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2005年7月3日 日曜礼拝メッセージ

「本当の希望」



 新約聖書 第1コリント15章1節〜7節 より
メッセンジャー
 古川福音自由教会 栗原 延元牧師

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」(第1コリント15章1〜7節)

 今日皆さんにお話するのは大変重いテーマでありまして「本当の希望」ということですが、最初から"死"のことについて話さなければならないのです。「本当の希望」という題でコリントの15章を読ませて頂いたら、新たに神様に教えられたのです。イエス様の弟子達、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、マタイなど、沢山の弟子がおりました。何故彼らはイエス様の弟子になっていったのかといいますと、イエス様の話を聞いたり、あるいはイエス様のなさる不思議な奇蹟、御業を実際に見たりして「まことに、この人こそ自分の人生を託すにたる方だ。こんな素晴らしい人はいない。」と財産や親兄弟を捨て従っていったのでしょう。

 けれどもイエス様はエルサレムに行って捕えられ裁判にかけられた。弁のたつイエス様ですから、雄弁に自分の無実を言い無罪放免になるのではなく、むしろピラトの前で愚かな者の姿でただじっと黙っておられた。そして最後は死刑の判決です。無実のお方が、聖いお方が、善を行い続けてきたお方が死刑である。しかも十字架刑という。イエス様は十字架を担がされ、重たくて十字架が担げなくて、途中にはクレネ人のシモンが手助けしてゴルゴダの丘まで行った。それで釘を打たれて、その日の内に亡くなってしまった。弟子達のだれも勇気をふるい、自分が従ってきた師匠のために艱難を排して、危険を排して葬ったかというと葬らないのです。弟子達はみな逃げてしまった。

 私は弟子達の心にいかに失望が蔓延してきたかと思うのです。ガリラヤで湖が荒れた時、イエス様が「嵐よ静まれ。」と言えば嵐は静まってしまうのです。イエス様は湖の上を歩いてこられる。あるいは5千人、4千人の人を僅かな食べ物で養うことが出来るのでしょう。死んで墓に葬られているラザロに「出てきなさい。」と言うと、死後4日も経って腐っているはずのラザロが生き返って出てくるわけでしょう。そういう神の力をもっておられるイエス様。それを弟子達は見ていたでしょう。でもそのイエス様が十字架につけられて死んでしまった。

 残された弟子達の第1の勤めは葬ることでしょう。葬るというのは、残された人にとって最もしなければならないことでしょう。どんなにその人がどうしようもないものであったとしても。ましてイエス様に従ってきた弟子達が何故だれ1人として一緒に葬らなかったのか。私はそれを考える時に、ペテロやヨハネはヤコブたちは、どんなにイエス様に失望していたかと思うのです。この方こそ本当に従うべきお方だと、正しく家屋敷全部売り払って従ってきたのでしょう。正にここに神の国が実現するその時に、私は右大臣、私は左大臣と彼らはイメージを描いていたでしょうけれども、そのイエス様が死んでしまった。しかも一番惨めな死にかたです。

 人間は死にます。その時に考えるのが「苦しまないで死にたい」ということでしょう。だれもが痛まないで死にたいでしょう。イエス様の死に方は一番惨めな死に方でした。病気ではない。寿命をまっとうしたのではない。事故にあったのではない。捕えられ裁判にかけられて、死刑判決を受け、あの十字架で死ぬんです。十字架の死はイエス様が軽視されたということです。四大宗教の創始者と言われる人の中にはこんな人はいないのです。釈迦は沙羅双樹の木の下で悟りを開き、安らかに成仏したというのでしょう。マホメッドはメッカに葬られて立派な大きな墓がる。孔子は論語を教えて孔子廟のような立派な寺に葬られている。そして彼らの死に方はこの世の私達と同じ死に方であった。彼らは死刑判決は受けなかったのです。

『神はそのひとり子を賜うほどに世を愛し給えり』とありますが、神がこの世にひとり子を送られることをイザヤによって700年も前に預言されていた。メシヤは受難を受けて苦しみぬいて亡くなられると言われていた。父なる神はどれほど心を痛めたか。イエス・キリスト自身も「わたしには飲まなければならない杯がある。」と言う。本当に苦い苦い杯であったと思うのです。でもイエス様はその杯を飲んで下さったのです。福音というのは何であるのか。それをパウロはコリント書の15章3節から5節に書いている。福音とは最も大切なことなのだ。その最も大切なことの中身は「キリストは聖書の示す通りに、私達の罪のために死んだことだ。」というのです。

