼らは思ったでしょう。しかしそれはだれのためであったのか。イエス様に対して唾をかけ、鞭を打ち、頭にいばらの冠を被らせた張本人のために、ただ黙々とその道を歩んで下さったことを私達は覚えたいのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

私たちは『私たちのそむきの罪』を普段知らないでしているのです。「イエス様はだれかの身代わりになっているのでしょう。私はそんな悪いことはしていない」と思っているその私達のためにイエス様は死んで下さった。私達は自分の姿や罪の重さが分からないのです。今日本当に知って頂きたいのは、それはこんな”私のため”であるということ。あの苦しみは本当は私が受けるべきであること。その私のためにイエス様は苦しみを受けられたことを受けとめさせて頂きたい。しかしそれだけではなく、それにより私達はその罪を赦され、罪から解放されている。その打ち傷のためにいやされている。この恵みに共に与らせて頂きたいと思います。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(6節)

自分が間違った道に進んでいるとはだれも思っていないかもしれません。時には自分は確かに間違っていると思う時もあるかもしれませんが、何もなく平穏無事な時には、そうは思わないでしょう。しかし、私達が神を認めないとことが最も大きな罪の1つです。そういう背きの罪のためにイエス様は代りに死んで下さった。私達が負うべき全ての咎を神様はイエス様に負わせた。だからあのむごたらい刑罰があったのです。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(7節)

殺される時にイエス様は黙々とそこに進んでいった。それだけではなく、毛を刈られる羊のように黙ってそこで待っている。そのようにイエス様は十字架を受けて下さった。愚痴を言うわけでもなく、だれに文句を言うのでもなく黙々とその道に歩んで行かれたのです。

「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」(8節)

群集達はまさかこれが自分のためであるとは思わなかった。他人事としてしか見られなかった。しかしイエス様は私達自身のために御苦しみを受けて下さったのです。

「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(9節)

墓に葬られることによりイエス様は罪人の1人となって下さったのです。『富む者とともに葬られた』イエス様が葬られた墓はアリマタヤのヨセフという金持ちの人の墓でした。700年前に語られた言葉通りのことが実際に起きているのです。

救いの成就

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(10節)

無罪の人、無実の人、罪を犯していない人がこんなひどい目にあう。背中は血だらけになり、肉片が飛び散る。頭には刺が10cmはあろうかといういばらの冠が刺さっている。手足には釘が打たれ貫通しています。脇腹には槍が突き刺された。こんなひどいことを神様は良しとされたのです。何故ですか。それによって私達の救いがなしとげられるからです。それほどに父なる神様はあなたを愛しておられるのです。

「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(11節)

イエス様は十字架の上で酢いぶどう酒を拒みました。酢いぶどう酒には鎮痛の役割があります。だからイエス様はそれを拒んだ。最後の最後まで痛みと苦しみを受け切って下さった。それは私達のためです。ユダヤでは窃盗の返済には5分の1増しで返さなければなりません。イエス様の贖いは100%ではなく120%、完全に赦して下さるものです。そのためにこの苦しみを完全に受けて下さった。このことを私達は深く心に刻みこんでいきたいと思います。『わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし』とはイエス・キリストを信じる者は義とされるということ。言い換えればイエス・キリストの福音を受け取らなければそれはその人のものにはなりません。そしてその人のために完全な贖いがあったということです。

「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(12節)

イエス様がご自身を罪過のためのいけにえとして完全に差し出して下さったので、私達は完全な赦しを頂くことが出来ます。更にイエス様は背いた人達のためにとりなして下さって、今も救いをさらに広げようとしておられる。私達はそのことを深く覚えたいと思います。

棕櫚の日曜日に大歓声の中でイエス様はエルサレムの町に入ってきました。ところが同じ町で同じ人々がたった5日後に十字架につけろと叫ぶ。イエス様はそのことを知っていたから十字架に掛かった。私達がそんなに弱く愚かであると知っていたからこの十字架があったのです。ペテロのことを考えて下さい。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカ22章31〜34節)

第1の弟子ペテロは『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』と立派なことを言いましたが、舌の根も乾かない内に彼は「私とキリストとは無関係だ。もしそうならば呪われてもいい」と言ってしまったのです。とりかえしのつかないような否定をしてしまったのです。何という弱々しい人間かと思うでしょう。しかしこれが私達の姿であるのです。ある時には「イエス様」と叫びながら、次には「十字架だ」と変わってしまう。平気でそういうことが出来る私達なのです。しかしイエス様はこのことを百も承知でした。ペテロは「俺は大丈夫。イエス様にしっかりとつながっているのだから。」と思ったその直後です。私達も高慢になるとふるいにかけられますね。「私はそんなに問題はない」と思ってしまうのです。自分がそんなに情けない者、簡単に人を裏切ったり、酷いことを考える者であることをもう1度明確にするため、そんな者であることを悟らせるために苦しみの中に置かれることがあります。ペテロも高慢の結果、ふるいにかけられた。私達も自分が何か分かってきた、神様のことを分かってきたと思ったら、高慢に気をつけて下さい。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章2節)

