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2005年4月3日 日曜礼拝メッセージ

「イエスとは誰か」



 新約聖書 ヨハネ7章40節〜52節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 2005年度に入りました。再びヨハネの福音書から学んでいきたいと思います。(「?」マークの書かれた白い紙を手にして)皆さん何が見えますか。「?」マークだけですか。「?」マークはごく一部です。周りのほとんどは白い紙の部分です。でも私達は「?」マークだけに目がいってしまうのではないでしょうか。あるいはこれ(騙し絵)はどうですか。ある方には2人の人が向き合った絵に見えるでしょう。ある方には花瓶に見えるでしょう。同じ絵ですが、人により違った絵に見えるのです。私達の物の見方、考え方はこんなにも違うということです。私達は知っている、見ていると思ってしまいやすいのですが、そうでないことが沢山ある。私達はもっと心を開いて素直に色々なものに耳を傾ける、目を開くべきではないかと思うのです。今日ご一緒に学ぼうとしているのは反対に、偏見や悪意に凝り固まった人達がどんな結果をもたらすのか、どんな考え方をするかを通して戒めを受けたいと思います。

悪意と偏見が目を曇らせる

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。」(ヨハネ7章37〜44節)

 仮庵の祭り最後の日にイエス様が『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と言われた箇所から学びました。私達がイエス様に心を開く時に私達の内にも永遠の命の水が注がれ溢れるのです。これは"御霊"のことです。その語り口調はレビ(教師)と言われる人とは全然違っていた。確信と権威を持って語られる言葉であった。それ対しての別々の反応が起きてきたのです。

 1つめの反応は、目の見えなかった人が見えるようになった、歩けなかった人が歩けるようになり、重い皮膚病の人がいやされたのを見た彼らの中のある人達は『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』というのです。これは申命記に記されている預言です。そこには救い主はモーセのような預言者として来られると言われていたのです。モーセは紅海の水を2つに分けました。天からマナも降らせました。ですから真の救い主とはモーセよりも大きなことを成し、イスラエルを世界の冠たる国にしてくれると考えたのです。

 でもイエス様はちょこっと奇蹟を行うくらい。彼らは盛大に国を再興してくれることを期待したのですが、それに反して「少しだけだな」と思ったかもしれません。でもイエス様の「だれでも、渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」の言葉に、ある者は「あの方は、確かにあの預言者に違いない。」と言ったのです。でも公にではなくにひそひそと話しをしていたようです。公言すれば、指導者達から酷い目に会わされますから、彼らはこっそりと言っていたのでしょう。

 2つめの反応は『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。』という人々です。ガリラヤは偏狭の地であり、少し見下げられた場所でした。「あんなガリラヤから救い主が出てくるはずがないではなないか。」というニュアンスがあるのです。実は知っていると思っている彼らこそ知らなかったのです。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9章1〜2節)

 彼らの偏見はガリラヤみたいな田舎から救い主が出てくるはずはない。出てくるのはエルサレムかベツレヘムだ。第一に、ベツレヘムに生まれるという預言があるではないかとの思いこみや偏見の故にイエス様がキリストであると認めることが出来ないのです。彼らはイエス様がベツレヘムで生まれたことに気付かないのです。自分の限られた知識だけで、「これは違っている。」と思いこんでしまった。彼らの聖書の理解不足であったのです。ところが彼らは「自分達は分かっている。」と言った。その結果、

「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。」(ヨハネ7章32節)

 心が開かれず偏見と悪意に固まっていた彼らはイエス様を見ても素直に受け取ることが出来ずに、役人を遣わしイエス様を捕えようとしたのです。救い主がガリラヤから出るわけがないと言うだけではなかった。彼らは正しいことをしようと思っているけれども、イエス様を捕まえるまでにいってしまったのです。

「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7章45〜49節)

 イエスを捕まえるようにとパリサイ人達が遣わした役人は、イエス様の語る言葉や態度『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』と宣言する姿を見て「この人はただものではない。」と手をかけることが出来なかった。白紙の心で素直に見るならばイエス様に対してこう反応するのが当然なのですが、本来一番最初にイエス様をお迎えしなければならない律法学者やパリサイ人達が役人に対して『おまえたちも惑わされているのか』と言うのです。そして議員やパリサイ人達などの上流階級者の中にイエスを信じたものがいるかとまで言うのです。そして律法を知らない民を"呪われた者"だと馬鹿にしたのです。

