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2005年8月14日 日曜礼拝メッセージ

「冒涜か敬虔か」



 新約聖書 ヨハネ10章31節〜42節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 この図を見てどちらが長く見えますか。パッと見て、こちらの方が長く見えませんか。実は同じ長さなのです。しかし矢印の向きや太さで随分と印象が違います。そして私達はこういう印象によって考えてしまう。印象や先入観念が、正しい見方や判断を妨げることが往々にしてあることを心に留めておきたいと思います。私達も気を付けなければ知らず知らず様々な固定観念、先入観念、偏見により、素晴らしい祝福を受け取ることも、見ることも出来なくなってしまうこともありうるのです。今日記されていることもその1つです。

私たちの目を見えなくするもの

「わたしと父とは一つです。」ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネ10章30〜33節)

 ユダヤ人達はイエス様の素晴らしい御業を見ているのになぜイエス様を受け入れることが出来なかったのかと私は考えるのですが、実際に2000年前にそこにいたら、恐らくユダヤ人達と同じような反応をするのかなと思います。人の形をとった者が「神の子である。」と言われても簡単には受け取れないところがあるかと思うのです。特にユダヤの世界では、神様の聖さを教えられています。

 聖書で「主」と訳されている言葉は原語では恐らく「ヤハウェ」か「ヤハバ」という言葉だと思われます。ユダヤ人達はその言葉を発することを躊躇したのです。偽りや汚れた言葉を出すこの唇が聖い主の名を呼ぶのは恐れ多いとその言葉は口をつぐんだ。あるいは「エロヒム」という言葉の母音だけを使ったのが「エホバ」です。これは当て字で、元々は「ヤハェ」か「ヤハバ」という言葉ではないだろうかと思われます。それ程"神"というものは畏れおののく方であった。それに対して日本人は何でも"神様"としてしまう世界ですから、大分考え方が違うわけです。その背景の中でイエス様が『わたしと神とはひとつです。』と言っのですから、彼らはカッときたのです。天地を造られし我等の主と自分を1つとするとは、とんでもない奴だと思ったわけです。

「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」(レビ24章16節)

 彼らはその耳で神を冒涜する言葉を聞いたのだから生かしておくわけにはいかないと思ったのです。神に熱心に仕えるつもりがキリストを亡き者にしようとする思いにまで至った。イエス様は十字架に掛かられる時には成されるがままに彼らに任せました。ローマ兵が来た時にも「それはわたしです。」と早く捕まえなさいとでも言うように、自分から言ったのです。でも『時』が来ていない時はイエス様は言うべきことはきちんと言います。イエス様は「自分がしたことは父なる神様から受けてしてしているのだ。それらの良き業のどのことの故に石打にしようとするのか。」と言ったのです。これに対して人々は良い業のためではなく冒涜のためであると答えます。実際にイエス様が良い業を成されたことは否定できないのです。

 イエス様は生まれてから30歳まで恐らく大工の息子として誠実に、真実に両親に仕えていたと思います。その後公生涯に入りました。その中でも特筆すべきは、弱い人々の味方となり、目の見えない人の目を開き、歩けない人を歩けるようにした。ザアカイのようにだれも友達がいなくて、金しかないと思っていた人の心の深いところを知り、傷ついた心に触れて下さる、癒して下さる方となった。そのどんなことをもって、悪いことをしたというのか。神を冒涜していると言えるのかと問うたわけです。でも固定観念、先入観、偏見が入っていますと、どんなにイエス様の素晴らしい業を見ていてもそれが素晴らしいとは思えないのです。イエス様のした全てのことも冒涜としか見えないわけです。私達の心の姿勢が整えられないと私達も同じ様になってしまうのです。

 他の人からその人の話を聞く時に前情報が入るとその言葉が残ってしまい、そういう観点からしかその人を見られないという経験はありませんか。色々な噂を聞いてしまうと、言葉の裏を考えてしまい、その人の真実を見ることが出来なくなってしまう。私達の中に潜む偏見や固定観念、先入観に気を付けていく必要があります。折角イエス様という素晴らしい実物教材があっても、ユダヤ人達はそれを見ることが出来ず、かえって冒涜としか見ることが出来なかった。彼らは熱心に神に仕えているつもりで、実は神様を否定する愚かな行動に出てしまっていた。私達も気を付けなければ神を否定する者になってしまう危険性があることを覚えておきたいと思います。さて、その時にイエス様は

