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2005年6月19日 日曜礼拝メッセージ

「わたしは門です」



 新約聖書 ヨハネ10章1節〜10節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 今日はヨハネ10章の学びに進んでいきたいと思います。9章は盲人の目があけられるという不思議な経験を通してイエス様との問答がありました。41節で『イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』との言葉をパリサイ人達は正しく受けとめることが出来なかった。その次に10章が出てくるわけです。

羊飼いの声を聞いて

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(1節)

 9章41節と直接関係ないと思えますが、これはパリサイ人達の教えや考えに気をつけなさいと言っているのです。非常に辛らつな言葉です。言いかえればそれ位そういった事柄に注意する必要があるということ。聖書を語る宗教、あるいは良いといわれている宗教であったとしても、遂には私達を縛り苦しい所に追いやってしまうものはいくらでもあります。私達はそれらに対して正しい識別力、判断力を持っていかなければならない。イエス様はそのことを言っているのです。

「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(2〜5節)

 例え話ですが、羊の囲いに脇から入るのは盗むため、あるいは悪いことをするためである。正しい者は門から入ってくる。牧者が来ると「この人は羊飼いだから。どうぞ入って下さい。」と門番は門を開ける。すると羊飼いは声をあげて羊を呼ぶ。書物を読みますと、羊飼いが声を上げると、ある羊は顔を上げはしますが、また黙々と草を食べる。ある羊はその声を聞いて羊飼いの後について来る。羊たちは自分の羊飼いの声を聞き分けるのです。そして羊飼いも羊を1匹1匹見分ける。そういうわけで、羊飼いが出て行くと羊が後をついて行く。それを見ていた旅行者が羊飼いの洋服を借りて姿格好を真似した。けれども羊たちは全然動かなかったそうです。ところが、羊飼いが背広を着ていても、声を出すと羊たちは後について行く。見せかけではだまされない。声を聞き分けて、羊飼いにだけついて行くのです。

 これは前の話の関連で読まないと分からないわけですが、あの盲人は人が何と言おうとも「このイエス様こそ神様だ。イエス様こそ従うべき方だ。」と声を聞き分けて従っていったわけです。パリサイ人達が脅しても頑として動かず、遂には追い出された。イエス様に従っていったわけです。イエス様はさらに例えを話されます。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(6〜10節)

 前の例えにも、門の話が出てきます。こちらは『わたしは門です』という話です。前の話は門番がいて、正しい牧者は門から入ってくる。正しい牧者はイエス様です。ですので、この例えは別の話です。前の話の"門"は冬に羊を入れておく場所です。そこには門番も立っている。後半の話は、夏に山の上に羊を放牧しますが、夜は野生動物から守るために、囲いを作って羊をそこに入れておく。羊飼い達はその場所に野宿をするそうです。ですから狼などがくれば矢面に立って戦うのです。これが『わたしが門です』というところに通じる。羊飼いがいつも羊を守っている。出て行かないように守っていますし、侵入者が入って来たらそれからも守って下さる。それがイエス様であると言っているわけです。

 そしてここで言いたいのは、他に惑わされずこの門から入って行く者は『救われます』『安らかに出入りし、牧草を見つけます。』そこで安心して必要な物も与えられていく生き方が出来る。そればかりではなく『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』痩せ衰えてただ生きている状態ではないということです。豊かに丸々と太って、毛はふさふさとしている。一方『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。』一見正しそうに見えても彼らは本当に羊のためになるのではない。だからきちんと見分けなさいと言っているのです。ここから2つのことを学んでいきたいと思います。

聞き分けるために日々神様と交わる

 3節の『門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。』この羊とは私達です。聞き分けると書かれていますが、実際に聞き分けているでしょうか。本来は聞き分けることが出来るのです。キリストの名を使ったまがい物がたくさん出て来ています。気をつけないと私達はだまされてしまいます。一見聖書を使い、クリスチャンという名を使っていても気が付くと、とんでもないことになってしまっている。