 ところがそこにニコデモという議員がいました。彼は非常に心の開かれた人物のようです。ヨハネ3章で学びましたがイエス様の所に1度来たことがありました。堂々と昼間に来ることは出来なかったので夜に来てイエス様に色々と聞いたのです。といいながらもこの時のニコデモは霊的なことは分かっていないのです。

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3章1〜5節)

 彼は聞く耳はもっていた。素直な心があった。あるいはイエス様の言葉を何度も心の中で反芻し考えたのでしょうか。そしてパリサイ人達が一方的にイエス様を切り捨てることはよくないと気付いています。

「彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」(ヨハネ7章50〜52節)

 律法にはこう書かれているから、イエス様の話を聞くべきではないかと諭すのです。しかし彼らは、自分達の意見に賛同しないものは敵であるという態度です。それで彼らは目の前にいたイエス様の恵みを逃してしまったのです。

 これは私達が持ってしまいやすい姿ではないでしょうか。この姿が私の中にもあることに気付かされることが大切です。私達も様々な偏見や悪意が入ってくると正しく見られないのです。いくらイエス様がすごいことを見せても彼らは「悪霊の頭(かしら)がこれをやっている」と言うのです。私達の中に潜む悪意は小さくないことに気が付くべきです。

「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7章20〜23節)

 イエス様が一番最初に指摘する罪のリストは『悪い考え』です。素直に受け取るならば、役人達でさえ、イエスに手をかけるわけにはいかないと結論できるような状況なのに、聖書に精通しているはずのパリサイ人達は、それを見ることが出来ないのです。私達は悪意や偏見に身をまかせてはなりません。そうするならば私達は重大な過ちを犯す危険性があることを知って頂きたいと思います。私達も偏見のためにとんでもない過ちを犯してしまうことがあるかもしれない。私達の中に潜んでいる悪意や偏見に対してきちんと対処をすることが大切ではないかと思います。

 島根県で松崎外彦氏が伝道していました。島根は出雲大社のあるところです。そんな土地でキリスト教が簡単に受け入れられるはずはありません。酷い迫害があり、住む家もないので洞穴のような所に住んでいた。そんな中でも松崎氏は村の人達を愛そうとした。ある時、橋に穴が空いて壊れているに気がつき修理をしていた。その時に村人が「それこの時だ。」とばかり肥桶を持ち出して上から松崎氏にかけた。穴が空いていますから、全身汚物でずぶぬれになったばかりか、口にまで入ってきた。そんな時でも一言も文句を言わずにじっと祈っている姿を、1人の娘さんが見ていた。彼女は村一番の金持ちの娘でした。彼女が病気になり亡くなる寸前「何か願いがあるか」と聞かれた時に「あの村に来ているヤソの先生を呼んで欲しい。」との要望に、普通なら出来ないことでしたが、死に際の願いということで、誰にも見られないように松崎氏を呼び出し、枕元で聖書の話しを聞き、彼女は素直に受け入れ信じた時に彼女は心が変わった。すると体も元気になった。そして心も満たされて、村の子供達を集めてイエス様を伝えるようになった。

 こうなると親は元気になったと思ったらヤソにたぶらかされている。何か悪い物が憑いているからだとあの手、この手で霊媒師などを呼んだ。彼女は狂っているからと座敷牢に閉じ込められ彼女は再び体を壊して亡くなっていった。悪い物を取り去るようにと立派な仏式の葬儀が執り行われた。彼女の世話をしていた乳母が彼女がいつも座っていた座布団を遺品としてもらった。触るとゴワゴワするので、中を開けてみるとノートが入っていた。でも乳母は字が読めないので、彼女の家に持っていった。そのノートを読んだ家族はびっくりしたのです。気が変になった、変な物に憑かれてしまっていたと思っていた娘は、自分に酷い仕打ちをする家族のために熱心に真剣に愛を込めて祈っている言葉をノートに書き連ねていた。ヤソは間違っているという思いで自分達は娘を殺してしまった。娘の気持ちに何とかして応えたいと、松崎氏を迎えてもう1度キリスト教式の葬儀をやり直した。そして「私達家族は本当に娘を偏見と悪意で見殺しにしてしまった。今私達は家族全員でこのキリストを信じます。」といって村で初めてのクリスチャンになったそうです。その時から宣教が広がっていき田舎ではありますが、大きな会堂が建った。偏見と悪意で自分がいじめられても、殺されてもなお、家族を愛してやまない言葉を書き連ねた。

 私達の内に潜む悪意と偏見にしっかりと目を開けてこれを悔い改めさせて頂く必要があるのではないでしょうか。多くの偏見と悪意と偏見を私達は自然にもってしまうのです。これを悔い改める者にならせて頂きたいと思うのです。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8〜9節)

