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2005年5月1日 日曜礼拝メッセージ

「世の者か神の者か?」



 新約聖書 ヨハネ8章21節〜30節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 イエス様のお話は、しばしば何を言っているのか分からないようなことがあります。今日の箇所もそんな箇所ということが出来るかもしれません。かつてインドネシアに宣教師として行った方がいました。人類が初めて月面着陸をした時でした。それを話したのですが、彼らは全然信じなかった。私達は見えない物を中々信じることが出来ない。同様にイエス様の言っていることを受け取ることが出来ないことが結構あるかと思います。イエス様を慕い求めてきたニコデモは、イエス様が「人は生まれ変わらなければ神の国を見ることが出来ない。」と言うと、聖書をよく知っていたはずの彼が「老年になってからどうやって生まれ変わることが出来るでしょうか。もう一度母親の胎内に入るのですか。」ということを言う。魂の生まれ変わることを考えることが出来ないのです。でも彼らの陥った過ちは私達も陥る過ちである。その意味で私達は聞く耳を持ち、そこから学ぶべき事柄を学ばせて頂きたいと思うのです。

この世に生きるのか 神の世に生きるのか

「イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」(21節)

 これは仮庵の祭り最後にイエス様が語られた言葉であると思います。渇いているならわたしのところに来なさい。わたしを信じる者はその人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるという素晴らしい約束を下さったり、あなた方は世の光ですというメッセージを下さった。しかし最後にこう言った。ある意味で非常に厳しいメッセージでもあります。『わたしは去って行きます。』とは仮庵の祭りから去っていきますという意味とこの世から去って行くという意味です。わたしはあなた方を救うためにこの世に来た。あなた方の身代わりとなるためにこの世に来た。けれどもこの場所を去ろうとしている。その時が来ている。このことをイエス様は語っていたのです。わたしはこれから行こうとしているけれども、あなた方は罪の中で死ぬという非常に厳しい宣告をなさいます。そしてあなた方はそこについて来ることは出来ない。イエス様は何を言おうとしているのでしょうか。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(22〜24節)

 イエス様はご自分のことを「わたしの出身地は天です。」と言ったのです。わたしは神様からこの世に遣わされて来たのです。細かく言うならば「信じないあなた方は」と付け加えた方がいいでしょう。信じないあなた方はこの世に属するのです。それ故あなた方は自分の罪によって死ななければならない世界ですと非常に厳しい宣告をなさった。わたしはこの世を去ろうとしているだから、あなた方は大切な決断をしなければならない。

 私達はどちらの側に行こうとしているのでしょうか。"この世"罪と死と滅びの世界に生きていこうとするのか、それとも神の永遠の世界に生きようとしているのか考えなければならない。そして永遠の中に生きて欲しいというのがイエス様の本当の願いです。1人も滅びることは神の御心ではありません。全ての者が悔い改めることが神の御心である。今日のキーワードはこのことです。『もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。』

 私達はどういう世界に生きているのかを認識する必要がある。聖書には『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9章27節)』と書いてあります。死ぬことを否定する人はだれもいないと思います。それと同じほど確実なことは裁きを受けるということです。あまり嬉しいメッセージではありません。でもそう書いてあります。人は蒔いた種を刈り取らなければならない。それがこの世の世界です。もし私達が何もしないならば、そんな中で死に、裁きを受けなければならない厳しい現実をイエス様は思い起こさせるわけです。しかし同時に「わたしが来たのはそういう人達がその裁きを受けないで、救い出される道がある。わたしが身代わりになった故に作り出した世界。新しい神様の国の世界で生きることが出来るようになる。わたしを信じるならば、その命の道、豊かな赦しの道がある」ともう一度明確にしようとしたのです。私達はこのことに対してどういう態度をとっているでしょうか。

 ノアの箱舟の話を知っていると思います。大洪水は科学的見地からもかなり確証性は証明されつつあるのです。ノアという人物に神様が「この世は段々と悪に染まっているからこの世を全部滅ぼそうと思う。それを免れるためにあなたは箱舟を作りなさい。」と言われた。大変な大きさです。ノアは大きな箱舟を作っていきます。人々はそれを見て「馬鹿だな。山の上に船を作ってどうするのだ」と笑ったことでしょう。でも彼らは神を信じて箱舟を作り続けていった。船が完成して「もうすぐ洪水が来るからこの中に入って下さい。この中に入れば助かりますから。」とノアは叫んだでしょう。ある人達は「あの人達は良い人達だし、もしかしたら本当かも。」と思ったかもしれません。でも結局は入らなかった。入ったのはノアと妻、3人の子供とその妻達の8人だけでした。そしてついに『主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。』と聖書には書かれています。その時に雨が降り始め、地上の全てのものは滅びてしまった。これは私達の救いに例えられているのです。箱舟に入れば助かったのです。イエス・キリストはある意味において箱舟なのです。イエス・キリストを信じるならば、その人の罪は本当に赦されて、神の赦しの中で、裁かれない、呪いもない世界に一方的に入れられるのです。

