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2005年9月25日 日曜礼拝メッセージ

「新しくされた者の歩み」



 新約聖書 エペソ4章17節〜32節 より
メッセンジャー
 仙台福音自由教会 吉田 耕三牧師

 9月は肉による歩みと御霊による歩みの違いについてご一緒に学ばせて頂きました。今日は洗礼式でもあり、私達がどのようにして新しい歩み、新しい生き方をなしていくべきなのかの総まとめとして頂きたいと思っています。

古い人を脱ぎ捨てる

「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」(17〜19節)

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2章1〜2節)

 神の御霊を頂く前の私達は悪しき霊に支配されていたことをご存知でしたでしょうか。私達は神様に従っていきたいという気持ちと同時に、従いたくないという肉の思いもあります。その思いに支配されて気付かないうちに神様が喜ばないことを平気でやるようになっていたのです。道徳的にも無感覚で、痛くないから平気でやってしまう。ところがあなた方は新しい感覚を頂き始めました。時々教会に来はじめると最初は良い気持ちで来るのですが、段々と教会に来ると自分がえぐり出されるようで嫌だと感じる方がいるようです。これは私達の中に段々と光が入ってくるからです。暗い部屋に光が入ると、ほこりが見えて汚いと思ってしまう。神の光が入ると私達は今まで感じなかった痛みや苦しさを感じてくる。私達は生き返ってくると痛みを感じ始めるのです。回復してきたから痛みを感じ始めた。私達はそのことを通してもっと素晴らしい生き方に導かれていくべきなのです。

「しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」(20〜21節)

 私達は表面的にだけ聞いていることがある。例えば簡単な事柄として「安っぽい恵み」という言葉があります。恵みというのは受ける資格のない者が一方的に受けるもの。ところが、それを「赦されているのだから何をしてもいい」と軽く扱ってしまうことがあるよう思います。赦すためにイエス様はむごたらしい罰を受けて下さった。釘を打ちつけられ、頭にはいばらの冠を被せられ、背中は鞭で血だらけです。それはこんな私を赦し救うためであった。このことが本当に分かったなら私達は「そのようにしたくない。」という思いが働き始めるのではないですか。しかし元々自己中心な私達ですから、御言葉も自己中心にしか読まない。そうするとイエス様の十字架の重みをあまり考えなくなってしまうこともありうる。この重みを通してイエス様は私を救ってくれたのかと受けとめた時に、この方に心から従っていきたいと思うのです。私達はただ単に知っているというのではなく、その中にある重さや豊かさや深さをもっと受け取っていく必要があるかと思います。具体的にその教えとは何でしょうか。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(22〜24節)

 日々に古い物を脱ぎ捨てていくのがクリスチャンということを覚えていますでしょうか。ある方に「悔い改めが大事なのです。」と言いましたら「俺はもう洗礼の時に悔い改めた。」と言われました。そうではなく日々悔い改める。自分の中で「これはまずい。」と思う出来事は日々にあります。その度に悔い改めに導かれていくべきです。でも正直言って「面倒くさい。いちいちそんなことをしていられない。」という思いが出てくる。でも「このためにイエス様は死んで下さっていたのだ。」と日々古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着る。「それならば。」と頑張って神に従っていこうとする人が必ず陥るのがローマ書7章15節の『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。』です。

 頑張ってするのには限界があり、最終的に「出来ない」と分かるだけです。それが分かるために律法があると聖書は語るのです。私達はそこでそういうことにおいて足りないと認めていくことが必要でしょう。1つ1つを見ても、どれ1つ出来ていないのが正直なことかと思います。でも「だからやらなくていい。」のではなく「私はこのところが足りない。ですから主よ、出来る者に変えて下さい。」と祈っていくことが大切なのです。それが具体的には『またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』となるのです。どのようにして新しくされるかというと、御霊によってです。「私は人を憎む者です。妬む者です。怒る者です。」と自分の罪を認め告白するということです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)

 私達が自分の弱さを正直に認めて「だから主よ。私を変えて下さい」と求めていく時に私達の内に新しい命と力が与えられ始めていくのです。

御言葉を自分のものとする

 次に『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』では『身に着る』とは具体的に言うと、御言葉を自分に結びつけると考えて下さったらいいと思います。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)

