ここに愛がある





人の愛と神の愛



「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌8:5)

人は愛なしには生きられません。誰かに愛されている、誰かを愛しているという「愛の確認」がある時に初めて、生きている実感がわくのです。しかし、多くの人は、人と人との愛に裏切られ、傷ついています。それは、人間の愛には限界があるからです。自分の愛にも、相手の愛にも限界があるのです。しかし、それでもなお、私達が心豊かに生きるためには、決して裏切ることのない人と出会う必要があるのです。その方こそが神様てす。この方と出会う時、私達の肉体は衰えても、心は日々新しく、豊かにされる人生となるのです。




愛する者(神)によりかかる人生



「よりかかる」ということの中には、クリスチャンの信仰の姿勢が表されています。まず第1に「よりかかる」ためには、すぐそばにいなければなりません。聖書の神は、どんな時にもいつもそばにいて下さり、「あなたを決して捨てない」と言われる神です。いつも共におられる神は、あなたが決して知られたくないと思っていることも全部ご存知です。にもかかわらず、あなたの悪いところさえも全て知った上でなお、あなたを愛しいつもそばにいて下さるのです。

次に、「よりかかる」とは自分の弱さを知った人の姿です。あなたはどんな時に弱さを感じるでしょうか。病気の時、自分の無力さを知る時、孤独な時、死に直面した時・・・。そんな時、よりかかれる方がいるのは幸いです。

第3に「よりかかる」とは愛の姿です。愛していない人、信頼していない人には寄りかかれません。聖書の中で、神様は「わたしはあなたを愛している」と228回も語っておられます。自分でも自分を愛せないような人間に向かって、「愛している」と呼びかけて下さるのです。この神様になら、安心して寄りかかることができるのです。




人生の荒野を共に歩む



神様を信じたら、何もかも一気にうまくいって問題がなくなる、とは聖書は語っていません。人生は荒野だ、生きていくことはつらい。しかし、私(神様)に寄りかかりなさい。一緒に人生の荒野を歩いていこうと語っておられるのです。荒野とは砂漠です。道のない世界、行く先の見えない世界です。こんなはずはなかったということが起こりうる人生なのです。又、それは一人ぼっちの孤独な世界です。どんなに愛して育てた子供もやがて離れて行き、結局は一人になるのです。

また、荒野は死の世界でもあります。私達の人生、結局は100%確実に死がくるのです。死が人生の目的だとしたら、何のために生きるのかわかりません。多くの人が、この人生の荒野を一人でトボトボと下って行くのです。しかし、聖書の神は、私に寄りかかりなさい、私と一緒に、この荒野を天国に向かってのぼっていこうと招いておられるのです。




キリストにある真理



「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、命なのです。」(ヨハネ14:6)

神様に「よりかかる」時、

  1. 行くべき道が見えてくる。その道は天国に続いている。
  2. 決して裏切られることのない真理を知ることができる。
  3. たとえ私達の肉体は土にかえっても、魂には永遠の命が与えられる。
と聖書は語っています。なぜなら、二千年前に、イエス・キリストが私達の死と罪を解決するためにこの世界に来られ、私達の身代わりとなって死んで下さったからです。どんな罪も、どんな過ちも、十字架の上でキリストが負って下さったのです。許されない罪は一つもありません。このキリストの愛を知る時に、私達は愛する者にかえられていくのです。




ありのままを愛する



人は、自分が愛された経験がなければ、人を愛することができません。愛すべきだとわかっていても、どのようにしたらよいかわからないのです。どんなに相手のことを思っていても、「愛されたい」というばかりで、愛することがわからない、すなわち、相手の立場ではなく、自分の立場の中にしか生きられないのです。

子育ての中でも、「こうあるべきだ」というイメージが私達の頭にしっかりとあって、そうなったら子供は愛せるけれども、そうでないと愛せない−これが私達の現実です。けれども、愛するとは、相手の立場にたって、そのままの姿を素直に受入れ、一緒に生きることです。私達は、すばらしい子供を神様から託されているのです。自分のイメージを押しつけるのではなく、ありのままの子供を抱きしめて下さい。育てて下さるのは神様なのです。




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