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2005年6月5日 日曜礼拝メッセージ

「一つのことだけ知っています」



 新約聖書 ヨハネ9章13節〜34節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

私達の歩み方の中に色々な素晴らしい出来事を通して「よかった」と言う人と、反対にそのことが悲しみや不安の原因としてしまうこともあります。物事をどのように受け取るかにより、その人の受ける恵みも随分と違ってくるわけです。今日は生まれつき目の見えなかった方が癒されたという驚くべき出来事に対しての全く違う3つの反応を見てみたいと思います。

良きものも悪く見せてしまう

「彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。」(13〜23節)

 生まれつき目の見えなかった方が突然に見えるようになったのです。「良かった」というのが普通ではないでしょうか。その時に信仰のリーダであるはずのパリサイ人達は安息日に癒しをしたのだから「その人は神から来たのではない。」と言ったのです。

 十戒といわれる神様の教えには『安息日を覚えてこれを聖とせよ。』「その日には仕事をしてはいけない。」と書いてあるのです。パリサイ人はそれ破らないように一生懸命に守ってきた。しかしその本当の意味を理解することがなかった。「こうしてはいけない」からやらないように一生懸命にやってきた。彼らにとってイエス様がしたこと、泥に唾を吐いた、それを目に塗った、それを洗った。これは、れっきとした仕事ではないか。彼らは肝心の神様の愛や計画を思いみる余裕がなかった。『これは神のわざが現われるためです。』というのがイエス様のお答えでしたが、彼らはそんなことを考えることはなかった。

 律法は人間が幸せになるために守りなさいと教えて下さっている。例えば安息日を守らないでいるといつの間にか心が神様から離れていく。そして神様とは関係のない生き方をしていく時に、空しい、寂しい、孤独な1人よがりな生き方になるでしょう。それは人間として決して幸せにならない。だから安息日を守るようにと言われた。神様の意図をパリサイ人達は理解しなかった。ただそのことを守ることにのみ価値を見出したわけです。ですからそこに現わされた素晴らしい出来事に喜びも感謝もしなかった。

 いつも学びたい姿の中に「反面教師」私達の中にも同じ資質があることを知る必要があると思うのです。私達も素晴らしい祝福を見ながらその祝福に文句をつける、そのことを悪い物の材料にしてしまうことがあるのです。

 旧約聖書にも色々な奇蹟が書いてあります。重い皮膚病が治ったりしたことが旧約聖書の中にも現わされています。でも生まれながら目の見えなかった人が見えるようになるというのは旧約の中にはないのです。イザヤ書はメシヤが来た時には盲人の目が開かれると書いてあるのです。

「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ35章5〜6節)

 この預言の言葉があったのです。そして今このことが起きた。だから心を素直に聞いていたら「やはりこの方こそ救い主キリストだ。」と言える証拠であったのですが、パリサイ人達はこの大切なところを見落とすのです。安息日に癒すことは何も悪いことではない。ところが本来の意味を理解せずに「安息日を破った」と非難したのです。私達の中にある偏見で人を見る姿に似ていると思いませんか。

 人間の罪がマルコ伝に記されていますが、最初に記されているリストは「悪い考え」です。「悪意」と言われるものです。物事を素直に捉えていくか、悪意をもって捉えていくか。この癒しも彼らは悪意で「安息日だ。これはおかしい」と責める材料をにしてしまう。パリサイ人だけではなく私達自身の中にもそういう部分があるのではないでしょうか。私達は元々自己中心ですから、放っておくとすぐにそのような状況になってしまう。細かく言いますと枝葉末節のことにこだわり始めるのです。どうでもよいことを色々と言う。何が今一番大切なのだろうかと観点を向けていくと私達は余計な道に入っていくことがない。ところが私達は枝葉に気を取られて、肝心のことが分からなくなってしまう。

 あるいは聞く耳が持てない。十分に意見を聞かないうちに反論している。相手の意見を自分勝手に解釈して、相手を責めていくわけです。あるいは人を断罪する。この中にも盲人自身が体験したことを言っているのに、ことごとく否定していく。自分で正直に言っている言葉を認めようとしない。「それはあの人にそっくり。」と思う方、どうぞ「それは自分かもしれない。」と思って下さい。人間は皆な自己中心なのです。ですからなかなか人の意見を聞くことが出来ない。彼らは目の前で救い主の素晴らしい御業、キリストの預言されたことを見ていながら、そのことを喜ぶことも感謝することもせずに、かえって罵り、呪いであるかのようにしか受け取ることが出来なかった。

