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2005年8月28日 日曜礼拝メッセージ

「新しい歩み」



 新約聖書 ローマ6章1節―14節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 ヨハネ福音書を学んできました。11章以降イエス様は十字架に向かって進んで行きます。十字架の意味をもう1度深く味わう必要があるのではないか、本当に私達の命が主によって生かされる恵みに進みたいと思い、今日はローマ書からご一緒に学ばせて頂きたいと思います。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(第2コリント4章16〜17節)

 私達の体は確かに弱っていきます。けれども内なる人は日々新たになる。とても素敵な言葉です。でも現実には「そうであればいいな。」と思うだけになってしまっていませんか。でも聖書はそうではなく『日々新たに』歩めると言っているのです。私達はそのことを無にしてしまっている。そういう意味でこの生き方をしっかりと握らせて頂く。特にこれから十字架を学んでいく前に、しっかりと知り受けとめておきたいと思い、何回かにわたってお話していきたいと思います。

今のあなたの状態を知る

 ある方が「自分はちっともクリスチャンになった風ではない。他の人は立派で素晴らしいことをしているのに、自分は少しも良くなっていない。自分はだめだ。もっと良き者になっていきたい。」と言った。指導者は彼の内に素晴らしい命がすでに与えられていること一生懸命に語った。でも本人は「相変わらず直ぐに怒るし、妬むし、嫉妬するし。立派な人なりたいと思うけれども自分はだめだ。」と言い続けていた。その時に指導者が近くにあった魔法瓶を例にとり「この魔法瓶が祈れると仮定して、『私は魔法瓶になりたい。』と祈ったとしたら、どうか」と質問しました。するとその彼は「それは馬鹿げたことだ。それはすでに魔法瓶なのだから。」と答えた。指導者は「あなたもそれと同じことをしている。主が死んだ時にあなたも死に、主がよみがえられた時にあなたもよみがえられた。」と答えました。

 私達の目が開かれるか否か。小さいことのように思えますが、これが大事なのです。私達も"魔法瓶のようなクリスチャン生活"に歩んでいることが多いかなと思います。私達に必要なのはすでに"どういう者にされているか"をしっかりと受け取ること。神様は私達にキリストにあって新しい生き方を期待して下さっている。それは難しいことではなく、もう出来るようになっていることをまず知って下さい。だからその祝福の生き方をしなさいと言って下さっているのです。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(1〜2節)

 長く教会に来ていると「自分は主に赦されたのだ。」と聞いていると思います。「罪が赦されて天国に行けるのだから。これで充分。」こういうクリスチャン生活が案外あるのではないでしょうか。「あんまりうるさいことを言わないで、これくらいでいい。」と。しかしこの生き方は標準ではありません。神様はもっと素敵な生き方をさせようとして下さっているのです。私達はその生き方を学ばせて頂くことは大切かなと思います。

 先日ある方が「あなたは本当に信じているクリスチャンですか。それともただ信じている信者ですか。」と聞かれたそうです。イエス様を信じて罪赦されているだけの信者か、それとも日々イエス様に生かされ、守られ、導かれて、様々な中でイエス様を信じるクリスチャンですかということです。私達の信仰生活はただイエス様を救い主として信じているだけではなく、日々キリストによって生かされている"日々新たなりという生き方"のクリスチャンにされていく必要がある。私達はそうなっていくためにはどうしたらいいのでしょうか。もちろんそれは罪にとどまっている生き方ではないと言っているのは当然でしょう。しかし私達が罪に対して死んでいることを知らなければならないといっているのです。「でも『死んでいる』と言われても死んでないよ。」と言う声が聞こえそうですね。確かに信じた後でも妬み、嫉妬、裁きなど色々なものがふつふつと出て来て「死んでない」と思うわけです。実はこれは先程の魔法瓶の話ですが、自分にされていることが分からない。見えていないということなのです。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(3節)

