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2005年7月24日 日曜礼拝メッセージ

「人間関係で疲れているあなたに」



 新約聖書 イザヤ41章10節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41章10節)

人間というのは「ひと」の「あいだ」と書きます。時々人間関係は煩わしいから1人の方がいいなと思うこともないわけではありません。しかし現実にはもし1人ならば、段々と寂しくなってくるでしょう。ドラえもんという漫画の中に「独裁銃」という話があります。この銃で打たれた人はその記憶も存在も全部消え去ってしまうという銃です。主人公のび太は一生懸命に我慢して絶対に打たないと思いますが「ここだけは」とズドンとやりますと、その瞬間から打たれた人の存在も何もかも消え去ってしまう。そして気が付いてみると誰もいなくなってしまった。その時になって初めて彼は自分の愚かさに気づくという内容です。私達は「煩わしい。」と思いながら、しかし人間関係の中で様々なエネルギーや良きものを頂いていると思います。ですから人間関係が良きもの、豊かなものとなっているかは、人間の存在そのものにまで関わるような大切な内容を含んでいるのではないかと思います。同時に人間関係を築いていくことの難しさも感じるわけです。

 私は本来、人間関係の大不得意な部類に属するものでした。こうして皆さんの前に立って普通にお話することすらも、私にとっては驚きなのです。では何故そのようになれたか。 小さい頃に私は学校で粗相をしたことがあり、それで非常にいじめられ「本当に自分なんかいないほうがいい。価値がない。馬鹿だ。」と思うようになりました。そして私は1つの確信「もしも私が本当の自分を現すなら、人は必ず自分から離れていく。自分は必ず嫌われる。」が心に出てきました。それで表面的にはにこやかな振りをしても、内側はとても寂しく、悲しく、孤独で、虚しいという言葉がぴったりでした。

 しかしそれが変わり始めました。第一印象で拒否しないことをお勧めしたいのですが。世界のベストセラーですから、ちょっとくらい知らなければと思い聖書をめくったのです。最初に読んだのは5つのパンと2匹の魚で5000人の人が食事をしたという話しでした。何とアホらしいことが書いてあるのだと思いまして、今度は聖書の1番最初のページをめくったら、神が天と地を創造したと書かれていました。私の確信は「神なんかいない。」でしたので、それきり聖書を閉じていました。大学に入り英会話クラスの宣教師を通して、神のことを聞き始めたのです。私は非常に反発していました。議論としては私の方が勝っていたと自負しているのですが、しかしながらいくつかの聖書の言葉が残っていくのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

 出来っこないと思いましたけれど、もし生まれ変われるならば、生まれ変わりたいと本当に思っていました。ですから少しづつ惹かれるのです。遂にキャンプで神様を信じました。でも人に色々と言われたくないし、毎朝父親が仏壇に拝むような家でしたので、クリスチャンになったと言えば大変な反対にあうかと思いまして、こっそりとではありますが最終的には「信じます。」と手を上げたのです。私は父親が大嫌いでした。最初に祈った祈りが「もし本当に神がいるならば、父親への憎しみを取って下さい。この気持ちを変えて下さい。」すると不思議に心の中の氷が溶けていくような感じがしました。その時から少しづつ、順調ではありません。変わったか、変わっていないのか分からないような感じでした。でも自分が世界中で一番嫌いだった自分が、そういう中で段々そうでもなくなってきた。特に大きく私を変えてくれたのは、今日のこの御言葉です。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41章10節)

 誰も本当の私を受けとめる人などいない。必ず人は私を嫌うと確信していたわけですが、どうやらこの神様はそうではなさそうだと段々分かった時に、不思議な安心感が出て来た。そうすると、決して開けることが出来なかった心の内を少しづつ出すことが出来るようになってくる。そうして気が付くことはそれは私だけではなく、同じように悲しかったり、寂しかったり、虚しかったりする人が他にもいるということが分かった。そして本当にこの方と共になり、受け入れられることを知るということがどんなに大切であるかが分かってきたのです。もし私達が誰かに本当に受けとめられたら、本当にリラックスして、安心感を持って生きることが出来ると思うのです。

 聖書には私達はその中にあったと言っているのです。本来人間は神様との平和の中に、安らぎの中に生きることが出来るようにされている。人の前で良い格好をするのではない。正直な自分でありながら、なお安らぎの中に歩むことが出来るように造られていた。神と共に生きるように造られていた。ところが人間は神から独立して自分の力でやっていこうとの考え方にいたった時から非常な恐怖感や恐れが出てくるようになったのです。なぜならそれまで守って下さる方がいたのです。共にいてだれよりも力持ちで、どんなものよりも偉大な方です。そんな方が共にいればどんなに安心感があるでしょう。ところがその方を離れるならば、自分で自分の身を守らなければなりません。私達はその時から非常な緊張感を、ある意味で苦しみや戦いの中に生きなければならなくなってしまったのです。そして多くの人はそういう自分を正しく受けとめることが出来ない。大切なのはあなた方を本当に受けとめて下さる方に返ることですと聖書は言います。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

