このページについて
2005年7月10日 日曜礼拝メッセージ

「働くこと、生きることの意味」



 新約聖書 創世記3章17節〜19節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(17〜19節)

 皆さんが今ここにいることは偶然でしょうか。それとも何か意味や目的があるのでしょうか。私達は小学校から進化論を学んできています。その進化論は全てが偶然。とするならば私達がここに存在しているのも偶然ということになります。ですから進化論が真実であるならば、今日のメッセージのテーマ「生きることの意味。働くことの意味」などを考えるのはやめた方がいいでしょう。私達は神により生かされているという事実にしっかりと目を留めなければ、生きる意味や目的を理解することも受け取ることも出来ない。

 無神論者バートランド・ラッセルは「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない。」と言っているのです。もし神の存在を否定するならば人生の意味や目的を考えることは意味がないということです。そして人間の歴史はこのことをずっと考え続けた歴史ではないでしょうか。

 パスカルは「人間は考える葦である」弱々しいが考える葦であるといい、デカルトは「我思う。故に我あり」色々と否定しても思う我があると言っています。でも神がいないのなら考えることはやめた方がいいでしょう。これは虚しいことになるからです。今日ご一緒に私達はこのことを正しく受け取っているか考えてみたいと思います。

 アメリカのノースイースタン・イリノイ大学のヒュー・ムアヘッド博士は世界中の科学者、作家、哲学者、知識人に「人生の意味は何ですか。」という質問を送った。これに対してそれなりの答えをした人もいましたが、ある人は「そんなこと正直考えてもみなかった。」ある人は「思いつきしか出てこない。」そして多くの返信に「もしそれが分かったら教えて欲しい。」という添え書きをしてきた。多くの人が考えても人生の意味や目的が分からない。それはなぜかと言うと出発点がずれているからです。私達はいつでも"自分"が出発点になっている。自分にとって生きる目的は何か。自分にとって何が良いのか。損か得か。全ては自分から始まって物事を考えている。その結果として答えは「分からない。」となるのです。

 ある人が山を登っていましたが行き先に着かない。そこで聞いてみると「登り口が間違っている。」と教えられた。向うに行きたいのなら違う所から登っていかなければならなかった。私達は登り口を間違えてしまっているのです。すなわち、神を否定する中で、自分の生きる目的や意味を考えようとします。結果として私達はどこまで行ってもそれに到達できないのです。私達に必要なのは神を認めて、神と共に歩むということ。

 今日読みました箇所に『ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』とありますが、希望も何もなくなってしまいそうです。もし私達が神を無視する人生を貫くのであればこうなってしまう。私達は事実をしっかりと受け止めなければ正しい対処をすることが出来ません。もし私達の人生の中で神をしっかりと受けとめないで、また自分の道のために利用するという意味で神を求めるならば、私達はどこまでいってもその虚しさから解放されることはないでしょう。生きる意味も目的もしっかりと掴むことが出来ないというのが、聖書のメッセージです。

 ある人が人間の価値を計算した。ある部分は炭素、たんぱく質など。それらを合計しても1000円ちょっとだそうです。もし私達が神を無視して、神様と関係のない生き方をするなら1000円ちょっとの価値しかないのです。私達は虚しい存在です。"神を土台にして生きる"これが私達に本当の生きる意味と目的を教える第1歩なのです。

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1章16節)

 聖書には私達が御子イエス・キリストにあって造られ、御子のために造られたと書いてあります。ですから私達が神様を離れていくら考えても、人生の目的や意味は分からないのです。  カミオカンデは数年前に小柴教授がノーベル物理学賞をとった水のタンクです。岐阜県上岡町の地下一千メートルに巨大タンクを作りそこに水を貯めた。知らない人はただ水を入れて何の役に立つのかと思います。事実何年間も何の成果も出てこなかったのです。ところが数年後にマゼラン大星群という星の爆発があった時に、カミオカンデの中でニュートリノという地球をも通りぬけていく物質の存在が証明されたのです。小柴さん以外にそのことの本当の意味を分かっている人がどれだけいたでしょうか。作った方以外に、そのことを計画した方以外に、その意味や目的は「金の無駄使い」と思ったのではないでしょうか。同様に私達の存在価値や意味や目的は私達を造って下さったお方に戻らない限り、分からないのです。この方に立ち返って来た時に初めて意味や目的が段々と分かってくるのです。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139篇13節)