 ある時に私は「おかしいな」と思いました。人は生まれて死ぬのであれば、死ぬことをこんなに聖書を通して最も大切なこととして伝える必要はないではないか。でもパウロがもっとも大切なこととして伝えたのは"キリストが死んだこと"であるという。その死に方が旧約の時代から書かれていたその通りに、イエス様が人として生まれ、十字架の上で犯罪人の1人として死なれたということであります。この十字架のイエス・キリストの死の意味を、生まれたままの私達では分からないのです。だから新約聖書があり、新約聖書に至るための旧約聖書があると言ってもいいんです。神様の証しは、自分の愛するひとり子イエス・キリストがイスラエルのゴルゴダの丘の上で十字架にかけられて死んだということです。確かに死んで葬られた。でも葬られて三日目にイエス様はよみがえった。よみがえったイエス様を見た弟子達は信じられなかったのです。だからイエス様は何度も何度も弟子達に現われた。


「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ24章36〜43節)

「幽霊には肉や骨はないでしょう。でもわたしには体があります。」と言い、そして弟子達と共に魚を食べたのです。そしてまだ信じられないと言っているトマスにも手を見せて「わたしだ。」と言うのです。本当にイエス様は「わたしはよみがえった。生きているのだ。」と見せる。栄光の体によみがえったのだと、何度も何度も何度も現わして見せるんです。それが聖書に書いてある。失望と落胆の底にいた弟子達は、イエス様に出会って「やはりこの方こそは私達の希望なのだ。この方こそ私達を幸せに出来るのだ。この方がおっしゃったことは本当なのだ。神の国は本当にあるんだ。」ということを体験するのです。これがキリスト教なのです。

 そして聖書は、神は死者の中からイエス・キリストをよみがえらせて下さっとするならば、この地上で私達が生きている間に色々なことで悩み苦しみもだえ本当に戸惑ったとしても『神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。(ローマ8章31節)』です。自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方がどうして万物を私達にくださらないことがあろうかです。神はどんなものにも解決することの出来る力を持っているのです。死者の中から人をよみがえらせる力を聖書の神様は持っているのです。神にとって解決出来ない問題は何ひとつないのです。聖書の神は生きて働いている神なのです。偶像の神はそうではありません。偶像の神はいつも鎮座している。ですから災時には運ばれなければならないのです。偶像は、いつも静的にそこに鎮座して何も出来ない。でも聖書の神は、聖書の始めから終わりまで『神 天地を創造り給り』でしょう。造って支えているのです。そしてイエス・キリストを送って下さり、新しい天と地を造ると約束して下さっている。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わらない。それは真実です。そしてイエス様が言われたように安息日もイエス様は働いているのです。それは父なる神は今に至るまで働いているのだからわたしも働いているというのです。聖書の神は本当に生きて存在し、祈って求めている人に応えて御業を現わそうとしているお方なのです。神こそ本当に生きておられる方です。私達が眠っている時でも神は眠らない。

「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(詩篇121篇3節)

 正しくこういう方なのです。イエス・キリストは今も天上に在りてとりなしていて下さいます。だからイエス・キリストによって神に近づく者をイエス様は完全に救うことが出来るのです。どうぞこの方を本当に見上げて信じて歩んでいただきたい。「イエス・キリストに生涯をかけて、私は失望した。空しかった。」という人の話は聞いたことがないです。正しく私達の主はそのようなお方であります。

 私は還暦を過ぎて古川に行って、教会の留守番をして、その後左団扇とまではいかないでも右団扇で生涯を閉じればいいなと思っていたのです。そしたらヨブ記を読んでいて探られました。神様はヨブの前半生よりも後半生を祝福して下さったというのです。「神はこんなポンコツ自動車同然の私を用いて祝福して下さるんだな。」と思ったらもう1度色々な意味で興味が湧いてきているんです。宮城に対して、聖書に対して。思うように動かないかもしれません。でも皆さんと一緒にこの宮城の地にキリストの香りを漂わせていきたいと思うのです。そして神の恵み、神の真実が本当に行き渡る町と地域にさせて頂きたいと思うのです。主が大いなる御力を持って御業をなさろうとしている今日この頃であろうかと思います。どうぞ1人1人がこのイエス様に人生を賭けて頂きたい。私は信仰を持って40年の生涯ですが、本当にイエス様に賭けて悔いのない生涯であります。
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