 社員を募集するのに「資格:疲れた人」こんな人はいらないわけです。でも「よれよれになり自分でも自分を受けとめられなくなったどうしようもない者よ。わたしに来れ。」と言う方がいる。この方の前では見栄を張る必要はない。その方に受け入れられ愛されている、赦されている。それを感じることは、どんなに大きな喜び、どんなに大きな平安でしょうか。それを持ちなさいと聖書は言っているのです。それを持つため必要なのは、教会に必ずある十字架です。十字架は自分とは無関係だと感じていることが多いと思います。しかしこの十字架が私のためであると分かったならば、その時からあなたの内には新しい人生がきっと始まっていると思います。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(エペソ2章14〜18節)

 人間関係が上手くいかないその1つは"敵意"「嫌だ。」という気持ち。もし私達の内から憎しみや妬みや敵対心が取り去られていくならば、どんなに人間関係がスムーズになっていくでしょう。ある人は一生懸命努力してそれを克服する方もいるかもしれません。それでも深いところにあるその思いを取り去ることはなかなか難しいのではないかと思います。私達はどうしようもない自分の中に十字架を当てはめてみるとよろしいのですね。その思いが、十字架によって変えられる。でも順番があります。まずは神様との関係です。私達は対人関係の問題と思っているのですが、自分自身が受け入れられないことが多いのです。自分が嫌でならないのです。愛しているようでも本当は受けとめることが出来ない。それが出来るのが神様との関係。もしだ誰かが本当に自分を受けとめてくれているならば随分と違うのです。

 私の気持ちが変わっていったのにはこんなことがありました。ある羨ましい兄弟がいました。彼は直ぐにリーダーシップをとって面白くて人の上に立つような人でした。私は「何でああいう性格に生まれなかったのか。」と憂鬱質ですね。ある時に彼が私に「僕は君みたいになりたいよ。」と言われたのです。劣等感の強い私は、直ぐには信じませんでした。「そんなの騙されるか。」とね。でも嬉しかったです。真面目に言っているのは雰囲気で分かりますから。このことは私にとり大きなきっかけになったことは事実です。誰かが自分を受けとめてくれる。これは大きなことです。まして自分が尊敬する人や、自分があの人のようになりたいと思う人から言われるとすごく嬉しいですね。そしてもっとも素晴らしい神様が私達に何と言っているか。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43章4節)

 あなたの存在そのものが高価で尊いと言って下さるのです。私達がこのことを知ると少しくらい人から言われても「でもあの人は私のことを受けとめてくれるから」と結構安心感が出てくるのではないでしょうか。たとえば皆さんのところに子供が来て悪口を言ったとします。怒る人もいるようですが「子供だから」と許すことが多いと思います。それはもっと違う人に受けとめられているからです。特に神様に受けとめられていることを是非この朝知って頂きたい。神様はそのために全てのことを成して下さった。イエス・キリストにおいて私達の全ての罪を赦し聖めて下さるのです。「わたしはあなたとともにいる。」と言いきれる力を持つ方なのです。そして私達がこの力を味わい始める時に、少しづつ正直になれます。そして段々と自分自身を受けとめることが出来るようになってくる。そしてこれこそが隣人を受けとめる健全な受けとめ方なのです。神様は私達をそのまま受けとめて下さったのです。私達もこの愛をしっかりと受けとめていきたいと思います。その時にこそ私達は変わり始める。神様は私達をあるがままに愛する。あなたのそのままでいい。

 問題は正直にそのまま来るかどうか。「私はこういうことで本当は寂しいのです。悲しいのです。苦しいのです。悩んでいるんです。」と正直に神様のところに行けばあなたを休ませて下さるのです。この神様に出会う時に私達自身が豊かにされて、自分が段々と嫌ではなくなっていく。そして他の人も受け入れることが出来るようになっていくのではないでしょうか。『わたしの目にあなたは高価で尊い。』と言われる方の大きな愛の中で生きる。その生き方こそ人間が本来持っている豊かさが発揮される道なのです。

 神様の愛の御手の中でゆったりと憩い、自分自身を受けとめ、様々な弱さを持つ方も共に受け入れていく者にされていきたいと思います。神様はきっとそのこともしてくださり段々と人間関係を変えていって下さると思います。神様によって、表面的に人間関係を欲するのではなく、神様との関係を豊かなものとして、自分を受け入れ、他人を受け入れ健全な人間関係をキリストによって受けとめて頂けたらと思います。

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