 キリストにつくバプテスマを受けたとありますが、その死にあずかるバプテスマ、すなわちイエス様の死にもあずかっている。原語の言葉で言いますと、「死の中に入っていく」ということなのです。イエス様を信じるとは私達もイエス様の死の中に入っていくということなのです。ですから当然私達も死んでいることを知らないのですかということです。正直「知らなかった。」と言うのが事実ではないでしょうか。でもこのことを知らないままに留めずに、それを知りキリストにある新しい生き方をするようになって頂きたいと思います。

共に十字架につけられた私たち

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(4〜5節)

 イエス様は死にましたが3日目に死を打ち破りよみがえったのです。その後多くの人に現われました。それは私達にも死と命を味わうようになるためです。『キリストの死と同じようになっているなら』とはどういうことなのでしょうか。死ぬとはどういうことですか。私達は「自分は弱いから、罪に打ち勝つことは出来ないのだ。私は弱いから、もっと力を頂いて罪に打ち勝っていくクリスチャン生活になっていくのだ。」と考えてしまうのです。これは反対で、私達の勝利の秘訣はキリストの死と同じようになればいいのです。徹底して弱くなっていくと、復活の力が現われるのです。私達は強すぎるから復活の力にあずかれない。様々なことを通して自分が惨めで弱い者であることを教えられていくと「こんなことをしていられない。何とかして頑張って、良いクリスチャンにならなくちゃ。」と思う。けれども頑張れど頑張れど出来ないということに気づかされる。やろうとすればするほど、反対の思いが自分の中に満ちてくる。私達が勝利していく道は、聖くなっていく道ではないのです。「愛することも、赦すことも、恨みや嫉妬を止めることも出来ない惨めな私です。」そのように弱っていくならば、いつか必ず逆転します。自分の中にその思いが消えている。この人のことを心配している。自分の中に豊かなものが与えられているという不思議な経験が私達の中に起きてくるのです。力が与えられるのではなく、弱められて死んでいくことなのです。その時に復活の命が自分のものになるのです。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(6節)

 『古い人』とは色々な言い方が出来ますが、生まれながら自分が「嫌だなと思っている自分」です。その『古い人』はイエス様を信じた時に十字架につけられた。見えませんが、キリストが十字架につけられた時に、私達も霊的な意味でそこにいたのです。私達は十字架がはっきりと分かる時に、罪の奴隷から解放されていくのです。そのことを『知っています』と書いてありますが、正直言うと私達はこのことが「分かっていない。」聖書で言う『知る』とは知的に知っているという意味ではなく、経験を通して分かるということ。私達は知的に知っていても、それを本当に受けとめていないということがある。今日ローマ書から学ぶのは自分がキリストと共に死んだことを受け取らせて頂くことが大切だということなのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。」と言えることが標準的クリスチャンです。全てのクリスチャンが言い得るように神様から期待されているのです。間違えないで下さい。そう言えないと救われていないという意味ではありません。イエス・キリストを自分の罪からの救い主、人生の主として信じているならば、間違いなく天国に行けるのです。でもそこに留まったらもったいないのです。神様はもっと新しい豊かな生き方を教えようとされているのです。キリストと共に十字架につけられたという確信に立つことが出来るなら多いに変えられていきます。そのことが分かると祈りが変わります。「私を十字架につけて下さい。」から「私を十字架にかけて下さったことを感謝します。」という祈りになるのです。そこに努力はありません。

 しかしそのことを受け取ろうとしても受け取れないかもしれません。これは11節に『このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』とあるように、「思いなさい」とは認めなさいと訳されている言葉なのですが、「私はキリストにあって『死んだんだ』」と一生懸命に思い込もうとして、実際は死んでいないと自分の経験は思うのではないかと思います。実はこう思わせて頂く前にもう1つの祈りが必要です。それは「私が本当にキリストと共に十字架にかかっていることが分かるようにして下さい。私にその目を開けて下さい。」です。

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章18〜19節)

