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2005年4月10日 日曜礼拝メッセージ

「私もあなたを罪に定めない」



 新約聖書 ヨハネ8章1節〜11節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今日の箇所は神様の愛、イエス様の愛を示して下さっているとても分かりやすい個所ということが出来ると思います。この箇所をご存知の方はたくさんいます。しかしヨハネ7章53節から8章11節まで括弧でくくられていることはご存知でしたか。注釈を読みますと「古い写本のほとんど全部が7・53−8・11を欠いている。」と書いてあるのです。元々この箇所はヨハネが書いた時には含まれていなかったであろうと思いわれます。聖書は書き写されてきていましたが4、5世紀の写本にはこの記事が載っています。恐らくヨハネが語らんとする真理が非常に分かりやすいので、この記事が定着してきたと思います。この出来事は、ヨハネが書いた時には記されていなかったけれども、神様はそのことをなさったであろうし、またイエス様がどんなことをなさったのかということを学ぶのには少しもまずいことではないと思います。この出来事からご一緒に学ばせて頂きたいと思います。

罪のない人から

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(1〜5節)

 イエス様がオリーブ山から下りて来て、宮で民衆に話をしようとしていた。すると律法学者やパリサイ人達が姦淫の現場で捕えられた女性を連れて来た。姦淫の現場で捕えられることは滅多にないのではないですか。後で噂が飛ぶことはあるでしょう。聖書は証人が2人いなければ正しい裁きを行うことは出来ませんと言っていますが、現場で捕まえられたならば逃げようも誤魔化しようもありません。そして「イエスよ。お前はこの女をどうするのか」とイエス様を策略にかけているわけです。

「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(6節)

 イエス様を捕まえ酷い目に会わせるため、あるいは人気をなくすために仕組んだ罠ですね。当時、妻に気に入らないところ、食事がまずいとか、言葉が悪いとかが出てきたなら文章を書けば直ぐに離婚が出来たのです。ある人達は妻が道路で違う男性と話したというだけで離婚の原因になるのです。女性には何の権利もない時代です。離婚状を書いて正式に離婚するならばいいのですが、離婚はしない、でも世話もしない、お金も渡さない、何もしないという夫もいた。すると妻は不品行なことで生計を立てる。すると人々から責められた。ですからせめて離婚状は書いて彼女達が自由になれるようにしなさいと女性をかばった律法であったのです。離婚状を書けば離婚が出来る。女性は何も文句が言えずに出て行くしかない。ところが1つだけ残念なことがある。女性が結婚の際に持って来た物は全部持ち帰ってしまうのです。男性はそれがもったいない。姦通罪の決まりはその場で殺されます。そうなれば財産も自分の物になりますね。私の想像ですが、この女性は夫がそう仕組んだのではないかなとも思います。というのは現場で捕まるとことは滅多にないことだからです。そして相手の男性は逃がして女性だけを捕まえてイエス様に詰問したという状況ではないかと想像出来るわけです。イエス様はその辺のことを全部ご存知だったかもしれません。指で地面に何かを書かれていたのです。人々はイエス様が何も答えないので、しびれをきらせて迫るのです。

「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 少し説明しておきますと、これが彼らの策略であるのかというと、ユダヤ教の教えでは姦通者は死罪です。イエス様は愛の人として知られていたのです。でもいざとなれば結局は同じではないか。もしここでイエス様が彼女に「死刑だ」と言えば一気に人気が落ちるでしょう。それで彼らの目標は1つ達成出来るわけです。反対に彼女を赦せというなら、「お前は律法を破るのか。ならばお前が神から来たはずがない」と攻撃することが出来ます。どちらにしても律法学者やパリサイ人はイエス様を攻撃出来たのです。イエス様はそれを知ってか知らずか地面に字を書き続けていた。それでもやめない彼らに「よろしい。石を投げなさい。でも罪のない人から投げなさいよ。」とこの一言で逆転です。今まで責めまくっていた彼らは年を取った者からいなくなっていった。

「そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」(8〜9節)

「人が寛容になるにはどうすればいいのか」という質問にゲーテは「年をとれば寛容になる。」と答えています。それは年を取れば多かれ少なかれ犯さなかった罪であってもその危険を通ってきた。もう1歩危ないところを通ってきているのであって、そんなに偉そうなことは言えない。年を取れば取るほどに私達は自分がどんなに醜く、汚れた者であることを知っているのだ。だから一方的に人を責めることも出来なくなってくると彼は言っています。