 でもこの方を「私はいりません。私は自分のことは自分でやります。」と言うならば当然自分の責任を自分で負わなければならなりません。そして聖書はその通り裁きがあるといいます。聖書の基準はなかなかきついものがあります。「ちょっと嘘をついた」とか「盗んだ」という程度ではありません。「人を憎む者は人殺し」「情欲をもって女を見るなら既に姦淫を犯した」という基準です。そればかりか心の中で感じたことも問われる。「もしこのまま神の裁きの前に出たならば、ただでは済まないな。警察に捕まるような人だけではない。私も考えてみれば、あの問題も解決していない。この人に対して失礼した。あの人を裏切った。この人を悲しませた。」と沢山の申し訳ないことをしてきたのではないでしょうか。そしてそれに対して何の言い訳も出来ない。この裁きに直面しなければならない。私達はこのことを軽く考えないようにというメッセージとして受けとっていきたい。それに対してキリストにある者は、キリストが十字架で私達の罪の身代わりを受けて下さった。だから2度と私達は赦しを必要としていない。裁きを必要としていない。

 アメリカの軍隊でこういうことがありました。悪いことをすれば1連隊全体の責任となりました。「だれがやったのだ。出て来い。」と上官から言われても誰も出て行かなかった。ずっと外に立たされて、ついに1人が「自分がやりました。」と出た。彼が厳しい仕置きを受けている途中で「違う。」という声が聞こえてきた。前に出てきた人は本当の犯人ではなかった。いつまでもこのままでは仕方がないと彼は前に出たのでしょう。しかし厳しい罰を見て「違う。」との声が出たのでしょうね。でもそこで他の人が出てきたら自分の受けた罰が何の意味もなくなってしまうので彼は「黙れ」と言ったのです。

 イエス様は私達の罰を全部受けてくれたのです。ですから必要なのは「ありがとうございます。この罪を赦して頂いて感謝します。」と受け取るだけで良いのです。でもユダヤ人達は「あれはナザレから出て来たのではないか。あんな奴がそんな素晴らしいはずがない」と色々な理屈を述べてキリストの姿を見ても救い主として信じることを拒んだ。そこにはもはや救いがないことイエス様は語っておられます。そして私達もこのことを真剣に受けとめていきましょう。イエス・キリストが成して下さった救いをしっかりと受け取りましょう。この十字架が私達の罪を赦していることをしっかりと受けとめましょう。分かっていても本当に受けとっているかどうか。受けとっているならば「今日も赦して下さって感謝します。今日もこんな私をそのままに受け入れて下さって感謝します。今日もこんな私を愛して下さって感謝します。」と祈れるのです。祈れないとするならば「そんな甘い考え方ではだめだよ」というこの世の考え方が入りこんでいるかもしれません。主の赦しをはっきりと受けとっていきましょう。さて、この言葉を聞いた時に人々の反応が次に出てきます。

主に従う−そこに神の祝福が

「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」(25〜30節)

 一体この人はどういう方なのだろうかと初めてイエス様を見上げようとした。今までは「ナザレから出ているから関係ない。」と軽く見て真剣に考えようとしなかった。でもイエス様のこの言葉がもう1度深く考えるきっかけになった。この言葉の中には「エゴーエイミー」という言葉が使われています。これは「わたしはあってあるもの」という意味です。出エジプトの時にモーセに現われた神ご自身を現わす言葉が使われています。それでも彼らの中には『彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。(27節)』と書いてあるようになかなか本当の意味で分かることが出来なかった。

 28節の『あなたがたが人の子を上げてしまうと』とありますが、これは1つは十字架のこと、1つは復活のこと。12弟子の疑い深いトマスは復活のイエス様を見た時に「我が神。我が主よ」と叫びました。その時に彼は初めて本当の意味でイエス様が神だということを受けとめていった。復活までは受けとめてはいなかった。私達も気を付けなければそういうお方として見ることが難しい面があると思いますね。私達は分かっていると思っても、イエス様のことをごくわずかしか知っているにすぎません。ギリシヤ語では「ギノスコー」と言いますが「体験的に分かる」と意味です。そういう知り方に進んでいきたいものです。

 今日もう1つのポイントとしては、イエス様の『わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしが、いつもそのみこころにかなうことを行うからです。』という言葉に目を留めてみたいと思います。

「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15章10〜11節)

 イエス様が「わたしは自分で色々なことをしたのではない。わたしの父が命じることを行っているのだ。」と言われたことの意味です。悪い言い方をすれば奴隷のように父なる神の御心に従ったのです。でもその中に神は素晴らしい祝福と喜びと命とを注いで下さった。私達はこの方を罪からの救い主、人生の主として信じただけではなくて、このお方に本当に従っていく。この基準に歩んでいこうとする時に大いなる祝福にあずかることができるという真理をしっかりと受け取らせて頂きたい。ともするとイエス様を罪からの救い主として信じるけれども"神様の基準"の世界に生きることは苦しいから要りませんと私達は躊躇してしまうのです。でもイエス様が豊かな生き方が出来たのは、父の御心の中に、父の愛の中に歩んだからです。そして私達に与えられているチャレンジも、あなた方も主の戒めを守ることが主の愛に生きることだし、それが主の命の中に生きることであるということなのです。赦し主、救い主としては信じても、従うのはちょっとというのが私達の本音だと思うのです。主に従うということにおいて本当に祝福されていくということなのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8章3〜8節)