「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。」(34〜39節)

 イエス様は三段論法をして彼らに答えています。第一にあなた方は神の言葉を信じています。"神の言葉"である聖書の言葉をイエス様は引用します。これは詩篇82篇6節の言葉です。神様が国々の王を立てて裁きの権威を与えています。その王たちを"神々"と呼んでいるのです。神様によって立てられた王たちを神様が「神」と呼んでいるならば、まして神様によって遣わされ良きことをしている"わたし"を「神の子」と呼んで何の問題があるのか。どうしてそれが冒涜というのかと言ったわけです。しかし論理的に言っても人々の心は素直に聞くことが出来なくなってしまうわけです。イエス様はそれでは「わざを見なさい。」と言いました。イエス様の言っていることが自分の理解を越えた事柄で受けとめ難いというのならば、その行っている業を見なさいということです。マタイ7章の中でイエス様はこう語られました。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7章15〜20節)

 私達が見分ける1つの手段は、"実"です。表面的に一見すると良く見えるのはよくあります。しかし本当に正しいものであるならば、そこには当然良い実が結ばれていきますということです。表面的に「これは真理だ。」と信じても、結果として何をしたのかを見ればそれは分かります。イエス様の行っている業を見るならばこれが悪魔から来ているとは思えないことは明白。イエス様が成さったことを1つ1つ見るならば「真に神の人だ。」と言うことが出来ると思います。ですからイエス様ご自身をしっかりと見なさいと言ったわけです。その御業を見なさい。もしあなた方が素直に見ることが出来るならば信じることが出来るだろうということです。

目の覆いを取り去る

「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」(40〜42節)

 イエス様はバプテスマのヨハネが宣教をしていた地に行きました。バプテスマのヨハネが言っていたことはこの方によって事実となった。確かにこの方は救い主だ。そこで多くの人がイエス様を信じる結果となった。私達はここから3つのことを教えられたいと思います。
 第1に私達の中に潜む偏見、先入観、固定観念を一掃してもらう必要がある。そうでなければ、折角イエス様を見ても良きものが見えなくなってしまう。色々な経験によって私達は自分の考え方を持っています。そのことの故に聖書が語っていることが見えなくなってしまうことはよくあることです。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(第2コリント3章14〜16節)

 私達は聖書を読んでも覆いが掛かっていて、その言葉が入ってこない状況になってしまっています。ユダヤ人達はそうだったわけです。例えば、盲人が見えるようになり、歩けない人が歩けるようになる。これはキリストとしての証拠。イエス様がなさったことはそれだと気が付くはずなのに、それが分らない。1つには彼らは、自分達の政治的なリーダとしてユダヤの国を勝利解放に導く、世界の冠の国に導くのがキリストだと考えていた。あるいは生まれた時からのイエス様を知っていますと、「あのイエスが神である。」と言われても受けとめられない。様々なものが隔てとなってイエス様を見ることが出来なくなってしまう。そのために彼らの心の中に聖書の言葉が生きて働かない。単なる律法、単なる教えでしかないわけです。これはユダヤ人だけではなく、私達も気を付けないと今日の聖書は「あの箇所ね。分かった。分かった」と新しく御言葉に聞こうとするよりも、知っている、分かっているという思いになったら危険です。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章20節)

 もう分かっている、知っているというのは、知るべきことをまだ知っていないという証拠です。私達は毎日「主よ。今日はどんなことを語って下さるのですか。」と新鮮な気持ちで新しく教えられなければなりません。サムエルは『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』とひざまずきました。知っている箇所でも「主よ。今日あなたはこのことを通して何を語って下さいますか。」という姿勢で全く変わります。「この命の言葉は私にどのような意味を持っていますか。」そのような思いで主の御言葉に接していく。主は十字架の大きな苦しみと痛みを通してこれらの御言葉を私達に下さった。私達は真剣にその奥義を知らされていくことが必要ではないでしょうか。その主の恵みにもっと触れていく必要があるかと思います。そのために必要なことは偏見、固定観念、先入観を一掃していただく。