 イエス様はこの一言により彼らが女性に何の手出しも出来ないようにしました。そして彼女は「よかった」とその場所から逃げていくことも出来たかもしれませんが、そこにとどまっていた。姦淫の現場で捕えられて公衆の面前に引き出され、着る物も身につけているかいないかの露な姿で、どれほど惨めな悲しい恥ずかしい気持ちかを想像して下さい。

「イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(10〜11節)

「婦人よ」と呼びかけています。これは女性を蔑視したのではなく本当に人格的に高く認めた言葉です。色々と人から責められて、自分でもそこに居たたまれない気持ちがあったと思います。イエス様は「あなたは『婦人』である。神のしもべ、大切な存在なのだ。」とこの言葉から始るのです。次に「あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」そして「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と彼女に語られるのです。

 今日のテーマは「わたしもあなたを罪に定めない」です。イエス様はこのことを私達にも語っている。神は地上にいる間、裁いてはいない。しかしイエス様が再び地上に来られる時には本当に裁きます。私達はそのことを恐れなければなりません。でも今の時代イエス様はどんな罪をも裁かないことを今日はしっかりと握って帰って頂きたい。しかしそうなるために私達に覚えなければならないことがいくつかあるように思います。まず第1にはイエス様の「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉。私達もまた非常に人を裁くような者であると思いませんか。人の粗や弱さや足りなさは探さなくてもすぐに見つかると思いませんか。欠点をあげようと思えば、いくらでも出てくるこれが私達です。ところが自分自身はなかなか見えない。自分の顔は鼻の先が少し見えるくらいであとは全然見えない。彼らもそれまでは「何という奴だ。こんなことをどうするのだ。死刑だ」と酷く厳しい言葉が出ていましたが、イエス様が「いいですよ。その代り罪のない人から」と言われた時に、もはやだれも一言も言えなくなってしまったということは心にとめおくべきことではないでしょうか。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7章1〜5節)

「裁いてはいけません」このことをしっかりと心に留め置きたい。「あなたがたの中で罪のない人から石を投げなさい。」この言葉をしっかりと心に植えつけたいと思います。 「あなたがたは肉によってさばきます。」私達も四六時中裁いていると思いませんか。私が一番最初に示された罪は裁きでした。評価ではなく裁くのです。でもそれに気付いていなかったのです。私は自分があまり人を裁かない者であると思っていたのです。しかし神様の光が入って来た時に、それが私の本当の罪であると分かってきたのです。イエス様ですらこの世で裁かないのに、私達は随分とイエス様の権限を越してしまっている。イエス様だけは石を投げることが出来たでしょう。イエス様が投げなかったのに私達は次々と石を投げている。或いはあの人にはこの石、この人にはこっちの石と沢山の石を持って投げたいと思っていませんか。やっている人もやっていない人も心で思えば同じです。ところが、私達は裁いてないと思ってします。私自身の中にも裁く言葉や思いは常に出てきます。でもイエス様が裁かなかったことをいつも心に覚えたい。そして赦すことは愛することであることを共に覚えたいのです。

 そしてもう1つのことはこの女性がイエス様のところから離れなかった。誰も石を投げる者がいなかったのですから「良かった。さようなら」と去って行くことも出来た。でも彼女はイエス様のところに留まったのです。そしてイエス様から「わたしもあなたを罪にさだめない」という言葉を聞いたのです。私達は言い訳や弁解や誤魔化しをして逃げていこうとすることがあるかなと思います。彼女はイエス様のところから離れないで、イエス様からこの言葉を聞いたのです。姦淫の現場ですから否定しようがありません。誰よりも辱められた、自分でも居たたまれない状況の彼女に対して「わたしもあなたを罪にさだめない。婦人よ」と言ってくれているのです。そしてイエス様の「わたしはあなたを罪に定めない」とこの言葉を聞く時に、私達は人生がリセットされ、新しい歩みが始っていく気がします。