 私達の心の目が開かれてその確信に立たせて頂く時に、私達の信仰生活は大きな変化を遂げるのです。今まで自分の力しか頼ることが出来なかった、自分の限界を越えることが出来なかった私達が『私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』という素晴らしい世界、新しい世界に生きることが出来るようになるのです。求めていけば求めていくほど神様ははっきり教えて下さいます。本当にそのことを教えて頂く時に真理は喜びへと変わっていきます。「私の目を開いて下さい。」と祈っていくことが大切、そして「私の内にキリストが生きている。」と確信があった時にどんな困難があってもめげない生き方が出来るようになっていく。キリストと共に死に、キリストの中に生きているという確信こそ、勝利の生き方が可能になっていく。これを知っているのと知っていないのとでは大きな違いがあります。聖書はそのことを是非求めるようにと言っています。この恵みに共に進んでいきたいと思います。

 昨年12月29日はスマトラ沖地震が起きた日です。スリランカで不思議に助かった人たちがいます。そこでは約3万人の人が亡くなりました。海岸沿いで「良きサマリヤ人の子供たちの家」という孤児院を経営しているアメリカ人のタイロン・サンダース夫妻がいました。ご夫婦と3歳の子供と28人の孤児と1人のスタッフがいました。その日雷のような音で目覚めて外を見ると地平線から津波が来ているのが見えた。慌てて子供達を起こして、多分逃げてもだめだと思ってボートに乗せようとした。ものすごい勢いで津波はやってきましたから、全員が乗るまえに津波が押し寄せて来るかもしれない。「何か特別なことがなければ無理だ。」と思った時に彼は「主イエス・キリストの御名によって、波よ止まれ。」と祈ったそうです。その時から波がスローモーションのようになって、寝ている子供たちを起こしてボートに乗せたそうです。

 何とか第1波をクリアして入り江の方に行きますと、第2の波が来た。ボートの舵は地元船頭が握っていたそうです。サンダース牧師はつい「ボートを波に真っ直ぐに向けて進んでくれ。」と言ったそうです。3、4メートルのボートに30人以上が乗っています。そんな小さな船であんな大きな津波を越えられるはずはないのですが、とにかく真っ直ぐ漕ぐようにとあまり強く言ったので船頭もそれに従った。その時に「主イエス・キリストの御名によって命じる。ボートよ。この波を越えていけ。」と再び祈った。結果としてはボートは大きな波のうねりを越えて、1人の欠けもなく全員助かった。彼はその時『神の霊が敵をとどめる』という御言葉が思い起こされて、そのような祈りが出て来たそうですが。このようなことが起きたのはサンダース牧師が素晴らしかったからでしょうか。彼の中に宿る新しいいのちによって彼はこのような歩みに導かれたのです。この命は私達全てのものなのです。

 私達は本物の津波に遭うことはないかもしれませんが、でも人間関係の津波や健康問題の津波、経済問題の津波、色々な津波を乗り越えようとしているのではないでしょうか。でも私達が本当にキリストを信じているのであれば、越えられないような困難を乗り越えることが出来る命が私達に与えられていることを知っていただきたい。キリストが死んだのは私も死んだということ。心の目がはっきりと開かれて、私達の内にはキリストの命が生きているという確信に立つことが出来たら何と幸いでしょうか。それは特別な人だけが持つ信仰ではありません。全ての人が持つことが出来る。そのためにキリストは死んで下さったのです。私達もこの命の主を仰ぎ、その道に歩むために、キリストの死にあずかるバプテスマと新しい命によみがえらされている事実をしっかりと知っていきたいと思います。その時に私達を通して神の栄光が現わされるものになっていく世界に導かれる生き方が可能になってくるのです。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)

 もし神様が皆さんの心の目を開いて「自分は本当にキリストと共に死んだ。」ことを見させて下さるなら、霊的に十字架と自分が結びついていたのだと明らかにされているのなら、私達の内にも新しい命がみなぎり出ることが出来る。「わたしはわたしを強くしてくださる方によってどんなことでもできる」とい確信に立つことができるのではないでしょうか。共にこの恵みの世界に導かれて様々な苦しみを乗り越えていくことが出来る、うろたえるのではなく、乗り越えていくことが出来るクリスチャンにさせられていきたいと思います。
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