 神様が私達を造られたその日に私達の全ての設計図が記されたというのです。私達の造り主はどなたであるのか。ある方は「私は父と母から生まれた。」というでしょう。しかし神様がその両親をあなたを生み出すために用いられたのです。両親のDNAがあなたの存在に丁度良いとして、そこに置かれた。神様は意味と目的をもって全てを書き記し、それは非常に良いものとして造られた。でもその人間は「自分の生き方の方がいい。」と神様を捨てて歩んだのです。その結果として設計図とは随分違う存在になってしまったのです。それが先程の『ちりだから、ちりに帰らなければならない』という悲惨な状態です。けれども希望があります。私達はこの神様に立ち返ることが出来る。キリストは、私達が神様と共に歩むためにこの世に来て下さった。私達がここに心を向け始める時、もう一度その意味や目的を掴み始めることが出来るのです。

 共産主義時代のロシア小説家アンドレイ・ビトフは27歳の時、地下鉄に乗っている時に、あまりに失望がひどく、将来なんてあってないようなものだ。人生に何の意味も見出せずにいたのです。すると突然「神がおられないなら人生には何の意味もない。」という言葉が現われた。彼はこの言葉がグルグルと頭をめぐり、地下鉄を降りる時には神様に向って歩み始めたのだと言います。私達をお造りになった方に心を向けていくことなしには、本当の生きる意味や目的は分からないのです。

 それでは私達はどういう風に神様に向っているか。私達のために神様があるという生き方では本当の意味で生かされないのです。私達が神様のために生き始める時に、それぞれが意味のある生き方に変わるのです。神を利用するのではなく、神のために生きる。これがキーワードです。神様はそのための全ての道を備えて下さった。

 上田カツトシさんは家庭も苦しく、人間不信に陥り、目も失明寸前になり、生活も荒れ果てていた中で「いつ死のうか。」としか考えていなかった。そんな時ラジオ放送の「喜びの声」を聞いた。彼は何かそこに希望があるかと、聖書通信講座に申し込み、少しずつ学んでいった。そして分かってきたことは、自分の中に罪があって、この罪の故に神様の愛も目的も分からなくなっているのだ。そして「今まで神を無視して歩んできたことを赦して下さい。今日イエス様を信じます」という単純な告白をして、イエス様に向って一歩歩み始めた時から彼の内には喜びが込み上げてきたそうです。
 私達は神様に向い、神様から命を頂くようにならなければ、生きる意味も喜びも目的も分からないのです。私達の人生がその方向に向い始める時、私達の内にも希望と喜びが沸き上ってくる。このことをしっかりと覚えたいと思います。

 あなたの人生は偶然でしょうか。今置かれている所に神様があなたを置かれたのではないでしょうか。そこから意味ある人生に私達を引き上げようとしているのではないでしょうか。まず第一に必要なことは、神様を認めることです。「神は何故私をこんな所に置いたのか」ではなくて、そこで神様に仕え始めるのです。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10章31節)

 私達が神を認めるだけではなく、自分のやること全てにおいて。例えば何のために働くのか。「稼ぐため。」それもあるでしょう。でも究極的には神の栄光のために焦点が合っているか否かです。このことが合ってくる時、生きることの意味と目的をしっかりと持ち始める。私達はこのポイントを外してはならないのです。その時に私達は初めて1つ1つの意味が分かってくる。神様は皆さんが神のために生きる時に報いを与えて下さることをご存知ですか。

 聖書には『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9章27節)』と書かれています。皆が神様の前に引き出されたとします。名前を呼ばれ「○○さん。あなたは2005年7月10日礼拝の中で」ドキッとして、「その中であなたはわたしを賛美してくれたね。」

 イエス様は「わたしのために、兄弟姉妹のために水一杯でも注いだ者は報いからもれることはない」と言われているのをご存知ですか。私達はいつ、あれを言われるか、これを指摘されるかとびくついているのですが、私の行いが次々出されていく中で、「こんな良いことをしてくれた。あんな良いことをしてくれた。」と言って下さるのです。私達は、あの失敗、あのときの罪は何時出てくるのかと思ってしまいそうですが、それらは何も言われないで「以上。」と私達はあっけにとられてしまう。「どうしてですか。私はこんなことも、あんなことも、酷いこともしてきたのですよ。」神様は「イエスに聞け。それは全部イエスが受けとったことだから、わたしはそれに関知しない。わたしが関知するのはあなたが良きことをしたことだけだ。それにわたしは報いよう。」と言って下さる。神様はそのように私達に報いて下さるお方です。もし私達が神のためにしたことであるならば、大袈裟なこと、すごいことでもないのです。Aさんにちょっと優しい言葉をかけた。Bさんが転ばないように手を引いてあげた。それらを神様のためにしたなら全部覚えているというのです。