「私は大丈夫」と言ったら自分を欺いていることになると言っているのです。「私は本当に偏見があるのだな。悪意を持っているのだな。」あるいは「私は裁く者だな。不信仰な者だな」と認めることが大事なのです。「これは相手が悪い。状況が悪い。環境が悪い。」と言っている限り解決がつかないのです。でも「この問題は私にある」と言えたならば幸いです。何故ならそこには赦しと聖めがあるからです。私達が「そうです。私は悪意を持っているのです。私は不信仰なのです」と様々な罪を認めていく時に、神様はその罪を赦し聖め解放して下さるのです。この恵みにしっかりとあずかっていきたいと思います。

 イエス様は山上の説教で『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』と言ったのです。神様を見る方法は心を聖くすることです。そのために必要なのは1つ1つ罪を告白することです。そうするならば私達は見えるようになる。本当はあそこでもここでも神様は働いているのですが、私達の曇った目、不信仰な目には神様がおられるのが見えないのです。神様が働いておられる愛の業が見えないのです。「神は私を見捨てられた。神はおられない、」と考えてしまう。そうではなく私達の内にある偏見や悪意を聖めて下さいと告白していくことが大事だということです。このことをしっかりと心の内に覚えて頂きたいと思います。  

その場から1歩1歩と歩んでいく

 この中でたった1人反論したニコデモのことを考えてみたいと思います。ある人は彼は信仰を隠してイエス様の所に行ったのだから、信仰の弱い者だという言い方をする人もいます。周り中が反対している中で「いや、律法にはこう書いてある」と言うことは大変な勇気であると思います。確かに立派な信仰とは言えないかもしれません。「年をとってどうやって生まれ変わるのか。もう一度母親の胎内に入るのか」というような受け答えしか出来なかった彼ですが、真剣に聞く耳はもっていました。そしてイエス様のことも真っ直ぐに聞こうとしていた。

 イエス様が十字架に掛かった時には弟子達はみな逃げ去ってしまいました。ところが、アリマタヤのヨセフとこのニコデモはイエス様の遺体を十字架から取り降ろしたのです。弟子達は命の危険を恐れて逃げたのです。その中で遺体を取り降ろし、香油を塗り墓に収めたのがニコデモです。弱いと言われているニコデモです。私達の信仰生活も色々な時があると思います。立派に華やかに信仰を証しすることも素晴らしいでしょう。正直それが出来ないで悩んでいる時も私は素晴らしいと思います。

 私自身も日曜日に教会行く時に「どこに行くんですか」と聞かれると「ええ、ちょっと」としか言えなかったです。「教会に行くのです。皆さんも行きませんか」と言えたら素晴らしいかったのですが、その勇気も信仰の力もない。本当に恥ずかしそうに歩むしか出来なかった。私はキャンプで信じたのですが、皆がどんどんと信仰告白をしていく中で、私も最後になってひっそりと手を挙げましたが、そのことを誰にも言えなかったのです。「月足らずで生まれた」とパウロは言っていますが、そんな信仰でした。しかしそんな者をも神様は何とか維持して下さり、こうして皆さんにお話するようにさせて下さった。私達は最初からつきぬけた信仰になれればいいのですが、そんな風にはなりません。最初はウジウジとしていることが多いのではないですか。でもそのことでめげないで下さい。

「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3章16節)

 私達は他人を見てしまうのです。「あの人はこんなにすごい。では私も」と他人と比べてようとするのですが、これはやめて下さい。これはこれとして自分が立っている所を基準として進むべきです。分かっているならば分かっている、分からない所は分からないでいいのです。神様はそこから1歩、2歩と進ませて下さる。全然分かっていなかったニコデモは、遂にはイエス様のために命をかけて遺体を降ろすまでに変えられていったのです。

 私達も今立っているところから始めましょう。今あるその姿で、与えられている信仰でそのまま主に従っていく時に、主が私達を引き上げて下さるのです。この生き方を学んでいきたいですね。ニコデモがここで出来た精一杯のことは「律法にはこう書いてあります」と言うことだけでした。ここでこう言えたのは立派です。それぞれ今立っている場所において出来ることをしていきましょう。神様はそれを用いて次の1歩、次の1歩を導き祝福して下さいます。私達の内にある偏見や悪意を祈り告白しましょう。持っていけないのではなく、私達は持つ者なのですから「持ちました」と祈ればいいのです。そうするならばイエス様は十字架で全部赦し聖めて解放して下さるのです。弱さの中で「主よ。私にもさせて下さい」と立ちあがらせて頂きたいと思います。

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