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2005年9月4日 日曜礼拝メッセージ

「肉によって歩む者の限界」



 新約聖書 ローマ7章14節〜25節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 先週から肉による歩みと御霊による歩みをご一緒に学んでおります。神様を信じたといっても、私達はなかなか思い通りに歩むことが出来ないのが現実ではないでしょうか。 「三日坊主」という言葉がありますが、頑張って三日間は続くのですが、四日目になると前以上に酷くなる。こんなことがしばしばかと思います。でも神様は三日坊主ではない新しい生き方を教えようとして下さっている。そのためにはいくつかのことを悟らせて頂くことが大切であろうかと思います。前回、私達の罪はキリストと共に死んでいる。私達の古い人はキリストと共に死んでいるとお話をしました。でも正直言って私達の心の目が開かれないので、そのことを認められない。

救われた喜びが

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)

 私達はこのことを知らされていく必要がある。「神様どうぞそのことを私が分かるようにして下さいと祈ったらいいですよ。これは神様が明らかにして下さることです」とお話したわけです。今日はもう1歩進んで律法にも死んでいることを認識する。イエス様が私達のために死んで下さったことを理解した人は「感謝だな」と思うとともに、この方に何かお返しをしなければいけないのではないかと考えるようになるのです。聖書には

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14章15節)

 聖書の教えを守ろうと考えることはごく普通だと思うのです。しかしクリスチャンとして救われたことを喜んでいた人が、一旦神様のために何か良いことをしようとするとここでつまづくことが多い。聖書の話を聞いて、最初は罪の話を聞くのは嬉しくないですが、「それが私のためでもあった。」と分かった時に非常に嬉しくなって感謝して歩んでいたのが、今度はこの神様にお従いしていこう、良いことをしていこうとすると心も体も重くなってくるのです。聖書を読まなくては。祈らなくては。奉仕をしなくてはなどと、あれも、これもと考えただけで疲れてしまう生き方になってしまう。

 そればかりか、しなければならないことが出来ないだけでなく、してはいけないことをしてしまう。厳しい言葉が口から出てしまう。我慢が出来なくて直ぐにいらだち、人を裁いたり、恨んだり、妬んだり。「とてもクリスチャンとは言えない。」そんな気持ちになってしまう。それがここに記されている人の姿です。自分の姿だと思う方もいるのではないでしょうか

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(14〜17節)

 私達は自分でコントロールして動かすことが出来るはずですが、果たして本当にコントロールしていますか。赦すべき時に、怒りが爆発してしまうことがある。私達は自分ではないものによってコントロールされている。「自分のことはよく分かっている。」と考えますが、現実にはよく分かっていない。自分のコントロールから外れてしまっているのです。あなたは罪の支配に置かれてしまっているのです。『私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。』私達は自分ではないものの支配下に置かれてしまっている。聖書はまずこのことを知りなさいというのです。何故ならば、そこに解放の源があるからです。「こんな風ではいけない。もっとしっかり赦さなくちゃ。また変なことを言ってしまった。神様、今度こそ愛しますから。」と言った途端に酷い言葉や思いが心を支配する。私達は自分では気付かず、悪しき者のコントロール下に置かれてしまっている。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(18〜20節)

 良いことをしようとしていない時には、自分の中の罪の姿はそんなに明らかではないのです。でも良いことをしようとすると出来ない、したくない自分があることに気付かされる。それによりその人は自分がそんなに良い者ではないことに気付く。私達は勘違いして自分はもう少し良い者であると思っているのです。私達の内に善はないことを知るべきです。律法を守ろうとして出来ない自分。色々な悪がはびこっていることを教えられるのです。自分がそうしたくないのに、そうなってしまっている。ということは私の中に住む"罪"のコントロールに置かれてしまっている。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」(ローマ7章7〜9節)

 むさぼってはならないと言われると欲しくなるのです。「食べてはだめ」と言われると食べてみたくなる。「見てはならない」と言われると見たくなる。私達にはそういう反抗する心が元々あるのです。赦しなさいと言われると赦したくないのです。これが私達の本当の姿です。私達は罪の奴隷であることを知る必要がある。そのことを知らなければ私達は律法主義から解放され本当の意味で自由になることは難しいのです。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ7章4節)

 ではどうしたら律法主義の生き方から解放されるかと言いますと、律法に死んでいると知ることから始まるのです。簡単に言うと律法に縛られる必要はない。あれをしろ、これをしろと縛られる必要がない。もっと端的に言うと神様は私達にこれをしなさい。あれをしなさいとは一切言っていません。愛し合いなさいと言っても愛し合えないでしょう。赦し合いなさいと言っても赦し合えないでしょう。嫉妬してはならない、妬んではならない、裁いてはならないと言ってもそれは出来ないでしょう。だからもはやそのような生き方はしなくていいです。ではその出来ない部分はどうするのですか。イエス様が補って下さったということです。