 私が最初に四福音書を読んだ時に「なぜ聖書は同じことを繰り返し言うのだろうか。1回読めば分かる。」という感じでした。でもそこに謙遜でへりくだった心があるならば、その場面毎に、どんな気持ちで、どんな動機で、どの様に語って下さっているのかが新鮮に伝わってきたはずです。でもそのように読むことが出来ませんでした。私達は「この御言葉に触れさせて下さい。今聞けなくなっています。理解出来なくなっています。その奥深さを分からなくなっています。感動できなくなっています。こんな私にお語り下さい。」と主に持っていく必要があるのではないかと思います。そして私達の中から偏見や色々なものが取り去られていくのであれば、受けとめることが出来るようになる。しかし心の中に苦い妬みや敵対心がある時に、御言葉を正しく受けとめられなくなってしまうのです。その時にはまずそのことを悔い改めなければならないと思います。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ3章14〜16節)

 自分の中に妬みや敵対心を持つならば、固定観念や先入観に占領されてしまい、正しく見ることが出来なくなってしまう。このことを覚えて、まず悔い改めていくことをお勧めします。そして主の御言葉をそのまま読んでいく。福音書を通してイエス様の生き生きとした顔が想像できますか。イエス様がどんな風に語っておられるかが伝わってきますか。それほどにイエス様を知っていますか。イエス様の心は自分から遠く離れているようにしか思えないのであれば、真剣にこのお方を求めていきたいと思います。聖書の御言葉を繊細なイエス様の心までも分かるように読ませて下さい。理解出来るようにして下さい。と読んでいくことが必要ではないでしょうか。その時に御言葉が私達の内に生きた命の言葉になっていくわけです。聖書をそのように見る時に、イエス様の姿が私の前に現われて、イエス様を深く知り、イエス様にある幸いを覚えることが出来る。

 3番目にはバプテスマヨハネの姿です。ヨハネは何年間か人々に伝道して、イエス様を伝えた人物でした。イエス様は11章以降は十字架に向けて進んでいくところです。その前にバプテスマのヨハネにから洗礼を受けた場所に戻られたのです。この時にはヨハネはもう死んでいました。でもヨハネの言葉は1人1人の内に残っていたのです。「この方はヨハネが言っていたその通りではないか。」と多くの人々が信じるようになった。バプテスマのヨハネは殺されてしまいましたが、生涯をかけた彼の言葉は残り、後の日に人々がイエス様を慕い求めていく人達に変わっていったのです。私達の生涯も生き方そのものが神様を指し示すものに成らせていただけたらと思います。私達の中にも神の言葉が宿り、その命に生かされていく時に、私達もまた主の証し人に変えられていくことが出来るということなのです。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)

 主を見上げることにより、御言葉を自分自身に結びつける時に私達の内に命の言葉がみなぎり始めます。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇2〜3節)

 まず自分の中の固定観念や先入観などを主によって取り除いて頂き、主の言葉を本当に素直に受けとめて御言葉を思い起こしてその中に生きる者となっていきたいと思います。いつもイエス様を見上げることにより、現実の生活に命の力を持ちこんでくる。こういうクリスチャン生活に導かれていきたいと思います。

 インドネシアのパウロと呼ばれたユース・ブロニーは、元イスラム教12人のリーダーの1人でした。ドグマと呼ばれる教理の関係のリーダーだった彼が教理の勉強のために、聖書も勉強した。学者として真実に聖書に向き合った時に、彼は聖書の言葉に触れ、イエス・キリストによる救いを受けたのです。

「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(第2テモテ3章15節)

 私達が本当に素直な心で御言葉に向き合っていく時に、そのような心になっていく。ブロニーは何度も殺されそうになりました。独房にも入れられ、だれとも交わりが出来ない。普通は気が狂ってしまうそうですが、彼は神様と交わり、また覚えた御言葉をいつも反芻することで心はいつも守られていたそうです。私達はもう1度心を開いて、御言葉をもう1度生きた言葉ととして受けとめていくクリスチャンとして整えられていきたいと思います。
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