イエス様はペテロの高慢も、否定する罪も知っていました。だからそのために「わたしは祈りました」と言っているのです。イザヤ書にありますが、イエス様は私達のためにとりなして下さっているのです。もう自分はだめだと思うほどに遠ざかってしまっている時でも、イエス様はそのあなたのためにとりなして下さっていることを忘れないで下さい。そしてそれだけではなく、ペテロがその後に立ち直るのも知っていて、今度は「兄弟達を励まして力づけてあげて下さい」と使命を与えられるのです。

私達が立派だからではないのです。その上で私達が他の人の助けになりますと言って下さっていますから、皆さん安心して下さい。私達は「自分はこんな風ではだめだ。」と思うかもしれませんが、わたしはあなたの状態を全部知っているから十字架に掛かったのだよと言われることをしっかりと心に覚えておく時に、不思議に私達の内に力が出てきます。「こんな私」ですが、大事なのは「こんな私」に出会うことなのです。私達はそんな自分には出会いたくないのです。ですから適当にごまかしておきたいのです。そうすると自分がどんなにひどい者であるかに気付かない。「私もまあまあだ。」とか「そんなに酷くはないだろう。」と思っている。すると神様は高慢になっている私達をある状況に置かれ自分がとんでもなく弱く愚かで惨めな者であることを露呈させるのです。そこで「こんな私ではもうだめだ」と今度は落ち込み過ぎて「”こんな私”は神様は救いようがないのではないか」と思ってしまうのですが、そうではないのですね。私達が高慢になっていようと、落ち込んでいようと神様はその両方の中に伴っていて下さるのです。そして「わたしはあなたがそうだからこそ十字架に掛かったのだ。」と言って下さるのです。その時に十字架が何と麗しいことかと、感謝へと変わっていくのです。

私達はこの十字架にいつも合わせられて、十字架により命を供給して頂く必要があるのです。私達は立派なクリスチャンになって神様から色々な物をもらうのではないのです。惨めのどん底で「どうしようもない私を主よ、憐れんで下さるのですか。」とイエス様をしっかりと見上げる。その時に私達の心はいやされ、解放されて本当に力が湧きあがってくるのです。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(第1ペテロ2章21節)

「こんな私がなお赦されている。この私の罪が完全に聖められている。そこまで私を愛して下さっている。」と知る時に、このお方に仕えていきたい、この方に倣う者になっていきたいという気持ちになる。もし自分がそんなにひどくないと思うならば、十字架も大して嬉しくはないでしょう。しかしどうしようもない弱さを持つ者であると知る時に、とりかえしのつかないことをした者であると認める時に「こんな私が赦されている」ことの大きさ、偉大さが分かってきます。そしてこのお方に喜んで仕えていきたいという気持ちになるのです。

韓国は非常にクリスチャン人口の多い国です。その理由の1つは常識を超えた愛があるのです。ソン牧師は、ある時「どうして人々はこんなにもイエス様の愛を受け入れられないのだろうね」と息子に尋ねた。息子は「きっと皆は本当に赦されるということを知らないんだよ」と答えた。朝鮮動乱の時に北から攻められて息子2人が殺されてしまった。その犯人が軍法会議にかけられ、死刑に処せられることになった。ソン牧師は「その人達を赦してあげて欲しい。私は彼らを自分達の子供として受け入れたい。」と小さい子供がそれを伝達に来たそうですが、その場がシーンとなった。実際にソン牧師夫妻は本当に犯人2人を息子として迎え、彼らもイエス様を信じ悔い改める者となっていった。こんな考えられないことがあちらでもこちらでもあります。

“こういう私が赦されている”のだから、彼らもまた赦すことが出来るようになっている。イエス様は何の責任もないのにいばらの冠、鞭打ち、脇腹の槍、釘打ちを受けて下さった。それは本当にどうしようもない私達のために。私達の本当の深い心の傷、闇、そこにイエス様は来て下さり、そのためにイエス様が死んで下さったと知る時に私達に変化が起きます。自分のために死んで下さったという真理をもう1度心に受け止めて私達も新しい旅立ち、十字架により新しい命に与っていく者となりたいと思います。

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