 ここに出てくるパリサイ人とは「律法主義」で、自分の力で歩んでいこうとする生き方です。イエス様を通してではなく、自分の熱心とか努力で神様に近づいていこう、救いを得ようという生き方。私達の周りにはそういったものがたくさんあるのです。気をつけないとそれらに落ち込んでしまうことがあるのです。

「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。」(第2ヨハネ10節)

 愛を説いている聖書がこんなきついことを言うのかと思いますが、ある日「これは気をつけないとだまされてしまいます。」ということだと教えられました。敵対しなさいということではなく気をつけてだまされないようにしなさい。変に心を開いてしまうと惑わされてしまうのです。

 ここで律法主義について少し触れておきますと、例えば罪を示されることがあります。誠実な方、真面目な方は罪を示すのは神様だと信じているかもしれませんが、罪を示すのは神様だけではありません。悪魔もまた私達に罪を示します。あるいは聖書の言葉で言いますと『邪悪な良心』も罪を示すのです。ですからそれが本当に神様からのものであるかどうかを吟味する必要があります。

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(第1ヨハネ4章1節)

 奇蹟や色々なことが分かるから、正しそうに見えるからと言って信じてはいけません。それが本当に神様からのものであるかどうか試しなさいといっている。例えば「あなたはここが間違っている。こういうことをしていて神様の元に近づけるはずがないでしょう。あなたのような人が恵みにあずかることはない。あなたはもっともっと真剣に悔い改めなければならない。あなたはそんな簡単に恵みにあずかれる者ではない。」「そんなに簡単に罪が赦されると言ってはならない」とか。時々自分の罪責感で「簡単に赦されるというなんて甘い、甘い」とか。
 神様はそうは言っていません。十字架によってあなたの罪は完全に赦されたというのが聖書の教えです。ところが悪しき者は「そんな簡単に『恵みだ』と言ってちゃだめだよ。」そうすると素直な私達は「そうだよな」とそれを受けとってしまう。そうなると「こんな私はだめだ。救われる価値がない。赦される価値がない。こんな者はもっともっと酷い目にあった方がいい」とか。苦しみに出会ったら「私は普段から良い行いをしていないからかな」とか「何かの呪いかな。裁きかな。神様が私のことを憎んでいるからかな。神様は見捨てたんじゃないか」とか。結構こんな風に思っていることはありませんか。私達はこういったものにだまされてはなりません。聖書は何と言っていますか。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1章7節)

 呪いや裁きではない。その通りにして受け取ればいいのです。思い煩おうとするればいくらでも思い煩うでしょう。でも神様は

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5章7節)

 全てのことを働かせて益として下さるのですから、それを信じていれば何も心配をする必要はない。たとえそこに悪いことがあったとしても、神様はそれを益として下さる。堅くそこに立っていれば私達は何も恐れることはない。でもそこに罪責感があって、「私の歩みが神様に真剣ではないからだ。私にだけはちょっと酷い扱いをするのではないか。呪いではないかとか。」と悪い考え方はいくらでも入ってきて惑わしの声と神様の声を聞き分けることが出来なくなってくる。聖書が言っていないことも入ってきて、どんどん罪を犯してしまう。

 最初の人間アダムとエバが罪を犯した時も、神様は善悪の知識の実を食べてはならない、それをとって食べると死ぬといいました。でもエバは自分の頭で色々と考えて、園の中央にある木の実は食べてはいけないと変えてしまった。園の中央には知識の木といのちの木がありました。でもいのちの木の実は食べてもよかったのです。でも"園の中央にある木"となり、知識の実に"触れてもいけない"となってしまった。さらに神様の「必ず死ぬ」という言葉が"死ぬといけないから"と割引きされて勝手に変えて、一見聖書の言葉を考えているようでありながら、全然違う世界に引っ張っていってしまいます。