 私達もパリサイ人の持つ弱さを持っていることに気づかされていきたいと思うのです。私達は自分が正しいと思う時に、他人の意見を耳に入れることは出来ない状況になってしまうことがあると思うのです。私達は先入観や偏見や悪意が入りやすいということです。そういうものを「どうぞ取り除いて下さい。」と祈っていくことが非常に重要です。

自分の足りなさを認める

 次にご両親の姿を見てみましょう。皆さんが親であったなら「お前すごいね。本当に見えるの」と歓喜に溢れたのではないかと思います。しかしこの親はかえって困った問題が起きたような、そんな感覚があるのではないでしょうか。そこに神様の業を見ることが出来なかった。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29章25節)

 私達は直ぐに人を恐れて自分の正しい道を歩むことがなかなか出来ない。この親もそうでした。息子の癒しを見るならば、これは絶対に神様だと分かったはずです。でもそう言えば自分達が破門されて苦しい目に会うかもしれないと恐れ言うことが出来なかった。子供の癒しも喜ぶことが出来なかったのです。これも私達が陥る弱さです。神様の素晴らしい御業をほめたたえる代わりに、人の目を恐れて不安に陥って歩んでいる私達。それに対して盲目に生まれ弱さの中にあり、皆から侮辱され悲しい思いをしてきた彼は、パリサイ人達から『あなたはかれをだれだと思いますか。』と聞かれた時にはっきりと「あのかたはあの預言者です。」と言うのです。そしてさらに問われても正直に自分に起こったことを語るのです。

「そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」(24〜27節)

 彼は否定し難い現実を体験していたのです。他の全ての人にとってこの方は悪者であったとしても、私にとっては救い主だということを確信をもって言うことが出来たわけです。そしてあなた方はこれだけのことを見ていながらまだこの方が分からない。私に聞くということはあなた方も弟子になりたいのですかと皮肉っている。

「彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(28〜34節)

と彼ははっきりと確信をのべ伝えていくのです。今日学ばせて頂きたいことは、この姿です。ジョン・ウェスレーはメソジスト運動の元になった人物です。彼がアメリカのジョージア州に宣教師として行こうとした時、彼の乗った舟が大嵐にあった。丁度そこにボヘミア兄弟団という非常に生き生きとした信仰を持っているクリスチャン達も同船していた。ウェスレーは彼らが本当に神様に信頼しているのにびっくりした。ウェスレーはメソジスト運動を始めていますから信仰的に生き生きしているはずだったのですが、彼らの信仰こそ本物だと思ったのです。

 アメリカに上陸後スパンデンベルグという人物に会った時「あなたはイエス・キリストをご存知ですか」と聞かれたのです。ご存知だから宣教師として来たわけでしょう。彼はこともなげに「知っています。私のための救い主です。」と言うと、スパンデンベルグは「そうです。しかしあなたはイエスがあなたを救ったということをご存知ですか。」と更に問うてきたわけです。頭で理解していることを聞いているのではなく、本当にイエス様があなたを救ったことを体験していますかということです。ウェスレーはこの言葉に非常に打ちのめされ、その時から真剣に求め始めた。私達の信仰はどうでしょうか。イエスがあなたを救ったと確かなその信仰を持っていますかということです。私達もこのチャレンジを共に受けたいと思います。

 ヨブは当時その国で最も忠実に主に従うしもべであったと言われています。このヨブが財産を失い、子供達を失い、試練が次々と起こるのです。それでも彼は「主は与え、主は取り去る。主の御名はほむべきかな。」と主をあがめていたのですが、それでも苦しみがくる時に彼の口から呟きが出てきました。そして友達も「あなたがそんな苦しみに会うのは何か神様に悪いことをしているからだ。」と自分の考えを押し付けたのです。でもヨブは神様の前に精一杯誠実に歩んでいる。ですからそれは違うと叫ぶのです。でもそのヨブが遂に導かれた告白は

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42章5〜6節)