 以前にもお話をしましたが、アクロバット飛行の飛行機が頂点に到達したところでエンジンが止まってしまった。無事に着地して飛行士は助かりました。実は燃料にジェット燃料を入れてしまっていた。整備ミスで飛行士は危うく命を落とすところでした。整備士は自分のミスでこの事故が起こったのですから、何を言われても言い訳は出来ない。ところが整備士は飛行士からの信じられない言葉を聞いた。「君は自分がしたことは分かるね。2度と同じ過ちをしないことを僕は信じる。だから次の整備も君に任せるよ。」と、どれだけ彼は心を込めて慎重に慎重をきして整備にあたったことでしょう。赦されるというのはものすごい力を私達に与えるのです。私達はこの赦しを本当に受け取っているでしょうか。イエス様の十字架は私達の罪を完全に聖めます。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1章7節)

 こう語っていますが、本当に100%赦されている。私の人生はリセット出来ると本当に信じておられたでしょうか。まあ、赦してくれるところもあるし、新しくなるところもあるけれど、そこそこだとね。そんなことを言わないでイエス様は100%赦してくれたと言える確信に是非立って頂きたい。この時に私達は変わり始めるのです。

 罪深い女と呼ばれている女性の話があります。同じ町にパリサイ人シモンという人がいました。彼は非常に生真面目な人です。この女性がその家に行けば何を言われるのか百も承知でイエス様がシモンの家に来たことを聞くと、矢も盾もたまらずに出掛けていくのです。そしてイエス様のところに行くと涙を流してイエス様の足を髪で拭って、頭に香油を塗った。

「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ7章36〜50節)

 彼女はどこかでイエス様に会って、そして赦された。こんな罪深い私が赦され、愛され、受け入れられていることを彼女は知ったのです。そうしたらどんなに非難されようとも、どんな仕打ちを受けようともイエス様を愛したい心でたまらなくなった。自分が本当に赦されている、受け入れられている、愛されていることを知る時に私達にこういう変化が起きてくるのです。自分の生活の全てですよ。正直に言って皆さんの生活の中で神様の御心にかなって生活をしている時間はどれくらいありますか。24時間あるうち殆どの時間が自分の身勝手な思いの中で生きていると思いませんか。もし罪だと言うならば全てが罪であると言っても言いすぎではないのではないでしょうか。愛がある振りをするのが私達ではないでしょうか。良い人の振りをする。その様な状況ではないかと思います。でも知って下さい。その全ての罪も弱さも惨めさも愚かさも、イエス様の十字架はそれを全部赦しているのです。もし自分がそのようにされているのを知るならば、もはや私達は人を責めることをしなくなってくるでしょう。先ほどゲーテが年をとった人と言いましたが、本当に自分が赦されたことを知るなら、人のことを責めることが出来なくなってくるのではないかと思います。そしてその力は人目を忍ぶような彼女が大胆にイエス様に近づき愛を現す力に変わってきたのです。私達もこういう主の赦しをもっとしっかりと受けとっていきたい。主の愛を受けとっていきたい。その時に私達は本当に変えられていくことが出来るのです。

 三重苦を背負ったヘレン・ケラー。世界中の博愛のために用いられた彼女を生かしたのはアニー・サリバン女史です。どれほど苦労して彼女を育てたのか分かりませんが。こういう人にとって非常に分かり難いのは中傷的な概念です。ある時に彼女は聞いたそうです。「愛とは何ですか」言葉が通じませんから非常に分かり難い。その時にヘレンは「あなたが初めて私のところに来て下さった時に、知らないうちに私の頭の上にポタポタと落として下さった熱いもの。涙。これではないですか。」本当にどうしようもなく手のつけようもなかったヘレンに涙をもって接してくれたサリバン女史に愛を感じた。それが本当にキリストによって変わっていく基本となった。私達もこの愛を知ること。無条件で赦して下さる愛を知っていくこと。これが私達の力であります。あなたの罪は本当に赦されている。「わたしはあなたを罪にさだめない。」この言葉をいつも思い起こして下さい。いつも自分が「何て自分なんだ」と思った時に「わたしはあなたを罪にさだめない。もうけっして罪を犯してはなりません。」前に向って進みなさいと言って下さっているイエス様の声をしっかりと受けとっていきましょう。そしてこの愛に満たされて、サリバン女史のようにこの愛を与える人と出来る者にされていけたならと思います。
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