 私達は神様に従っていくことは苦しいことだと考えることがあろうかと思います。そんなことは出来ないと思うのですが、実は反対なのです。神に従わないので私達の歩みは苦しくなるのです。御霊によって歩む時に私達はもっぱら神に属すること「どうしたら神様は喜んでくれるだろうか。」「神様にこんなことをさせてもらいたい。」「あんなことをさせてもらいたい。」と思うようになってくる。反対に自分の思い、肉の思いで生きていくと肉のことばかりを考える。イエス様を救い主として信じ救われている人でも、イエス様に従って歩むのでないならば、イエス様の命の世界に生きるのではないならば、もっぱら肉的な生き方「あの人は憎たらしい」「こんな人は少しいじめてしまえ」とか、無視したり、妬んだり、嫉妬したりの生き方になる。私達が肉に歩むならばそうなってしまうのです。

 私達に必要なのは御霊によって歩むこと。それでは御霊によって歩むにはどうすればいいのですか。イエス様が私のために死んで下さったことを感謝して100%受け取ることです。次にそのことを出来るようにして下さい。あるいは出来ると思ったら従いますと従っていくことです。私達の心には色々な不平や呟きが出てくるでしょう。神様に強められて御霊によって歩んでいる時には「止めます。」と言えるでしょう。少し心が離れている時には「止められるようにして下さい。」と祈ればいいと思います。そのように祈ることが御霊によって歩む第一歩なのです。そのように歩み始める時に、今まで出来なかったことが段々と出来るようになってくる。肉による歩みから御霊による歩みに変わる時に、変わっていくことが出来るのです。だから私達はイエス様を見上げる。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」(コロサイ3章1〜4節)

 上にあるものキリストを求めなさいというのです。私達は「あの人がこうだ。この人がこうだ。この状況がこうだ。」と色々思いますが、そうではなくイエス様は何をしてくれたのか、イエス様はどう考えたのかを考え始めていく時に心が段々と落ち着き始めてくるのです。ある方はどうしても赦せなかった人がいました。許せない人のことを神様の前に持っていった時、以前はその人が苦しんだ方がよいと思っていたのに、その人も辛い所を通ったのだから何か良いことを受けてくれないかな、私に何か出来ることはないかと考えている自分が不思議に思えてならなかったと言っていました。神様はそういう力を持っておられる。その力を与えんがために十字架にかかって死んで下さったのです。妬みや嫉妬や裁きなどから解放されて、イエス様の生き方に倣う生き方が出来るようになって来る時に、私達にそういう生き様が可能になってくるのです。

 先月私達が覚えた御言葉は「主があなたがたを赦して下さったようにあなた方も互いに赦しあいなさい」です。イエス様は逆らう私のために却って十字架につけて下さった。そんなことは出来ませんが、1歩それに近づかせて下さいと祈り始める時に、その人の生活が変わらないはずはないでしょう。この生き方をしていく時に喜びの中を、神の愛の中を生きられると聖書は語るのです。イエス様も本当に十字架を喜びながら受けて下さった。その道に自ら進んでいって下さったのです。私達もこの道を共に追い求めていきたいと思うのです。

 私は指圧が出来るのですが、家に戻って来て、私自身も家族も疲れていたのです。横になりたかったのですが、皆がマッサージをして欲しがっているなと思ったんです。「嫌だな」と思ったその時に「もしやることが神様の御心でしたらやる力を下さい。」と祈ったのです。そこに寝ていたのですが、「やってあげようかな」と心が少しづつ変わってきたのです。そしてマッサージをしたらもちろん相手は喜んでくれます。そして不思議に自分も嬉しいのです。犠牲を払えるようになっている自分が嬉しいのです。御心に叶うことが出来て嬉しいのは当然でしょう。神様の喜ばれることを出来るのは嬉しいことでしょう。私達は「それをさせて下さい。」と祈っていけばいいのです。こういう世界に生きられるようにされているのです。

 私達は「お前には出来っこない。」と思わされているのです。騙されてはなりません。イエス様を信じたなら、それが出来る力をすでに頂いているのです。イエス様も御霊によってそうされたと聖書に書いてあります。私達も神様の力によって神に従う生き方にされていきましょう。でもそのためにはいつも「あなたの罪は赦された」から始めないと出来ません。「神様は私を赦して下さった。愛して下さった。私のために十字架に掛かって下さり全ての呪い、裁きを受けて下さった。私は愛されている。」この確信に立つ時に不思議に神様に従って歩むことが出来るのです。この生き方に従って生きる者に変えられていきたいと思います。

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