 神様にも彼は素晴らしい信仰者であると認められたのですが、しかし彼は自分で「本当には分かっていない。」ことを教えられたのです。これは救われていないという意味ではなく、もっと知るべきことがある。でも私はそこまでは知っていない。今この苦難を通して私は自分の姿が分かり、それでもなお憐れんで下さる神様の赦しと愛が分かった。私達に必要なのもこの告白なのです。「私が分かっていないことを分かるようにして下さい。」との祈りが必要かもしれません。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章2節)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29章11〜13節)

 私達がどれだけこの方を知るようになるかは、どれだけ私達が心を尽くしてこのお方を求めるかにかかっているということです。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)

 果たして、神様はあなたを本当に自由にしたでしょうか。私達は1つ1つの御言葉が本当にそうだ。なるほどと分かるまで求めていきたいと思います。

 私がクリスチャンになった当初に読んだアルゼンチンのリバイバルの話です。そのきっかけとなった人はこのエレミヤ書の言葉からでした。自分の信仰が本当に生ぬるい。自分は主に会ったとは言えないと真剣に彼は神様を求めた。ある時に彼は本当に主に出会った経験をした。神様は1人1人の信仰を刷新しようとしています。私達がどこまで本気になってこの方を求めていくかです。自分の弱さや足りなさを認め告白していく時に、私達は神の恵みにあずかることが出来るのだと思います。ある注解者がこの箇所をこう説明しています。

“自らが有限な存在であることも悟らずに、律法の真の解釈者であると誇り、自分の心の貧しさを知らない。そんな彼らの尊大さと心の高ぶりが、神の恵みの賜物を見えなくしている。真の光を内に持っていないのに、持っているかのように振舞う。そして真の光につまずいて倒れる者たち。しかし自らの有限を悟り、自らの無知であることを告白し、自らの心の貧しさをわきまえるものは、イエスの内に神の臨在と力を見ることが出来た。光を内に持っていないことを自覚しているからこそ、光なるイエスの元にくることが出来るのである。”

 自分が弱い、足りないことを知れば知るほど、私達はイエス様を真剣に求めるようになる。自分にはその必要はないと思う者はパリサイ人のようにそれを非難し責めるだけで、自分のものとしようとしない。私達の心は悪意や偏見で物事を見てしまうことがないでしょうか。あるいは人の目を恐れて本当に神様の恵みを無にしてしまっていることはないでしょうか。「自分は足りない者です。私には分からない。私の目を開けて下さい。」と祈る者でありたいと思います。

 先日田原米子さんが召されたという記事が載っていました。彼女はとても母親に愛されていましたが、彼女が16歳の時に亡くなってしまった。悲しくて新宿駅のホームから飛び込みましたが、奇蹟的に助かったのです。しかし両足と左手を切断。残ったのは右手の指3本だけでした。そんな彼女の元に嫌われながらも1人の宣教師が訪問し続けました。何度か訪問を続ける内に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第1コリント5章17節)」の御言葉を聞き「この神様に賭けてみよう。」と思ったのです。そしたら物の考え方も見方もがらっと変わってしまった。今までは指が3本しかないと思っていたのが、指が3本もあると自分が出来ることにチャレンジしていった。私達はこの神様にもっと真剣に賭けていって、神様の恵みを味わっていきたいと思うのです。

 先ほどのジョン・ウェスレーは自分の足りなさを指摘されてから3年後にロンドンで重病に罹りました。ルターのローマ書講解を聞いた時のことを読ませて頂きます。

“夜の9時15分にルターがキリスト教信仰において、神が心に働きたもう変化を描いている時、私は自分の心がいいようもなく熱くなるのを感じた。私は自分がキリストの救いのために、ただキリストに信頼したのを感じた。キリストが私の罪を取り去り、私を死と罪の縄目から救って下さったという確信が私に与えられた。”

 この時からウェスレーは生き生きとした信仰を宣べ伝えるようになったのだというのです。

 皆さんの内にはキリストの命が燃えていますか。イエス様があなたを本当に救ったことをご存知ですかと聞かれて何と答えるでしょうか。「はい。分かります」と心から答えることが出来るならば、あなたの心にはいつも喜びが、感謝が、希望が溢れるのではないかと思います。このような恵みに共にあずかる信仰生活に歩んでいきたい。低いところ、小さい恵みで満足するのではなく、もっともっと大きな主の恵みにあずかっていくお互いにされていきたいと思います。

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