 御言葉が『罪と死の原理から解放した』というのなら、私は解放されたのだと真剣に受けとめていく。その時に神様は不思議にその御業をなさって下さる。

 ミス青森コンテストで優勝した岩井さんという方がいました。会社の人達から「うちの会社からミス青森が出た」と祝福されたそうです。岩井さんばかりちやほやされて面白くなかったのでしょう。先輩からトイレに呼び出され、そこで硫酸を浴びせられた。その人は現行犯で捕まりましたが、岩井さんの焼けただれた肌は何度も手術をしましたが元には戻りません。「なんで私に悪いことがあるのだ。あんな酷い人が。」と憎しみを募らせていた。治療をしていた病室の窓から十字架が見え、無性にそこに行きたくなり、よく分からなかったけれども毎週メッセージを聞く中で彼女は「私はあの人が悪い。なんて酷い人であろうと思ってきたけれども、同じように今度は自分の中にその人を恨むという形で起きてきている。この罪こそが問題なのだ。」ということが分かってきて、そしてこの罪のためにイエス・キリストが十字架に掛かったことが分かり、イエス様を信じるように導かれた。そして洗礼を受ける日に牧師が彼女に「イエス・キリストがあなたの罪を赦して下さったのが分かったというのですが、あなたに硫酸をかけたその人を、あなたは赦しますか」と聞いたのです。ついに彼女は「イエス様が私を赦して下さったように、私もその人を赦します。」という決断をしたそうです。

 その時から石井さんの中に実際に伴う力が現われ始め、和歌山の刑務所にいるその人に「私はあなたのことを本当に憎んで、あなたなんか死んだらいいのにと酷いことを思うようになりましたが、問題はその罪であると教えられて、悔い改めて今こうしてイエス様を信じ、今私はあなたを赦そうとしています。いや、赦します。」と手紙を書いたそうです。最初は「そんな綺麗ごとを。何か魂胆があるのでは。策略があるのでは」とその人は思ったそうですが、何通もの手紙を読むうちにそれが石井さんの本心からのものであることが分かった。そして彼女も獄中で、自分のことをそこまで思い赦して下さる石井さんの信じる神様を信じるようになった。そして出所時には石井さんは和歌山まで彼女を迎えに行き、自分がアパートを借りて一緒に住むようになった。そればかりかその人が看護士になりたいという願いを持っていることを知った石井さんは彼女が看護学校に行けるようにサポートした。

 実際にあった話です。神様の力が私達を支配する時にこれほどの力が働き始める。私達のうちにはこれほどの力、命がやってきているのです。問題は私達が御言葉を受けとめてそこに一歩従い始めるか否かなのです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2章13〜14節)

 神様がその思いを起こし導いてさせて下さる。私達は「そこに歩ませて下さい。」と自らを主に委ね明渡していく。その時に新しい生き方が私達のものになっていく。これは自分の力では不可能です。神様の力を頂いて心を聖めて頂くということです。

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」(25節)

 クリスチャンは正直でありなさい、1つの体に導かれているあなた方は争うのではなく1つとなりなさいということです。よく日本人には表と裏があると言います。何でもかんでも言いなさいということではありません。でも正直であることが出来るようになりなさいということです。

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(26〜27節)

 すべての怒りが悪いわけではなく「義憤」と言って、正しく怒ることがあります。でもその場合も夕方まで。それ以上怒っているならいき過ぎ。それは私達の怒りは容易に恨みや敵対心に変わるからです。もし私達の怒りが恨みや敵対心に変わっていくならば、私達は変なものの影響を受けるのです。

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」(ヤコブ3章15節)

 私達の中に恨みがあるならば、悪霊の支配下にある。だからそれは早めに悔い改める必要があります。そうでないと自分の心が自分でコントロール出来なくなる。そしてこれこそが悪魔に隙を与えることになる。妬み、恨み、嫉妬、敵対心などの罪は気をつけて下さい。私達が悪魔の影響を受け始めるからです。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(29〜30節)

 皆さんの口から出ている1日の言葉のうち、どれ位が人の徳を養う言葉になっているでしょうか。非難と不平と文句ばかりということはないでしょうか。そのことを一番悲しんでいるのは皆さんのうちにおられる聖霊様です。皆さんが言う言葉や態度や思いで聖霊様は傷ついている。聖めの祈りをもっともっと祈ることが必要ではないでしょうか。

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(31〜32節)

 この御言葉を聞いて「そのように歩んでいる。感謝です。」と言う方はもう少し自分の心を深く見た方がいいかもしれません。よくよく見るとそうでない自分に気付かされるかもしれません。しかし「だからこんな私はだめだ。」というのではなく「この私を新しくし下さい。そして本当に喜んであなたの歩みが出来る者にして下さい。」と日々祈り新しい衣を受けとっていくことが大切ではないでしょうか。

 神様は日毎に御言葉をもって臨んで下さいますし、また臨めるように毎朝聖書の御言葉を読みましょう。その御言葉に生きる時に新しい生き方が可能になる。主の前に新しい人として、今までの「出来ない」という思いに支配されないで、神様によって「させて頂く」という世界に生かされていきたいと思います。
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