このページについて
2005年4月17日 日曜礼拝メッセージ

「わたしは世の光です」



 新約聖書 ヨハネ8章12節〜20節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 4大聖人という言葉があります。釈迦、孔子、マホメッド、そしてイエス様。この方々はどの方もへりくだった謙遜な方です。彼らの言葉の中に「我 明日に道を聞かば 夕べに死すとも 叶り」があります。「私は朝に本当の生きる道を知ることが出来たならば夜に死んでも惜しくはない」という意味ですね。「本当に私は真理を求めています」という告白です。あるいは、ある弟子が「先生、死ぬとはどういうことでしょうか。」と聞くと、師は「我 今だ生を知らん。いずくんぞ 死を知らんや」「私はまだ生きるということも分からないのだから死について語ることなど出来ない」と答え。本当に謙遜な姿です。これに対してイエス様の言葉を思い起こす時にどうでしょうか。

 イエス様は『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14章6節)』「私だけが絶対。他はだめ」という排他的な教えではないでしょうか。しかし正直に言いますが、キリスト教の教えは本当に真実そのものか、あるいは全くの邪教のどちらかです。残念ながら最近は"キリスト教"という名を使い、"教会"という名前を使い、聖書の言葉を使いながらその真理とは裏腹なことを平気で語る所が出てきていることに気を付けなければならない。私達は聖書の言葉そのものにしっかりと目を留めていきたいと思います。「私がキリストである」と言う人が大勢現われるという世の終わりの姿にも見えますし、「地獄に落ちる」というマインドコントロールをキリストの名前で行われているのは非常に残念であります。いちいち疑いすぎることはないでしょうが、そのために注意することは、例えばこういうメッセージを聞いた後「あれっ」と思う時には帰ってからご自分で聖書をめくって、聖書が本当にそう言っているのかと確認するのは大事なことです。

 使徒行伝の17章にベレヤの町の人々のことが書かれています。彼らはパウロやシラスという当時の一番優れた伝道者達の言葉が果たして本当かどうか聖書を調べた。そして彼らは信じたと書いてあります。いい加減なことを言われて、それを鵜呑みにしてしまう危険性もあるかもしれない。私達が信じるべきは"聖書の言葉"です。果たして本当にそう言っているのかをきちんと調べる。そして言っているならばそれをきちんと受け取っていく必要がある。聖書の言葉は「そんな良い言葉もあるのだ」というような軽いものではなく、命をかけてイエス様が私達に下さっている言葉である。そういう訳で、まだ信じていない方は真剣に調べてみることをお勧めします。本当にこれが信頼するに足るものであるかどうかを考えて、本当にそれが正しいと思うのであれば、本気になって従っていくその時に大きな祝福を頂くことが出来るのではないかと思います。今日の12節以降からもそういった素晴らしい言葉ですが、これも気安く聞いてしまったならばあまり助けにならない訳です。しかし本気になって聞くならば私達の内に力になっていくのです。

いのちの光を持つ者となるには

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12節)

 この世は闇です。でも闇の中で光輝く生き方が可能なのです。これが聖書が語る生き方なのです。少し背景を見てみたいのですが、

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37〜38節)

 これは仮庵の祭りという収穫感謝の祭りでの出来事です。祭り最終日には水の儀式があります。水によって収穫が出来たことを感謝するのです。その中で『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』と語られた。どんなに彼らは「ああ、それが欲しい」と思ったことでしょう。そこに続くのが今日の箇所です。水のことに続いて、今日は"光"について話された。『わたしは世の光』である方を私達は見ることが出来るようにされている。仮庵の祭りは大勢の人が神殿に集まってきます。神殿には異邦人の庭という場所があり、さらにそこには婦人の庭があります。これ以降は男性しか入れません。そこに仮庵の祭りになると、大きな燭台が置かれる。するとエルサレムの端の方からもその光が見えるのだそうです。そのことが彼らの目には映っています。その中でイエス様は『わたしは、世の光です』と言われた。仮庵の祭り最後日です。あんなに輝いた火も消えてしまう、衰えてしまう。でも衰えることのないまことの光がここにいます。わたしがそのまことの光ですと言っているのです。

 イエス様はまことの光であり、消えてなくなるような淡いものではない。確かに動かないまことの光を見出させるという期待も与えたのではないかと思います。そしてはっきりと『わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』と語られるのです。この世は闇ですが、私達はその闇の中にあっていのちの光を持ち、闇の中で輝くことが出来る。私達がそういう存在になる。クリスチャンは世の中に希望があることを「あの人を見ているとそうだな」と人々に思わせることが出来る存在だということです。どんな中にあっても平安と希望に生きることが出来る。闇があっても光の中にあって歩むことが出来る。それがクリスチャンなのです。前も後ろも周り中が全部埋められていても、上だけが開いていたとそこから希望が見えてきたというのがクリスチャンの生き方なのです。そういう生き方がだれでも出来ますと言って下さっている。これを本気になって受け取ったら私達の人生は本当に変わるのではないでしょうか。でもこの言葉に対してどういう反応をする人がいるかというと、

「そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」(13節)

 世の光であると言う言葉に「自分で『正しい』と言っていてもあなたが1人で言っていることでしょう。そんなのは信じられません」と反論する言葉。私達は肝心のことに水を引っ掛けてしまうことがあります。パリサイ人達は素晴らしいイエス様の言葉を信頼させるのではなく、却ってイエス様から引き離そうとする。まず第1にイエス様が信頼出来ない。自分で正しいと言ってもそんなことは信じられない。「わたしは世の光です」という中に「わたしは正しく救い主。神の子」というイメージがあったのです。ですから彼らはこのイエスが自分を神と呼んでいると考えるのです。それ故激しく反抗するのです。それに対してイエス様は

「イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」(14〜18節)

 ここでイエス様はきちんと反論なさるのです。彼らの「あなたの証言は信用出来ない。律法によれば1人の証言では信用出来ない。」確かに分かります。でもここでイエス様が言われているのは、「わたしはどこから来て、どこに行くのか知っている存在だ。あなた方はどのようにして生まれ、これからどうなっていくのか何も分かっていない。」と彼らと違うことを強調しました。私達も様々な分野の専門家の意見にはそれなりに敬意を払うのではないでしょうか。私達は医者がこの病気についてはと言えばその言うことを聞きます。法律ならば弁護士とそれぞれの分野の専門家の言葉に耳を傾ける。イエス様は全てを知って、どこから来て、どこに行くかを知っておられるのです。しかし私達は明日のことも分からない。でもイエス様は本当に分かっておられる。専門家の意見はそれなりに尊重すべきだと言いましたが、私達はもっと聞く耳をもっていいのだということを指し示した。それはイエス様はそれだけのことを知っている存在だからです。それだけではなく、あなた方は2人の証人が必要であると言いますが、わたしにはその人がいます。それは父なる神様である。これは別の箇所にあるのですが、

「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」(ヨハネ5章36節)

 イエス様の行った業を見る時に「なるほど神様から来ているのだな」と分かる。彼は大工の息子でしたが、どこで神様の知識を得たのか分かりません。正しく神の子供、神様から聞いたからこれだけの知識を持っていると思う圧倒されるような知識を持っておられた。神様とイエス様の2人の証人が言っているのだから間違いはないと言っているのです。その時に

「すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」(19節)

「『父、父』と言うけれどもあなたの父はナザレにいるでしょう。大工のヨセフでしょう。何を言っているのですか。」と彼らは言う。でもここでイエス様は父なる神様のことを言っていた。パリサイ人達は神様のことも分からない、イエス様のことも分からない、だからイエス様のことも信じられない。別の言い方をしますと、パリサイ人達は父なる神様のことも本当には知らなかった。だからわたしの言葉もあなた方には分からないということなのです。この中から私達は今日大きく2つのことを学びたいと思います。

世の光に従う者となる

 第1はイエス様の「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」という言葉です。最初に話しましたがイエス様の言葉は非常に断定的です。ですから本当に信頼にたるものかどうかをきっちりと吟味しておくことが大切であると思います。そして確かに信頼出来るものであることが分かったなら、今度は本気になってその御言葉に従う。ある部族の言葉では信じるという言葉と従うという言葉は全く同じだそうです。「確かにそうだ。」と分かったならばそこには従うという言葉が一緒についてくる。このことが大切ではないかと思うのです。その時に私達には道が開かれていく、新しいことが起きてくる。それは素晴らしい約束です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。闇がないのではありませんし、クリスチャンになったなら苦しみがないのではないのです。困難がないのではないのです。困難があっても、苦しみがあってもその中で希望の光、命の光を持って歩むことが出来るというのが、聖書の約束であり、私達はそのように生きさせてもらうことが出来るし、そうなっていくべきだ、そのためには御言葉に従う、イエス様に従うということです。

 筋ジストロフィーの方がいました。この方のお母さんは子供のために真剣に取り組んでいました。大体20歳で命が終わると考えられていました。お母さんは「私の家では葬式を2つは出さない。もしこの子が死んだならば、私は生きていくことが出来ないから、彼が死んだら私も死ぬ。」とずっと言っていたのです。でも彼がイエス様を信じて変わった。彼は知的障害も少しあって字もあまり書けなかったのですがイエス様を信じてからはそういう分野にも変化があって、後には自分で書いた物を本にしました。彼が亡くなる3日前に私が行った時に「先生。僕は本当に神様の使命を果たせていたかな」と言うのです。もう命が危うい状態、心臓がいつ止まるか分からない状態の時です。彼を通して何十人という人達がイエス様を信じるようになりました。