 皆さんは聞き分けていますか。偽物を見分けるには、いつも本物に触れていれば偽物がきた時にちょっとした感覚の違いが分かるのです。私達が間違った者に惑わされない秘訣は、本物といつも交わっていること。まことの神様といつも交わっていることなのです。でももしかしたらこちらが疎遠になっていませんか。ここが弱いと間違ったものが来ても「いいじゃない。良い人達だから」と良いものも悪いものもごちゃごちゃにしてしまう。私達はきちんと主と交わっているなら「これは良さそうだけれども本当の神様じゃない。邪悪な良心だ。誘惑だ。悪しき者の声だ。」と見分けられる。でもその交わりが薄いと、本物も嘘に見えてしまうでしょうし、嘘も本物に見えて、見分けがあまりつかなくなってしまうかもしれません。毎日毎日神様ともっと親しく良い交わりを持っていきたいと思います。

 聖書は「あれをしなさい。これをしなさい。あれをしなければならない。これをしなければならない。」といっているが「何故やらないの。やらないのはだめだよ」と言われたら私達は何も反論は出来ないではないですか。でも聖書の教えは「あなたが出来ないのは分かりました。それでいいのです。だからわたしが十字架にかかったんですよ。」です。罪が示された時に、それが偽者からのものであれば、私達は段々と攻められて心が苦しくなってくる。それは神様から来たものではないです。神様から示された罪は、だからイエス様が死んで下さった。あなたはその罪を認めればいいのだ。弱さをそのまま認めればいいのだ。自分の罪を告白すればいいのです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章9節)

 私達は堅くここに立っていくことが必要なのです。そうする時に本当に心が解放されていく。「そんな簡単に赦される。」とか「そんなことは言ってはいけない。」とか一見正しく良い考えに思いますが、これは危険です。だます考え方がはびこっていますから、そういったものにだまされないで下さい。イエス様と日々に深く交わることが、偽物を見抜く秘訣です。

 そしてもう1つは『わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。』どんな時でも皆さんの内に安らぎがありますか。出ると入るとを守って下さるとあります。どんな時でも、状況が良い時だけでなく、悪い時でも私達に平安を与えて下さる。これが神様の道です。もし私達がイエス様の道を通っているなら、イエス様という門を通って入っているならば、たとえどんなに危機の状況の中にあっても平安なのです。そればかりか、10節にあるように『羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』というのですね。イエス・キリストを信じているならば、見分ける力を与えられるばかりか、豊かないのちにあずかることが出来る。「そういうことは滅多にないけど、時にはね。」というのではありません。私達は日々豊かな生き方に導かれたいと思うのです。そしてそうなれるというのが聖書の教えです。

 それには日々この門を入っているかということです。十字架の道、イエス様の道を歩んでいるか。毎日毎日自分の罪が赦されているというところに歩んでいますか。自分の心が燃えていない、心がカラカラになってきている時は、十字架が縁遠いものになってはいないでしょうか。イエス様がこんな私のために命をかけて下さった。死んで下さった。このことが生き生きとする時に、私達の心は燃えてくるのです。こんな私が赦されていると感謝に変わるのです。私達はそういう意味で豊かな命にもっとあずかっていきたいと思うのです。大事なのは十字架です。これが他人事として一般的な話として「イエス様は私達の罪のために死んでくれたんだよね」ではあまり力がないでしょう。「私のあの罪、この罪、あのこと、このことのために死んで下さった。私は赦されている。」というところに本当に立った時に私達の内側から喜びが溢れてくる。あなたの魂はそのような喜び、豊かないのちにあずかっているでしょうか。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14章6節)

 あなたはイエス様のところに本当に行っているでしょうか。「私のために死んで下さっていることを感謝します。赦してくれていることを感謝します。」と日々受けとって歩んでいきたいと思います。たとえ状況がどうであれ、そういう生き方になっていくことが出来る。この道を共に歩んでいきたいと思います。

 間違った教えに立ち入ることのないように、それを受けとってしまうことのないように、イエス様の御声を聞きましょう。そのために日々イエス様と交わって下さい。正直な自分の気持ち、悲しみ、嬉しさも喜びも何でも分ち合って下さい。イエス様に自分の気持ちを正直にさらけ出してください。段々とこんな私が本当に赦されている、受け入れられている、愛されているということが分かってくるようになるでしょう。この門から入っていく時に、私達は本当に豊かな命にあずかるのです。

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