 マタイ25章を読みますと多くのクリスチャンは覚えていないのです。イエス様が「あなたはわたしのために良いことをしてくれた」と言うと「いつしましたか。そんなことはしていません。」とやったことを忘れてしまっているのです。しかし神様は、神様のためにした良きことを全部覚えていて下さるのです。私達は自分のためにやることの方が得だし、それが当然だと思います。しかしその結果が虚しい生き方になるのです。

 ソロモンは人間世界で幸せといわれる富、名声、地位、力、権力など最高のものを得た中で「なんと虚しいことよ」と言っています。自分のためにしたことは虚しいのです。しかし人のために犠牲を払い、その犠牲が報いられた時には、嬉しいと思いませんか。自分が人のためにしたことで喜んでくれた。理屈で考えたら自分が犠牲を払ったのだからおかしいでしょう。それなのに、喜びが溢れる。神様はこういう存在として私達を造られているのです。聖書の世界では私達は神よりいくらか劣る者と定義しています。本来人間は神と比べるほど素晴らしい存在なのです。

 現在コンピュータ技術が進歩しています。コンピュータがとことんまで進歩した時に1つの問題が出てきます。それはコンピュータに自由意思を与えるかどうかです。理論的にはありうるわけです。コンピュータを組み込まれているロボットは受け答えやお茶出しもするようです。でもロボットに自由意思を与えたら、もしかしたらその瞬間から人間に反逆をし、人間を絶滅させるかもしれません。神様が人間に自由意思を与えたということはこれと同じことなのです。ものすごい危険を犯した。人間は神と交わりが出来るように神のかたちを宿す者として造られたほどすごい存在です。神様は、自由意思を尊重します。私達が強制的に何かをするのではなく、自分から進んで神様に従うようになるのを待っておられるのです。「この方に生涯かけて従っていこう。」と自分で決断するのを待っておられるのです。それが黙示録3章の言葉です。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

 私達が自分で心を開けるのを待っている。嫌々ながらではなく、喜んで神のために生きるようになるのを待っていらっしゃるのです。私達の人生はイエス様を信じたといっても神のために生きるようになってきたでしょうか。神のために生きるようになっていく時に、生きる喜び感謝が出てくるのです。

 この季節になると夾竹桃の白い花が咲きます。でも咲くとどんどんと落ちるのです。毎朝、毎朝掃かないと下に溜まっていく。同じ事を愚痴を言いながらではなく、喜んでする。そうしたことを神様が全部覚えていて下さる。私達は人のために一生懸命にやって、本当に喜んでくれた時に生きがいを感じます。しかし人は時々裏切ります。自分が期待した報いが得られない時があるでしょう。私達はイエス様のために全てのことをする。仕事もそうです。あの上司のため、あの会社のためではないのです。クリスチャンは今置かれている場所を、神様によって置かれた所として受けとって、神様に仕える。

 聖書には奴隷は主に仕えるように主人に仕えるようにと言っています。そして神様はそれに報いて下さるのです。勉強にしても、家庭にあっても、主に仕えるのです。この1点を忘れないように。そうするとそこに喜びが出てきます。問題は神のために生きるという姿勢があるかないかです。これが生きる意味と目的を持つことが出来るかどうかの大きな違いと言うことができるかと思います。神様は私達1人1人に生きる意味と目的を与えておられる。私達が日々そのように神様に仕えていく時、神様はあなたの使命を教えて下さると思うのです。

 ある姉妹はお子さんがいませんでしたがその時、その時で「神様、あなたにお仕えします。」と里親になり合計で24名の子供を預かった。それも非常に問題を抱えた子供ばかりでした。そして彼女の元で子供達がみな変わっていった。私が彼女の家に行った時にも丁度里子受け入れ依頼の電話が掛かってきた。病院にいるよりも彼女の元にいる方が良くなることがよくあったからです。最初は分かりませんでしたが、彼女が1歩、また1歩と喜んで神様に従った時に、大きな使命を与えられた。彼女を通して、その家族が癒されていくことが起きてきた。神様は1人1人にその意味と目的をもっておられる。正直私達はすでに神様の最善のプランから外れています。でも今神様に仕える時に、今から最善の道をいつも用意してくださるのです。
ホームページ | メッセージ一覧 | メッセージダウンロード

このメッセージを読まれたご感想・ご意見をご自由にお寄せください。 こちらまで!

アクセスカウンタ