 最後の時も目をまわしながら1人1人に「ありがとう」と言っている感じでした。全然意識のない時に賛美をしていたら一緒になって賛美を始めたのです。御言葉を読むと「アーメン。感謝します。」とそんな苦しい中でも言っていました。このままではお母さんが危ないことを彼は知っていたんです。そして彼が召される3日前に「祈れ。祈れ」と強く命令したのです。息子の強い命令でどうしてもそうしなければならないと思ったようで、お母さんは遂に祈ったのです。後で聞くと、祈ったら直ぐにトシカズが召されてしまうような気がして祈れなかったと言っていました。そして彼女も変わったのです。トシカズ君が召された時に彼女は直ぐに「神様。この家に20年間天使を送って下さってありがとうございました。」と祈ったのです。葬儀が終わって初めての礼拝に来て「何かありますか」と聞くと出て来た言葉が「この喜び。この喜び。主よ、感謝します。」という言葉でした。悲しくないのではありません。彼女は生きていかれないほどの悲しみがあったのに、それに勝る喜びが心に宿っている。でも時々すごく悲しくなると、「神様泣かせて下さい。」と祈るのだそうです。すると3時間も4時間も泣き続けて、そして疲れてきて「もう結構です。」と祈るとピタッと止まるのだそうです。

 神様は私達を闇の中で守ることが出来る。本当にこの方を信じ1歩従うなら、「祈れ」と言われて祈った時に彼女も変わった。神様も私達が1歩従うことを願っているのです。その時に命の光が私達の内に現われ始める。その前は「嫌だ、嫌だ。そんなことは絶対出来ない。苦しい。苦しい。辛い。辛い」と思うのですが1歩従った時に何故もっとこの決断をしなかったのか、神様にお委ねしたなかったのかと思うでしょう。恐らく沢山の方がこの経験をしておられるのではないかと思います。委ねる前は「絶対委ねることなんか出来ない。神様に従うことは出来ない」と思っていたのに、そうした瞬間にそれがどんなに平安と希望と喜びが深いものであるかに触れることが出来る訳です。

 でももう1つのポイントはこういうイエス様の言葉を聞いても全く違う反応をする人達です。これは私達の心の問題でもあると思いませんか。素晴らしい話を聞いても「そんなことを言ってもそこだけじゃないのか」と「そんな上手い話があるはずがない」とか。パリサイ人達と同じ心が私達の中にもあるし、反抗する心もあると思うのです。イエス様はそれを百も承知です。そして「そのまま来れ」と言って下さっている。自分の弱さを持ったままわたしの元に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげますと言って下さる。その弱さを持って神様の所に来た時に、神様が私達を造り変えて下さるというのが約束です。必要なのはそのお方に明渡す「こんな私です。」と正直に申し上げることです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)

 罪は"ずれ"とも言いますし、弱さと言ってもよいでしょう。私達は「その通りです。」と認めること。「私は怠け者です。」「私は反抗心があるのです。」「従いたくないのです。」「嫌で嫌で仕方がありません。」「妬みがあります。」「嫉妬しています。」と正直に自分の姿を告白するならば神様は真実な方ですから、十字架を決して忘れません。その罪を一方的に赦して聖めて私達を立たせて下さる。そして再び命の道、命の光を持つ者に変えて下さる。是非この道を共に歩んでいきましょう。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」この恵みに共に豊かにあずかっていくお互いになっていきたいと思います。

 マザー・テレサは世界的な素晴らしい働きをされました。それは内にある小さな声「貧しき者のために仕えなさい」という言葉に従った時からです。私達もあのこと、このこと色々なことがありますが、今自分が直面している事柄に1歩従うことが大切です。あれもこれも全部やらなければならないと思いますが、そんなことは出来ません。どんなに頭がよい人でも一度に1つのことしか考えられないでしょう。出来ることは1つなのです。そのことを一生懸命にやればいいのです。出来る精一杯をやればいいのです。

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6章34節)

 今日は今日の労苦で十分だということです。明日のことを煩うならば今日のことをしていないということです。今成すべきことを誠心誠意向うならば、次の1歩、次の1歩が開かれていく。今直面していることに自分が出来る限りにおいて従えばよろしい。神様は私達に次の1歩を導いて下さる。そのようにして私達も命の光の道を歩み続けさせて頂きたいと思います。
ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