神様に全てを明け渡す

「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。−私は律法を知っている人々に言っているのです。−夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」(ローマ7章1〜3節)

 夫は正しい人ですがとても細かい。妻はこの夫と一緒にいるのは嫌だと思っているのです。ところが片方にとても優しく助けてくれる人が現われた。そしてそちらに行きたいと思うのです。でももし行ったならそれは姦淫です。ではどうしたらいいのでしょうか。律法が死ねばいいのでしょうか。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5章18節)

 律法は正しいですからいつまでも続くのです。ではどうすればいいのでしょうか。その律法に扱われている"私"が死ねばいいのです。死ねば法律に従う必要はありません。そしてその人は死んだだけではなく、そこから新しい命が再び与えられる。私達は古い生き方から解放されて、新しい生き方が出来るのですと言っているのです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2章13節)

 もし私達が律法に死んで神の御霊によって生きることが出来るようになる時に、私達の内に神様が働いて、しなければならないのではなくて、積極的にしたいという思いを起こさせて下さる。口語訳の方が分かりやすいかもしれません。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2章13節(口語訳))

 神様が私達の内に働きかけてそのようにさせて下さる。ですからクリスチャンはあれをしなければならない、これをしなければならないではなく、あれもさせてもらいたい、これもさせてもらいたいと積極的に出来るようになる。神様は私達が神様の恵みの中に生きることを教え諭して下さっている。でも多くの場合、私達はこの恵みを味わっていない。クリスチャンになって長いとか立派なクリスチャンであったとしても、この恵みにあずかっていないことはあるのです。では一体何を知ることが必要なのでしょうか。

 まず第1に私達はもはや律法に縛られていないという事実をしっかりと受けとって下さい。私達はいつも神様から「お前はまだ足りない。お前は充分ではない。お前はだめだ。」と言われていると思っていませんか。神様はそうは言っていません。私達は律法に死んでいるのです。神様から責められることはないのです。それは足りない部分は全部イエス様が十字架で全部受けて下さったからです。私達は出来ないそのままでいいのです。 私達の内には罪のコントロールがありますから、良かれと思っても出来ないのです。ですから私達は出来ない自分を神様にお委ねする。その時に神様がして下さる恵みに生きることが必要だということなのです。私達は一切を明け渡して主に委ねる。ところがローマ書7章に出てくるのはそれを自分の力で頑張ってやっている人の姿なのです。自分の力で出来ると思っていますから頑張るわけです。そうすると「出来ない」ことがよく分かる。私達に必要なことは何でしょうか。これはパウロ自身の経験ですが、

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(24〜25節)

 「私には出来ない。」と正直に認めることが大事です。第2にイエス様こそ、このための全ての必要を十分に応えられる方としてイエス様に委ねていく。内に来ている聖霊に委ねていく。その時に不思議に今まで自分が何度悔い改めても出来なかったことが自然にスムーズにことが進むのを経験するようになると思います。単純なことですが、是非ともこのことを経験していただきたい。聖霊を受けているかどうか不安な方は、まずイエス・キリストを自分の罪からの救い主、人生の主として信じ受け入れていただきたいと思います。「イエス・キリストが死んで下さったのは私の罪を赦すため。」このことを信じますと私達の内側が聖められますので、聖霊が宿ることが出来るのです。そしてこの聖霊様に明け渡していく、委ねていく、お任せしていく。すると今まで出来なかったことが出来るようになる経験をしていくのです。何度も失敗して、また元に戻ってしまうこともあります。また失敗したら「赦して下さい。またお任せします。」と繰り返していく内に失敗する回数も減っていくようになる。

 最後に、中国でクリスチャンの集会がありました。大人数で風呂が足りないので、多くの人は川で体を洗っていた。すると1人が足の痙攣により溺れ始めた。たまたまそこに泳ぎの非常に上手な人がいたので、直ぐに助けてくれるのかと思ったら、助けに行かないのです。周りの人は「クリスチャンであるのに、犠牲精神のない、愛のない人か」と裁いていたそうです。いよいよその人が沈みかけた時に、初めて彼は水に飛び込み救い出してきたそうです。後から聞くと「もしあの段階で助けにいけば、かえって2人とも助からない可能性が高いのです。」と答えた。まだ力が残っていると、溺れている人は必死で捉まりますから、2人とも泳げないで沈んでします。でも溺れて力つきている人は簡単に救えるのです。彼は力がなくなるのを待っていたのです。

 私達も弱さや惨めさを嫌というほど味わうのはこのためなのです。力がなくなって元気がなくなって何も出来なくなり「神様助けて。」としか言えなくなるのを待っておられる。この時に神様は簡単に救うことが出来る。私達は色々な弱さの中にあって自分は弱いことを認めて神様に明け渡していく、委ねていく生き方に変えられていきたいと思います。その時に神様の恵みが日々生活の中に訪れてくることに体験すると思います。
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